ホント馬鹿だろ、俺。

 右手に残る柔らかい体温を握り締めて、俺は息がし辛くなったこの空間に立ちつくしていた。





 今日は広告の商品を補充してから棚整理して裏で発注かけて――今思えばなんかやること沢山あるな。押し付けられたような気がしなくもないけど、あっちもこっちも忙しくてヒイヒイしてるんだから俺だけ我が儘言ってられない。

 何時もより多い仕事を効率良く進める方法を考えながら、その頭の片隅では明日の花火大会のことがチラついていた。

「……楽しみだな」

 名字と会える、最後の一日。たこ焼きにかき氷、あんず飴に型抜き。そして花火。どれも名字と一緒なら楽しいに違いない。


「……今までのことも全部、明日で結果出さないとな」

 たとえ婚約者がいようと恋人がいようと、この想いを伝えるために戦うと決めたのは誰でもない俺自身だ。それなら結果を出さなきゃならない。それがたとえ、どんな結果になろうとも。

「あれ、名字?」

 店の裏手から表に出てきた俺は偶然名字の姿を見かけた。店に買い物をしにきたわけじゃなく偶々その近くにいただけだったが、彼女は何時もより少しフォーマルなワンピースを身にまとっていた。

 何時もと違う服装の名字にザワリと嫌な予感が胸のどこかを撫でられた気がした時、彼女に一人の男が声をかけた。背の高い爽やかな印象のその男は名字と親しげに会話をしていて、名字もまた楽しそうな顔でその男を見上げて笑っている。

「元気だった?」
「会ってないのたった数日だろ」
「そう言わないでよ。――それで、式の調整は終わった?」
「だいたい決まった」
「そっか。凄く楽しみ」
「まだ先の話だぞ?」
「それでも楽しみなものは楽しみなの」

 そこだけ世界が切り離されているような不思議な感覚。男は名字の頭をぐしゃぐしゃと撫でると、彼女と肩を並べてその場から立ち去って行った。

 友人にしては距離が近く、気を遣わない距離感。そしてあの男の右手には、ひとつの指輪。

 五分もしていない間に見た出来事で全てを悟った俺は、心を占める息苦しさで眩暈がした。

「……婚約、者」

 名字の、婚約者。

 両親に挨拶をしにきたのか、それとも休暇中の名字に会いに来たのか。可能性はいくつもあるが、その男が名字に会いに来た理由なんて正直考えている余裕なんてない。

 たとえ婚約者がいようと恋人がいようとこの思いを伝えるために戦うと決めたと言った癖に、目の前でその事実を目にした途端にショックを受けているのは、どこのどいつだ。

「……くそ」

 だせえよ、俺。




「……はあ」

 イマイチ集中できないまま仕事をして定時でタイムカードを切った俺は、ぼんやりと空を眺めながら家への道を歩く。夕暮れから夜になりかけている薄暗い空は、アイツの髪の色に少しだけ似ていた。

「まだ足掻いていられんのかな、俺」

 明日の夏祭り、普段通りでいられんのかな。ほとんど決着がついていた勝負に挑んでいたけど、さっきのはスゲエ効いた。味方のジャンプサーブが後頭部に直撃するよりずっと効いた。

「あーあ……」
「あ、嶋田くん」
「!」

 上手く考えがまとまらなくて間延びした声を口にした時、向かい側の道から名字が姿を見せた。少しフォーマルなワンピースの裾を揺らしてにっこり笑うあいつは正直可愛い。でもその服は、俺のためのものじゃない。

「お仕事の帰り?」
「あ、ああ……そんな感じ」
「そっか。私はちょっと買い物に出てきたの」

 言われてみれば名字はそのワンピースに似つかわしくない小さな手にビニール袋を提げていた。

「そうそう、嶋田くんには話したっけ結婚式の話」
「え」
「会場のレイアウトを見たんだけど、凄く素敵だったの」
「……そう、か」
「なんだか別世界みたいだった。」

 今から凄く楽しみ。

 そう言って笑う名字の笑顔がどうしようもなく俺を苦しくさせた。何時もなら可愛いと素直に思えるのに、今ばかりはそう思うことができなかった。この話もこれ以上聞きたくなかった。


「それでね――」
「やめてくれ」
「……嶋田くん?」
「……聞きたくない」
「え?」

 思わず掴んだ名字の右手には、夕陽を反射して輝く指輪がひとつ。ほんの小さなものであるそれが俺を苦しめて、息をできなくさせる。

「結婚式の話なんて聞きたくない。名字が楽しそうにしている顔は好きだけど、これだけは聞きたくない」
「え……」
「悪い。俺、諦め悪いんだ」

 その先の言葉は、言えなかった。

 重力に従って落ちるように名字の手を離した俺はそのまま彼女の脇を通り抜け、背後から聞こえる声が聞こえないふりをしながらその場から逃げるように立ち去った。

 情けなくて惨めで恰好悪い俺の顔は、見せられない。

「くそ……」

 俺が大切だと思っていたものが、直ぐそこですり抜けて消えてしまった気がした。

 

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