「――はあ」
勝手に苛々して勝手に落ち込んで、馬鹿みたいだ。
何時もの練習と自主練を終えた頃には七時をとっくに過ぎていた。相変わらず煩い日向と影山と途中で別れて、家が近い山口とも嶋田マートの前で別れて家に帰る。玄関を開ければそこには名前姉ちゃんの靴が揃えて置いてあった。
ああ、今日も来てるんだ。何時までいるんだろう。早く荷物置いてシャワー浴びて、それから――。
「……え」
柄にもなく浮足立ってふわふわとした気分は、リビングの前でガタンと音を立てて崩れ落ちた。
――兄ちゃんと名前姉ちゃんがリビングのソファーで抱き合ってる。その事実が眼鏡越しに視界に飛び込んできた。
「……」
よく見れば名前姉ちゃんの顔色はよくないし、抱き合っているというよりも抱き抱えて支えているに近い兄ちゃんの体勢。多分名前姉ちゃんの具合が悪くなってそれを兄ちゃんが支えただけ。それだけだ。
それに二人の間には何もない、はず。
「――……」
よく考えれば分かるし結論も出てる。そのはずなのに頭と胸に燻るジリジリとした痛みが引いてくれることはない。矛盾した気持ちにどうするべきかと考えようとした時、鞄に手を伸ばす名前姉ちゃんと目が合った。
その瞬間、ジリジリした痛みが大きく一度脈打って、逃げるように部屋に入って荷物を床に投げ捨てる。頭では分かってる、それでもこの痛みは消えてくれない。何度か深呼吸をしても収まらない痛みに嫌気がして、頭を冷やす為に家を出た。
「……はあ、馬鹿らし」
本当に馬鹿らしい。そのひと言に尽きる。
頭を冷やす為だけに家を出ただけで行く宛なんてない。それに遠くへ行く気にもなれなかった。シャワーもご飯もまだだし、当然宿題も手を付けてないし。やらないといけないことは沢山ある。それでも今は家に帰る気にはなれなかった。
軽く家の近くをひと周りして帰ろう。それに天気も怪しいし、遠出して雨に降られたら困る。適当に近所を歩くつもりで爪先を適当な方向へ向けた時、玄関のドアが開いて名前姉ちゃんが家から飛び出してきた。
「蛍ちゃん!」
「え?」
「良かった、まだ家の前にいたんだね」
遠くに行ってなくて良かったと言いながら笑う名前姉ちゃん。さっきまで悪かった顔色は嘘のように良くなってた。……というか僕が家から出て行ったことに気付いてたんだ。
「あのね、蛍ちゃんさっき明光が――」
「別に気にしてないよ」
「え?」
咄嗟に嘘をついた。
「名前姉ちゃんが具合悪くて兄ちゃんが支えてただけでしょ」
「う、うん。そうなんだけど……」
「見れば分かるよ」
見れば分かる。だけど頭で理解しても納得できないジリジリとした痛みは消えてくれない。
「別に僕には関係ないし。変なことじゃないし」
「蛍ちゃん」
僕には関係ない、変なことじゃない。
自分に言い聞かせるように口から出る言葉に少し嫌な気持ちになった。
「それに名前姉ちゃんは」
「蛍ちゃん!」
「!」
「あのね、その――蛍ちゃんが誤解してなくて良かった」
「え?」
“誤解してなくて良かった”?
そのたったひと言にガツンと頭を殴られた。例えるなら影山のジャンプサーブを後頭部で直撃――いやそれよりももっと強い衝撃かもしれない。
「誤解されてたらきっと悲しかったから」
「それって、どういう」
「え? ええと……」
誤解されたら悲しかった。それってつまり、僕に兄ちゃんとの関係を誤解されたくなかったってことで良いのかな。
――そうじゃないのなら、他にどういう意味がある?
目の前で困った顔で僕を見上げる名前姉ちゃんの頬は少しだけ赤い。それが具合が悪い訳でも慌てて家を出てきたからでもないことを、察しの良い僕は分かってしまった。
「あのね、つまり――蛍ちゃんに変な誤解をされたくなくて」
「うん」
「それってつまり、その」
「……うん」
「……」
一瞬だけ黙り込んだ名前姉ちゃんが、何かを決めたようにぐっと息を飲んだのが分かった。
「……それってつまり、その」
「うん」
「私が、蛍ちゃんにそういう風に見られたくないってことで」
「うん」
――頭の中がグルグルして上手く言葉が出てこない。
目の前の蛍ちゃんは何時も通りの顔で私を見下ろしているのに、私だけが変に空回りして混乱してる。
明光に言われた誤解は解けたはずなのに、ついさっきこの気持ちを終わらせるって決めたのに。
「――私、蛍ちゃんより何個年上か知ってる?」
「兄ちゃんと同じ、七つ上でしょ」
「そうだよ」
目の前の蛍ちゃんが、ちょっとだけ期待をした目で私の姿を映していることに気が付いた。
「蛍ちゃんは高校生で、私は社会人だよ」
「知ってる」
世間なら明光と同じで兄弟と思われる年の差。
社会人と高校生。文字で書くのは簡単だけど、その間の関係に名前をつけるのは難しい。
「それに、私ってちょっと狡いところあるし」
「療養で戻って来たのを内緒にしてたこと?」
「そ、そう……それにお見合いのこともあったし」
「別にもう済んだことでしょ」
「……」
――言い訳がなくなってしまった。
「名前姉ちゃん」
「?」
「僕に言いたいことは、それだけ?」
「……ううん」
狡い私はこの関係を終わらせる為に必死に言い訳を探したけど、蛍ちゃんはそれを許してくれない。終わりにできたら楽で苦しまなかったし、蛍ちゃんにとってもきっと良いことだった。
私よりも若くて未来があって、これからどんなことだってできる蛍ちゃんの足を引っ張りたくなかった。
「ねえ、蛍ちゃん」
「なに?」
「きっと私からこの話を聞いたら後悔するんじゃないかな」
「……どういうこと?」
「この先、私自身どうなるか分からないし、蛍ちゃんだってまだまだやりたいこともしたいこともあるだろうし……。蛍ちゃんの足を引っ張るようなことになりたくなくて」
この気持ちに名前をつけてしまったら、きっと引き返せない。
「馬鹿じゃないの」
「……えっ?」
「あ、いや。……ごめん、口が滑った」
今まで聞いたことのない蛍ちゃんの言葉にびっくりして目を丸くすると、蛍ちゃんはバツが悪そうに頬をかいて息を吐く。
……口が滑ったってことは普段そういう言葉遣いってことなのかな。ちょっと意外かも。
「僕は将来のこととかよく分かんないし、今のところ考えてない」
「そう、なんだ」
「意外?」
「……ちょっとだけ。蛍ちゃんしっかりしてるし」
「そんなことないと思うけど」
高校生にしては落ち着いていてしっかりしている蛍ちゃんのことだから、人生設計もしっかり考えてると思っていたんだけど。
でも本人が違うって言ってるんだからそうなのかな……?
「だからその、今は名前姉ちゃんの気持ちとか考えが聞きたい」
「蛍ちゃん」
「聞かせて」
「……聞いたら絶対後悔すると思うけど」
「しない」
迷いなく言い切った蛍ちゃんに、迷ってばかりいた私の気持ちがピタリと止まった。
「――あのね、蛍ちゃん」
「うん」
「私、蛍ちゃんのことが好きなの。ひとりの男の人として」
穏やかで胸が締め付けられる“恋心”。
七つ下の幼なじみへの気持ちに名前をつけて口にした瞬間、目の前が温かくて真っ黒な物に包まれた。
それは前に一度、蛍ちゃんを迎えに行った帰り道で黒い傘が落ちた時と同じ。
――私、蛍ちゃんに抱き締められてる。
「蛍ちゃ――」
「僕も好きだ」
「蛍ちゃん!?」
「ずっと前から、名前姉ちゃんが想うよりずっと前から」
――ポツリ。
蛍ちゃんの口から溢れた同じ気持ちに胸の奥がじんわりと熱くなった時、薄暗い空からひと粒の雫が落ちてきた。
「ずっと一緒にいてほしい」
「……私で良ければ」
「名前姉ちゃんじゃなきゃダメなんだけど」
「そ、そう?」
「当たり前でしょ」
ポツリ、ポツリ。
空から降る雫は少しずつ数を増やして、私の頬と蛍ちゃんの頭を濡らす。
「――蛍ちゃん、濡れちゃうよ」
「分かってる」
「風邪引いちゃうよ」
「それは名前姉ちゃんも一緒でしょ」
「そ、それはそうだけど!」
「でも今は、もうちょっとこのままでいたい」
もうちょっとだけ。
そう言って蛍ちゃんは私を腕の中に閉じ込める。
雨のせいか誰も家の前を通らなくて、ポツリポツリと地面を弾く雨の音だけが耳を擽る。
不思議と静かで穏やかな午後8時過ぎだった。
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