実家に帰ってきて荷物を開けて、久しぶりに親と話しながら取った夕食は格別。お風呂に入って部屋に戻ってきた時、タイミング良く携帯電話がメールの着信を知らせた。

「……嶋田くんからだ」


 今日は本当に偶然だったな。驚いた。
 明日辺り暇なら、久しぶりに色々と話聞かせてくれよ。あっちで何してたとかさ、色々あるだろ?

 時間とか場所とか都合が良いなら言ってくれて良いから。取り敢えず、連絡くれよな。



「……嶋田くん」

 メールに目を通した名前は自分の右手に輝いている指輪をちらりと見つめるとしばらくしてからひとつ頷いて、携帯電話に文字を打ち始める。そしてそのメールは数分後に嶋田の元へ届き、その文面を見た彼は口元を緩ませて段ボールの影で小さくガッツポーズをした。



「名字、こっち」
「ごめん。遅れた?」
「いや、約束より早いくらい。んじゃ行くか」

 翌日の夕方。俺は名前と適当な場所で待ち合わせて、飲みに行くことにした。日中は俺は仕事あるし、名前も親と積もる話があるだろうから遠慮した。たとえば将来のこととか――いや、考えるのは止めだ。

 取り敢えず馴染みの店に入って、酒と適当に料理を頼んだ。酒と通しが出されて乾杯をして、ようやく腰を落ち着ける。

「ああ、そういやまだバレー部OBには会ってないよな。この前練習したばっかりだからしばらく練習ねえけど……まあ、あいつらの実家行けば会えるな」
「うん。久しぶりに皆に会いたいな」
「何か高校の時を思い出すな。暇なら直ぐに誰の家集合とかやってたし」

 あの時は、本当に何もかもが目まぐるしかった。楽しさも悔しさも、それこそ黒歴史なんてものある。だけど、それが今になっては良い思い出だ。こういうのって確か、ノスタルジーとか言うんだったっけか。

「ふふ、そうだね。もうずっと昔なんだって分かっているけれど、実感ないなあ」
「名字らしいな。俺なんかもう、おっさんとか言われるからな」
「えっ」
「ああ、近所の子供とかにな。まあ、確かにあいつらから見ればおっさんだよなあ」

 そう言ってビールに口をつけると、ほっと肩の力を抜いて名字が笑う。俺がおっさんなんて言ったから、自分はおばさんだなんて思ったんだろうな。……しばらくはおっさん発言は封印するか。

「嶋田くんまだまだ若いじゃない。私と同い年なのに」
「そりゃそうだけどな。名字は向こうで何してるんだ?」
「事務の仕事。そんなに珍しい仕事じゃないでしょ」

 名字はそう言って肩を竦めると、少し悲しげな表情をしてグラスに口をつけた。伏せられた睫毛でほんの少しだけ影が出来ていて、あいつの表情が少しだけ暗くなる。確か名字って――。

「大学、服飾系のやつとか言ってなかったか?」
「あ……うん。一応ね」
「だよな。……そうか、事務仕事か。大変だろ?」
「ううん、そうでもない。ちょっと他の人のミスがこっちに飛び火してくることはあるけど……」

 なんでその仕事に就かなかったんだって聞きたかったが、敢えて聞かなかった。現実と理想が違うことは大人になってから嫌でも経験した。名字もそれに直面して今の仕事をしているんだろう。

 俺だって今まさに、現実と理想の境目で戦ってる途中だ。

「名字、グラス空になりそうだぞ。何飲む?」
「えっと……」



「……俺って狡いよなあ」

 思わず出る苦笑い。何時もの帰り道から少し逸れた場所で俺は背中に名字を背負って歩いていた。月明かりで薄暗い道を俺は背中の名字を気遣いながらゆっくりと足を進め、取り敢えず酔いを覚ますという名目で彼女との時間を作った俺は昨日偶然に会った河原に名字を下ろして、その隣に腰を下ろした。

「大丈夫か、名字?」
「うん、大丈夫……」
「ったく。ほら、水」
「ありがとー……」

 ちょっとフラフラすると言いながら俺の渡した水を少しずつ飲む名字。細い首が小さく上下しているのを見ると、少しだけ愛しくなった。

「なあ、名字」
「なあに、嶋田くん?」

 少しだけ舌足らずな名字の声。そんな些細な事に胸が苦しくなるなんて、俺は中坊か。

「……いや、何でもない」
「えー? 変なの」
「そんなことねえよ。まだ酔い覚めないみたいだな……もう少しゆっくりしてくか」
「うん、そうする……」

 ふわふわとした頭で返事をする名字に俺は目を細めると、心の隅で大人って狡いとか思いながらあいつの右手に視線を落とす。其処にはやっぱりあの指輪が月明かりで鈍く光っていて、少しだけ苛々した。

 そんな時、隣の名字が突然クスクス笑い始めた。何かあったのかと顔を向ければ、あいつはにっこり笑って、両手で持っているペットボトルの水を少し揺らす。

「ふふ、私びっくりしちゃった」
「何が?」
「嶋田くんが、自分はおっさんって言われてるって聞いた時」
「何で?」
「嶋田くん、もう結婚しているのかと思ったから」
「……え」

 何でそう思ったのかと俺の方がびっくりした。ああでも、もし結婚したらその親戚の子供とかにはおじさん呼びされるのか。まあ確かにそう考えるのはおかしくないか。

「まさか。まず相手がいねえよ」
「えー、そうかなあ。嶋田くん高校の時、結構モテてたのに」
「は!?」

 そうだったのか、俺!?

 いや、でも……全く心当たりがない。別段何かアプローチがあった訳でもないし、バレー部の見学は――何人か見かけた覚えがある。でもあれは俺じゃねえだろなんて思ってた。もしかして、あれなのか。

「やっぱり知らなかったんだ。嶋田くんって女子の間でよく名前出てたんだよ」
「ええ……それは知らなかったな」
「……私がいたから、多分言わなかったんだろうけど」
「!」

 ぽつりと呟くようにそう言った名字は、何処か遠くを見つめていた。小さな手に握られている水は少しだけ揺れて、透明な波紋を作っていく。それが静けさに拍車をかけていて、どうにも無視出来なかった。

「えと……ほら、よくあるでしょ。マネージャーと部員の恋愛って。それだと思われていたみたい」
「あー……なるほどな。そういや、結構名字と一緒にいたもんな」
「うん。だからだと思う。嶋田くんに悪いなって思っていたんだけど、言うものちょっと躊躇っちゃって」
「まあ分からなくもないが」

 もしそれをあの頃の俺が知っていたのなら、俺たちはどう変わっていたんだろうか。

  

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