はじまり



 イタリア某所にある広い邸宅。その大理石で作られた廊下の一角で、ヒールの音を響かせて歩くワンピース姿の少女とトランクを片手に持つシャツ姿の青年が肩を並べていた。

「おい、忘れ物はねえだろうなぁ?」
「ないわ。ちゃんと確認したもの。それにほとんどの荷物は向こうに送ってしまったから大丈夫よ」
「それなら良いけどな」
「それよりも、病み上がりなのに大丈夫?」
「平気だ。あれから何日経ったと思ってる」
「それもそうね」

 その青年はひとつに結った長い銀髪を揺らして目を細めると邸宅の玄関を開けて少女を先に外へと通し、目の前に停めていた黒塗りの高級車の鍵をポケットから出すと後部座席にトランクを積み助手席のノブに手をかけたまま少女の方へ振り返る。

「……お前ジジイにはこの件、秘密にしてるんだろ。どう口裏合わせたんだ」
「きちんとお仕事についてはお話してあるわ。お話したのはそれだけだけれど、嘘はついていないもの」

 それを口にした少女は丸く大きな桜色の瞳を細めると目の前の青年に向かって微笑みかけ、それに青年は食えない奴だと溢しながら助手席のドアを開けると少女が乗り込んだことを確認してからドアを閉じて自分も運転席へと乗り込んだ。

 何時もと格好が違うから新鮮ねと笑う少女に青年は煩せえと何処か気恥ずかしそうに言いながらエンジンをかけ、そのままハンドルを切ると邸宅を後にした。イタリア特有の石畳の道路を走りながら、少女は窓から隣の青年へ目を向けると膝の上で緩く指を組む。

「そちらのことはお願いね。お爺様、結構心配性だから」
「ああ、分かってる。適当にこっちも口裏合わせておくから安心しろ」
「ありがとう。定期的に連絡はするから、それほど問題にはならないと思うわ」
「心配性なのは仕方ねえだろ」

 お前は一人娘なんだ。

「……それもそうね」
「“向こう”には話をつけてある。こっちと変わりねえ仕事が出来るはずだ。それでも不足があったら連絡しろ」
「了解」
「それとこっちにも連絡は寄越せ。色々煩せえからな」
「ええ、分かっているわ――と、あまり丁寧な口調も考えものね。向こうに着いたら少し気を付けないと」
「気にするほどじゃねえと思うけどな」
「そうかしら?」
「その辺の金持ち連中よりはマシだ」
「ふふ、面白いこと言うのね」

 心底嫌そうにそう言った青年に少女はクスクスと笑った頃には石畳の道路はコンクリートへと変わり、目の前に空港が見えてきた。青年は駐車場の適当な場所に車を停めると直ぐに降りて助手席のドアを開け、少女が降りてからドアを閉めると後部座席からトランクを出して車に鍵をかけた。

 そのまま空港に入り色々な手続きを済ませてトランクも預け、乗降口の前で少女は足を止めて青年をゆっくりと見上げる。

「それじゃあ行ってきます」
「気を付けて行って来いよ」
「ありがとう。そうそう皆のことなのだけれど、時間が合わなくて直接挨拶が出来なかったの。後でごめんなさいと伝えておいてもらえる?」
「……げ」
「嫌な顔をしないで。お願い」
「……分かったからそういう顔するのやめろ」
「ふふ」

 青年が口角をピクリと一度引き攣らせてやや頬を赤らめてそう言うと少女は少しだけ肩を竦めて笑い、キャビンアテンダントの乗車を促す声に気付き一度そちらを見てからまた青年へ顔を向けた。

「此処まで送ってくれてありがとう。行ってきます」
「足元気を付けろよ」
「ありがとう」

 そうして青年と別れた少女は乗車口を通り飛行機に乗り込むと、ファーストクラスのフロアに足を運んで自分の座席に腰を下ろす。程なくして飛行機は離陸しシートベルトの着脱が許されると少女は手慣れた様子でシートベルトを外し、窓へと目を向けた。

 雲の上、真っ新な青だけの空に少女は目を細めると、胸元にある大切な二つの物に右手を添えてそっと服を握った。

「……並盛町」

 もう十数年も行っていない思い出の場所で、私の大切な人が昔からずっと住んでいるところ。

 きっと町並みも変わってしまっている。知らない建物が増えて知らない人が住んでいて、私が想像するに及ばないことが沢山起きたはず。そしてあの人も……私のことは記憶に残っていないはず。


 それでも私は“あの約束”を果たすため、あの人を生かすために行かなければ。



少女時計番をする

   

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