「……ごめん、名前姉ちゃん」
「蛍ちゃん」
私の腕をパッと離してリビングから出て行ってしまった蛍ちゃん。それと入れ違うようにお風呂から上がってリビングに入ってきた明光が驚いた顔をしていて、目を丸くしたまま私に顔を向けてきた。
「名前?」
「……私って本当に、駄目だなあ」
「!」
目が熱くなって息が閊える。ゆらゆらと視界が揺れると同時に溢れてくるのは今日の雨粒にも負けないくらいの大粒の涙で、ぎょっとした明光が駆け寄ってきて膝をつくのが視界の端に見えた。
明光が首にかけていたタオルを差し出してくれるけど今はそれを受け取れるだけの元気はなくて、私の手は静かに震えることしかできなかった。
「おい、名前」
「私が悪いの。だから蛍ちゃんは叱らないであげて」
「仮にそうだとしても――」
「ごめんね、明光」
私は狡いから、いまは何も言えない。
「……今日はもう帰るね」
「送る」
「大丈夫だよ。一人で帰れるから」
「良いから。ほら行くぞ」
……勢いで言ってしまった。今の今まで、ずっと飲み込んできた言葉を。
「……名前姉ちゃん」
困った顔をするくらいなら、いっそ振ってくれた方がマシだ。
「……」
灯りもつけないまま飛び込んだ部屋で深く息を吐いた時、玄関が開く音がして顔を上げた。
「……兄ちゃんと名前姉ちゃん」
部屋の窓越しに見えたのは兄ちゃんと名前姉ちゃんの姿。その姿は直ぐに傘に隠れて見えなくなって、街頭にぼんやりと照らされたふたつの影は名前姉ちゃんの家の方向へ消えていく。
遅い時間だし、家に送っていくことは珍しいことじゃない。それでも今は兄ちゃんと名前姉ちゃんが並んで歩く姿を見たくなかった。
「僕がもし同じ年だったら、こんなに悩まずに済んだのに」
“もしも”という仮定の話は好きじゃない。どう考えて答えを導き出したとしても、それは仮定の話でしかないし、それが叶うことなんてほとんどない。
名前姉ちゃんと同じ年だったらと考えても、そこから導き出した答えは答えにならないことは痛いほどよく知っている。
「……これからどうしよう」
あんなことを言った手前、普通に会うことは難しいような気がする。何よりも、名前姉ちゃんを困らせてしまった。距離が変わらないどころか、遠くなった気がする。
「……なあ、名前」
「?」
「何があったのか、俺は何となく分かってるから」
「えっ」
「馬鹿、何年一緒にいたと思ってんだ。何となく予想つく」
お前、蛍に言われたんだろ。
「……何を?」
「とぼけるな。……蛍、名前が帰ってきてからずーっとソワソワしてたんだ。それに昔からお前にべったりだったし、何だかんだで真面目だからな」
「……明光の察しのいいところ、好きじゃない」
「はいはい」
それでどうするんだと明光が聞いてくるけど、私はそれに直ぐに答えを出せるほど思い切りが良くない。それにずっと昔から今も変わらず、狡いまま。
「……七つ年下だよ?」
「それは関係ない」
「だって――」
「自分は社会人で蛍は高校生になったばかりだから? それとも親戚に見合い勧められたから? 他にも理由あるだろ」
「……」
「前にも聞いたよな。何があったのかって」
「……」
「……お前、昔から自分の悩みは人に話さないけど、それされるとその悩みに気づいたヤツが自分よりも気にするって分かってる?」
「え?」
「確かに悩みって人に話しにくいし、話しても解決しないことだって多い。……俺だってそうだった」
でも話さないことや打ち明けないことが周りのヤツに対しての優しさだとは、少なくとも今の俺は思わない。
「あとで知られてお互いに傷つくのが一番辛いことだって、俺は知ってる」
「明光」
「話せるなら早く話した方が良いし、わざわざ帰ってくるくらいの何かがあったんだろ。俺だけじゃなくて、多分蛍もお前になにかあったって気づいてるぞ」
「……」
話しても楽になれないことを知っているし、解決しないことも知っている。
それでも少しだけ、ほんの少しだけ、胸に閊えていた錘が揺れるのが分かった。
「少しくらい、素直になっても良いんだぞ」
「……明光」
「俺も蛍も、頼りなく見えるか?」
「それ言うの狡い」
「お前も狡いだろ」
私の幼なじみは、私よりも狡い。
「……ほんと、嫌になっちゃうなあ」
「名前」
「……言わないでおくつもりだったのに」
もしも私が、もっと素直で真っ直ぐだったら。
でもその“もしも”は“もしも”の話だから、現実になってくれない。
「……でもまだやっぱり言えない」
その“もしも”が叶うことならと思ったこともあったけど、現実はそんなに甘くない。
「言うなら、蛍ちゃんが一番が良い」
「名前」
「狡くてごめんね」
「いや、そんなことない」
何も言えないとさっきまで思っていたいたくせに、直ぐに気持ちを変えてしまう。こんなにあっさりと他の意見に流されてしまうのは――きっと心を許した幼なじみだから。
「ほら、家に入ったら早く休めよ」
そんで、蛍にちゃんと向き合ってやれ。
「ありがとう、明光」
「別に良いって。それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
私に背を向けて歩き出す明光の姿が曲がり角で見えなくなるまで見送ろうとしたけど、振り返った明光が早く家に入れと言うように手を振ったからそれは断念した。
「……ありがとう」
私は少しだけ、狡い自分と戦えるような気がする。
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