「だって……嶋田くん、もう結婚しているのかと思ったから」




「……酔っていたからって何であんなこと言っちゃったんだろう」

 嶋田くんと飲んで自宅に帰った翌日、朝を迎えた布団の上で私はかなり後悔していた。酔った勢いであんな事を聞いてしまったけれど、嶋田くんに嫌な思いをさせなかったか凄く心配。

 まだ……結婚、していないんだよね?

「……」

 右手の薬指に嵌めた指輪に何となく目がいってしまって、少しだけ気分が落ち込んだ。しばらくそうしていたけれど、このままだと一日ずっとこのままで居てしまうような気がして無理矢理布団から抜け出した。

 身支度をして朝ごはんを取ると、そのまま家を出て散歩をすることにした。どうしても家に居るとさっきのことばかり考えてしまいそうな気がして嫌だったから。

「あ、そうだ……」

 帰ってきて行こうと思っていた場所に行っていないことを思い出した私は、適当に進んでいた道から目的地へ向かうそれに足を向けてバスに乗り込んだ。



「懐かしいな……」

 烏野高校。私が学生だった時から何も変わってない。

 私は職員室に立ち寄って顔見知りの先生と話して許可証を貰うと、そのまま校内を歩き回った。夏休みに入った校内は静かで、音楽室や美術室の前を通ると金管楽器の音やカンバスの擦れる音が聞こえてくるくらい。私はゆっくりとした足取りで校内を一通り見て回ってから、一番行きたかった場所へ足を向けた。


「……うん、此処も変わってない」

 第二体育館。男子バレーボール部が部活をしていた場所。ちょっと改修されているみたいだけど、あの時と変わらない。この空気も広さも、あの頃のまま。でもあの頃のままで居られないこともある。

「でも、本当に懐かしい。此処は今も男子バレーが使っているのかな」

 それなら休暇中に練習を見てみたい。烏養のおじさんが今でもコーチをしているのかな。もしそうなら頼んで見せてもらうことが出来るし、そうでないのなら顔見知りの先生を通じてお願いしてみよう。

 そんなことを考えながら体育館の中を歩き回っていたらドアの方から声が聞こえてきて、私はそっちへ顔を向ける。其処には私が見知った懐かしいあの黒いジャージを身に付けた短い黒髪の男の子と色素が薄い髪をした男の子が不思議そうにこっちを見ていた。

「どちら様、ですか?」
「ごめんね。ちょっと校内見学っていうか、久しぶりに来たから色々見て回っていたの」
「久しぶりっていうと……もしかして卒業生ですか?」

 黒髪の男の子の問いかけにひとつ頷いて、私はその子たちのジャージをじっと見つめる。

 私が三年間、一緒に戦ってきたあのジャージだ。

「驚かせてごめんね。私は名字名前。烏野高校の男子バレー部OGです」
「えっ!」
「意外?」
「いや、そうじゃなくて。こんなに美人な人がマネージャーしてたんだなって……」
「ふふ、ありがとう」

 色素の薄い髪の男の子からリップサービスを貰ったところで、黒髪の男の子が右手を差し出してきた。

「初めまして。バレー部主将の澤村大地です。ポジションはウイングスパイカーです」
「澤村くん、宜しくね」
「俺は副主将の菅原孝支です。ポジジョンはセッター、宜しくお願いします名字さん」
「宜しくね菅原くん。突然なんだけれど……今日は練習あるの?」

 短い黒髪が澤村くんで、色素が薄い髪が菅原くん。どっちも良い子そうだ。彼らはそれぞれに頷いて、この後から練習が始まることを教えてくれた。他にもIHに向けて練習をしていることや今の烏野についても教えてくれて、彼らの努力が垣間見えた。

「へえ……最強の囮にコート上の王様ね」
「どっちも一年なんですけど、凄いんですよ」
「三年生にそう言われるなんて余程だね。私も見てみたいな」
「何時もなら早く来て練習してるんですけど、今日は珍しく来てないみたいです。まあ、時間通りには来ると思いますけど……あ、そうだ。もしかして名字さんって――」
「おーす」

 にこにこと笑って話してくれる菅原くんが何かを言いかけた時、ドアの向こうから低い声が聞こえてきた。すると澤村くんと菅原くんは弾かれたように立ち上がって挨拶をして、私も二人が向いた方へ顔を向ける。

 だいぶ変わっているけれど、もしかして――。

「……名字?」
「烏養くんだ」

 あの頃、一緒に戦っていた烏養くんが居た。髪も伸ばして色を変えているけれど、あの顔はあの時からあまり変わっていない。

「久しぶりだな! 元気だったか?」
「うん、烏養くんも元気そうで良かった。えっと、おじさんは?」
「あー、無茶が祟って今寝込んでる。今は俺が此処の面倒見てんだよ」
「烏養くんがコーチなんだ。凄い」
「すご……凄くねえよ」

 嶋田くんに続いて烏養くんにも会えたのは凄く嬉しい偶然だ。

「あの、コーチ。その人って……」
「ああ、紹介がまだだったな」

 あれから部員が集まってきてミーティングが始まる時、明るい髪色の小柄な男の子がそう訊ねてきた。ああ、そういえば自己紹介をしたのは澤村くんと菅原くんだけだった。烏養くんの隣に並ぶと私は一礼をして、皆を見渡す。

「烏養君と同期でマネージャーをしていました。名字名前です。今日は練習を見学させてもらいます。宜しくね」
「名字は俺らの代でマドンナだったからな。美人だろ」
「……それは言い過ぎだよ」
「嘘は言ってねえよ。よし、じゃあミーティング始めるぞ」

 冗談なのか分からない紹介をされた私は静かに脇に下がって、烏養くんを中心に輪を作った彼らがミーティングをしている様子を遠巻きに眺める。……それにしても烏養くんがコーチをしているだなんて考えたこともなかったな。でもちゃんと周りを見ているし敵方の分析はとても上手かったからぴったりかもしれない。

 そんなことをぼうっとした頭で考えている間にミーティングが終わったようで、皆アップを始めていた。そちらに意識を向けた私は視界の端で烏養くんが携帯を弄っているのを見ていたけれど、それからしばらくして烏養くんは私の方に歩み寄ってきた。

「名字」
「何?」
「すまねえんだが……マネージャーの仕事をやってくれねえか?」
「え?」
「此処のマネージャーが外せない用事で来られねえってメールきてたんだ。頼む」
「それは構わないけど……用具の場所とかは?」
「それは分かる。澤村!」
「はい!」

 呼び出された澤村くんには練習時間を削ってしまって申し訳なかったけれど、昔とは用具を置いている場所も違っていたからとても助かった。澤村くんには申し訳ないと頭を下げられてしまったけれど、私にできることならと仕事を引き受けた。



 長いようであっという間だった部活の時間。久しぶりにマネージャーの仕事をして少しだけドキドキしたけれど、皆のお手伝いが出来て良かった。皆と校門で別れて烏養くんに近くまで送ってもらった帰り道で、私は思わず笑みが零れた。

「ふふっ」
「どうかしたか?」
「ううん。久しぶりにバレー部の練習を見てマネージャーの仕事もして、学生時代に戻ったみたいだなって。それに皆と連絡先も交換出来て、仲良くなれたから」
「そりゃ良かった。機会があればまた来いよ」
「うん、ありがとう」

 烏養くんに会ってから直ぐに部活が始まってしまったから、帰り道での話題はお互いの近況について沢山話した。同じチームメイトの滝ノ上くんたちも元気にしているって聞いて嬉しくなったり、お仕事が大変だとお互いにため息をついたり。話す内容は変わったけど、不思議と昔と空気は変わらなかった。

「此処で大丈夫。送ってくれてありがとう」
「おう、じゃあな」
「うん、またね」

 家の近くで烏養くんと別れてそのまま家に向かって歩く途中、鞄から電話を知らせる音が響いてきて私は慌てて携帯を取り出す。着信を見れば、相手は嶋田くんからだった。

「もしもし?」
『よう。あ、今大丈夫か?』

 少しだけ騒がしい中で聞こえてくる嶋田くんの声。もしかすると職場の休憩室か人混みのなかから電話をかけているのかもしれない。嶋田くんの問いかけに大丈夫だよと返すと電話口でほっとしたような声が聞こえた。

『そっか。今日は何してたんだ?』
「今日?」
『あ。いや、別に……こっち帰ってきてからほら、色々とあるだろ。ちょっと心配だったんだよ』
「今日は久しぶりに高校に行ってきたの。そうしたらたまたまバレー部が練習していて烏養くんと会ったの。凄く久しぶりだったから話も弾んで、そのまま見学させてもらっちゃった」
『……そっか。そんで?』
「烏養くんは昔から観察することが得意だったでしょ? コーチも向いてるなって思った。あとね、今のバレー部の皆と仲良くなれたし連絡先も交換出来たの。とても楽しかったよ」
『……』
「嶋田くん?」
『あ、いや。何でもない。ごめん、もう行かないと。ごめんな、名字』
「ううん。じゃあまたね」
『おう』

 電話の向こう側からでも分かるあいつが笑った声を切った俺は携帯を机に放って、そのまま休憩室の椅子に深く凭れかかった。バレー部に行って烏養とちょうど会ったのか。まあ、あり得なくはないか……。

 俺ってすっげえ心が狭いとか思った途端、あいつとまともに話せなくなりそうで早々に電話を切った。

「だっさいなあ……」

 俺のダサい焦りがあいつに伝わっていないことを願いながら、俺は深く息を吐いた。

 

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