誰よりも大切にしたかったものは、俺の手からすり抜けた。
 青春時代から大切にしすぎていたそれは、もう俺のところにはない。

「……はあ」

 近所は朝からお祭りムード一色で、浮かれた祭囃子が家の外から微かに聞こえてくる。片田舎で祭りがあれば老若男女関係なく浮かれるのは昔から分かっているけど、今日はそれが憂鬱を更に加速させていた。

 本来なら名字と一緒に行くはずだった祭り。だけど昨日の今日じゃ、あいつも俺と会いたくないだろう。

「……どうするかなー」

 予定はなくなったし、したいことも特にない。しなきゃいけないことも当然ない。

 ぼんやりと自宅の天井を眺めていることも飽きた俺が携帯を手に取ると、メールが入っていることに気が付いた。もしかすると祭りの出店出してる烏養が暇をしていて、出店に飲みに来いって誘いかもしれない。それならそれで気晴らしに行くのも悪くない。

 だけど俺が開いたメールは、良い意味で予想を裏切ってくれた。





「あ、嶋田くん! こっちこっち!」
「……お、おう」

 神社前にある大木の前。其処で名字は浴衣に身を包んで俺を待っていた。

 俺に届いていたメールの宛名は名字からで、予定通り待ち合わせ場所で待っているからとだけ書かれた簡素なものだった。昨日の今日なのに俺と会うつもりでいる名字に驚きながらも、慌てて準備をして待ち合わせの場所に向かって今に至る。

 こいつの藍色の浴衣から覗く白い項が妙に眩しかった。

「人が多いから見つかるか心配だったんだけど良かった」
「あ、ああ。もっと分かりやすいとこにすれば良かったな」
「大丈夫大丈夫、こうして会えたんだし。ほら、行こう」

 カラカラと下駄を鳴らす名字の無邪気さに救われながら、俺は彼女の隣で肩を並べた。



「ふう、たくさん歩いたね」
「そうだな。お、ここ空いてるな」
「ほんとだ」

 熱々のたこ焼きに色とりどりのかき氷、涼しげなあんず飴に今はあまり見なくなった型抜き。

 そのどれもが青春時代のことを思い返させてくれるような懐かしさがあった。あの頃は二人揃ってジャージ姿で、恰好なんて気にせず笑い合いながら祭りの喧騒のなかを歩いて回った。そんなあの頃に見つけたこの穴場は、神社から少しだけ逸れた場所にある。人がいなくて花火が綺麗に見えるこの場所はバレー部だけの秘密だったが、それは今も密かに守られているのか人の気配はない。

「……ねえ嶋田くん」
「ん?」
「昨日のことなんだけど……その、私悪いこと言っちゃったみたいで。ごめんね」
「あ、いや……あれは俺が悪いから」

 このタイミングで昨日の話を持ち出されるのは予想外だった。ちょっと不意を突かれた俺は少しだけ答えを迷ってから気にしていないからと首を横に振る。正直、それ以外どう言ったら良いのか分からなかった。

「謝るのは俺の方だ。悪い」
「ううん。私こそごめん。お姉ちゃんが結婚するからついはしゃいじゃって」
「……は?」
「え?」

 姉って名字のいくつか上であの気の強そうな――いや、そうじゃない。俺が言いたいのはそこじゃない。つまるところ、もしかして俺が偶々聞いたあの話は、名字自身のことじゃなかったってことか?

「昨日店の近くで喋ってたのは……」
「あれ、見てたの? あの人がお姉ちゃんの結婚相手の人だよ」
「……結婚式がどうのって話は名字の姉さんの話か」
「そうそう。来年挙式だって」
「……じゃあその指輪は?」
「こ、これ?」
「ああ」

 名字の右手に輝く指輪を指し示せば、名字は少し答えを言い淀んでから左手で指輪に触れる。

「……お守りというか、なんというか」
「お守り?」

 婚約指輪じゃない。

「右手の薬指に指輪を嵌めると、心が落ち着いたり恋を叶える効果があるらしくて……。石もそれに合わせてガーネットとカルセドニーを選んだの」
「カルセド……ん?」
「カルセドニー」

 今の関係を前進させるための石。

「此処に帰ってくる前に作ったの。――嶋田くんとのこの関係を、変えたくて」

 その言葉の意味が分からないほど俺はガキじゃなかった。

「嶋田くんが結婚していないのは地元にいる友達から聞いてて知ってはいたんだけど……やっぱりちょっと不安で。私ね、あの、昔からずっと」
「名字」

 女に言わせっぱなしでどうするんだ俺は。

 隣で必死に思いを伝えてくれる名字の腕を引いてその小さな体を抱き締めた俺は、戸惑う名字から香る甘い白檀とこいつの匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

「名字のことが好きだ」
「!」
「汗だくで見る奴によってはダサい俺を笑顔で応援してくれたマネージャーでいてくれた時から、ずっと。でもお前がマネージャーじゃなかったとしても、俺は名字しか考えられなかった」
「嶋田くん……」
「俺の傍に居てくれ」
「……はい」

 二人の熱を足して更に熱を持った体温が、とても心地よかった。

 

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