“あんまり、ドキドキさせるようなことはしないで”

「……」

 部活が終わって山口とも別れた帰り道、手持無沙汰の合間と合間。
 ふとした隙間時間に思わず考え込んでしまう程度には、あの言葉に惑わされている。

 あの後名前姉ちゃんは偶然リビングに降りて来た兄ちゃんに頼んで家へ送ってもらって帰ってしまった。兄ちゃんは“蛍じゃなくて良いのか”なんて言ってたけど、名前姉ちゃんは疲れているだろうからと適当に理由をつけて兄ちゃんの背中を押すようにリビングから出て行ったのをよく覚えている。

 ああ、何だろう。あの言葉の意味は何だろう。

 考えれば考えるほど期待が膨らんで、体温をじりじりと上げていく。



「……」

 おかしい、なんだかぼんやりとする。

 ふとした時に思い浮かぶのは――仕事であった嫌なことばかりだったのに、今は不思議とそれを思い出すことが少なくなった。

 その穴を埋めるように思い出すことといえば、此処に帰ってきてからのこと。

「――おい」
「……」

 小さなひとつひとつのことがふわふわと頭の中を漂って、あたたかい気持ちにさせてくれる。少し前までは苦しくて辛いことが頭の中から離れなかったのに、まるでそんなことがなかったみたいに穏やか。

 穏やかで――でもどこか胸を締め付けるような矛盾した“なにか”が私の中にある。

「おい、名前!」
「!」

 肩を叩かれて驚いた私がそっちに顔を向けると其処には呆れた顔をした明光が立っていて、丸めた雑誌で自分の肩をトントンと叩いている。……なんだかおじいちゃんみたいな仕草。

「どうしたの?」
「それはこっちの台詞だっての。さっきから話しかけてもぼんやりしてたんだよ」
「え、ええ……?」
「自覚なしか」

 こりゃ相当きてるなあと明光が呆れた顔で私を見てくるけど、どういう意味なのか全然分からない。どういう意味かと聞き返すと明光は呆れた顔のままため息を吐いて、それはこっちの台詞だと雑誌の端で頭を小突かれた。

「なあ名前、お前ちょっと前からおかしいぞ」
「え?」
「あー、具体的に言うと数日くらい前から」
「う……」
「心当たりあるんだな」

 じゃなきゃ何もない場所見つめてぼーっとしてないよなあと明光は片眉を上げて笑う。明光の察しのいいところ、やっぱり好きじゃない。

 ――でもその察しの良さに、私は何度も救われてきた。

「あの、ね」
「おう」
「最近……その……」
「なんだよ。もったいぶらずに話してみろって」

 別にもったいぶってる訳じゃないのに。そう言いかけた私が口を開きかけた時、不意に視界が歪んだ。

 ――あれ、そういえば私、何時もの薬って飲んだっけ……?

「名前?」

 グラリと歪んだ視界に釣られて大きく体が傾く。目の前の明光の顔もちょっとだけ歪んで滲んだ。

「おい、名前!」
「あ、明光……?」
「お前もしかして具合悪いんじゃないのか?」

 一瞬飛びかけた意識が戻った時、明光が抱き抱えるように私の体を支えてくれていることに気が付いた。まだちょっとだけクラクラするけど、さっきみたいに意識が飛ぶほどまではいかない。やっぱり薬を飲み忘れたせいだ。

「ちょっと薬、飲み忘れちゃったみたいで……」
「お前なあ……。それどこにあるんだよ」
「鞄のポケットの中……ちょっと待って、いま」

 自分で出すからと明光の体越しにちょっと腕を伸ばした時、開けたままにしていたリビングのドアの前でこちらを見ている蛍ちゃんがいることに気が付いた。

「あれ、蛍ちゃ――」
「え、蛍?」
「!」

 蛍ちゃんはちょっとだけ驚いた顔をしてそのまま何も言わずに二階へ上がっていってしまった。何時もならただいまって言ってから部屋に上がるかこっちに来てくれるのに……。

 何時もとちょっと違う蛍ちゃんの様子を不思議に思ったけど、それよりも薬を飲まないといけない。伸ばそうとしていた腕の先にあった鞄のポケットから明光が出してくれたピルケースを開く。急な症状には頓服薬を飲むように……だったよね。

「それ水なくて良いのか?」
「うん。……もうちょっとだけ肩貸して、明光」
「いやまあ、駄目とは言わないけど……」
「?」
「あれ絶対誤解してるから、自分で誤解解きにいけよ」

 じゃないと俺がとばっちり食らうからなと苦笑いしている明光。とばっちりって何のことと聞くと明光はおいおいと口の端を引きつらせて、さっきまで蛍ちゃんがいたリビングのドアの方を親指で指し示す。

「さっき蛍がそこにいただろ」
「? うん」
「俺たちのこの状況見てただろ?」
「うん」
「駄目だ全然分かってねえな」

 クラクラしていた頭と意識がちょっとずつはっきりしてきた。明光が言いたいのは……私が具合が悪くて明光に支えてもらった時のことっていうのは分かるけど、それに誤解ととばっちりってどういうこと?

「意識はっきりしてるか? ちゃんと考えられるか?」
「う、うん? 大丈夫だと思う……」
「お前、蛍に好きって言われてる立場の人間だろ?」
「!? ちょ、直球で言わないでよ……」
「今はそんなこと良いんだよ! んで、好きな女が自分の兄貴と抱き合ってたらどうよ?」
「え? でも明光は私のこと支えてくれたんじゃ――」
「だからそういうんじゃないんだって!」

 それは“お前の視点”で“お前と俺の間の事実”だけどと明光は眉を吊り上げる。明光が私を支えてくれただけで別に変なことは何もなかった。蛍ちゃんは偶々それを見ていただけでしょと私が言うと、明光はそれが問題なんだよと自分の額に手を当てる。

「その事情を知らない蛍の目には、ただ兄貴とお前が抱き合ってたようにか見えないってこと!」
「……た、確かにそうかも?」
「そうかも? ――じゃなくてそうなんだよ!」
「ええ……」

 なんか明光がちょっと怖い。勢いがあるっていうか圧があるっていうか……なんか必死そうな感じ。明光の勢いに押されつつも何となく現状が分かってきたけど、それくらいで蛍ちゃんの機嫌が悪くなるのかな。

「……お前いま、それくらいで蛍の機嫌悪くなる訳ないなんて思っただろ」
「なんで分かるの?」
「何年の付き合いだと思ってんだよ。……あのなあ、男なんて単純な生き物なんだよ」

 好きな奴が笑えば嬉しくなるし、好きな奴が泣けば心配になる。

「? つまりどういうこと?」
「つまり、好きな奴が別の男と一緒だったら妬くんだよ」
「え、ええ? 明光なのに?」
「俺相手でもだよ。つーか蛍にしてみたら、俺相手だからってとこあるけどな」

 蛍ちゃんからすれば明光はお兄さんなのに、それでも嫉妬するなんて訳が分からない。

「そこは取り敢えず置いといて、とにかくお前は蛍の誤解を解いてこい」
「わ、分かった」
「それと」

 ちゃんと“答え”が出てるならそれも言ってやれよ。

「!」
「気付いてないと思ってたのかよ」
「だ、だってさっき話の途中だったし」
「お前の口から聞いておきたかっただけで、大方の察しはついてるって」
「……察しがいいところ、やっぱり嫌い」
「はいはい」

 さっさと行けよと明光が言った時、玄関のドアが開く音がした。閉まる寸前のドアの向こうに見えたのは蛍ちゃんの後ろ姿で、偶々一緒にそれを見ていた明光が早く行ってこいと私の背中を押す。

 時計を見上げれば時刻は8時前。外はすっかり暗くなって涼しくなる時間。

「行ってくるね、明光」
「おう」

 気をつけてなと手を振る明光に背を向けて足を踏み出す。

「……蛍ちゃん」

 穏やかで胸を締め付ける“なにか”に名前をつける為に、今の関係を終わりにさせて。


 




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