いつもは喧騒の真っただ中にあるヘルサレムズ・ロット。
けれど、ここ隔離居住区の貴族においては、それは当てはまらない。
この区画は異界人が入ることを認めず、HL内でも安全とされているほど諍いが少ない場所なのだ。
そんな場所の一角にある、役所の静かな一室で。本日、厳かな空気と数人の立会人のもと、とある行事が執り行われていたりする。
粛々と進行していくその式で、政府に認められたお偉いさん───司式者の有り難いお話という名の睡眠促進話術に襲われていた私は、瞼が下がりそうになるのを白い手袋を嵌めて揃えていた手をぎゅっと握りしめる事で回避に集中する。
けれどそれだけでは睡魔は去ってくれず、眠気覚ましにこっそりと隣の様子を窺えば、この行事を執り行うことを提案した人物が、真面目な顔をしながら司式者の言葉に耳を傾けているようだった。
実際は何を考えているのか分からないが、普段よりも更に上等であろうスーツを難なく着こなし佇む姿は流石としか言いようがない。
対して私はと言えば、用意された白い簡素なドレス───とは言え、質はべらぼうに良いと思われる───に着られているような状態で、隣に立つのを遠慮したいくらいだったりするのだけれど、一応主役の一人なのでそういう訳にもいかず……。
借りてきた猫状態で、ここに収まっていたりする。
何故こんな事になってしまったのか。
それは、今から一か月ほど前まで遡る。
世界の均衡を守る為に暗躍する組織、ライブラに与してから、しばしの後。
事務所の物置を勝手に間借りしていたのが色んな意味での冷血漢にバレてしまったのが全ての始まりだった。
「どうしてココに?」
処分する為に一時保管してあったのであろうソファの上に正座して、目の前の人物の不審そうな視線を受け止める。
「えーと、それが、その……借りてた部屋の家賃が……値上がりしまして」
「は?」
「区画クジが当たったとかで、4、5日帰らなかった内に超高級ホテルにリフォームされてまして」
「…………それで?」
「一泊分、数百万かける滞在日数を払えと言われてしまいました」
その場に居なかったのに。滞在してなかったのに。荷物が置いてあったから滞在だと言われ。
更には契約書に書いてあると言われれば、従うしかない。
「ちなみにそれは払えたのかい?」
「そんな訳ないじゃないですか。私のお給料知ってるでしょう?」
けして少なくは無いが、ポンと数千万出せる程では勿論ない。
「で、どうしたんだい?」
「取りあえず払えるだけ払って、あとは分割でって事でお願いしました」
何年……何十年かかるか分からないけど……。
「ふーん……」
答える私に、彼───スティーブンさんは何やら思案顔で口元に手を当てる。
一体何を考えているのか……。
ここでの滞在費を払えと言われるんだろうか? それとも出てけと言われるのだろうか?
そうなったら取りあえずどこか雨風を凌げる場所を確保しなければ。それからバイト先も考えておいた方が良いだろう。
あぁ、まとめてレオナルド君に相談してみようか。
こういう事に慣れている彼の事、きっと力になってくれるだろう。
しかし、そんなこちらの考えをスティーブンさんの一言が杞憂にしてしまう。
「その代金、僕が払おう」
考え事を終え顔を上げた彼が切り出した、思いもよらない言葉に思考が数瞬固まる。
「……は?」
思いもよらな過ぎて口を開けて固まる私に、けれど彼は平常通り、その男前な顔に笑みを上乗せしてさらりと要求を投下する。
「勿論、こちらの条件を呑んでもらうのが前提だけどね」
「……条件?」
その笑顔に嫌な物を感じつつ聞き返す私に、彼は笑みを携えたままの顔を近づけながら頷いた。
「君にはお飾りの妻になってもらいたい」
「……は?」
再度、ぽかんと口が開いた。
面を食らうとはこういう事を言うのだろう。
そんな私を見たスティーブンさんが一転、困ったような笑みを浮かべながら更に言葉を続ける。
「最近、周りが結婚しろってうるさくなってきてね」
「はぁ……」
「とは言え、ライブラに関係のない女性を妻にしたら面ど……大変だろうし」
「…………」
今この人、面倒って言いかけましたか?
「かと言ってライブラ内から選出したとしても、やっぱり問題はあるだろ?」
その発想自体に問題があると、言うべきか言わざるべきか。
そして、断られる可能性を危惧しないところは流石、なのだろう……。
「仕事で帰れない事はざらだし、そうなると構ってあげられる時間も決まってくる。そこで仕事と私どっちが大事なのかとか言われるのはごめんだし」
「まぁ、そのお気持ちは分かりますが……」
「だからさ、ある程度僕の事情を知っていて、なおかつ僕に興味の無い君が仮面夫婦として生活してくれれば理想的なんだ。借金の肩代わりは結納金だとでも思ってくれればいい」
いや、そんな話を笑顔で言われても。
まるでこの話が最善であるかの様に話す彼を視野に収めたまま、沸き上がるツッコミの嵐を何とか飲み込む私をよそに、スティーブンさんは更に続ける。
「あぁ、君には僕の家に来てもらう事になるけど、そこでは好きにしてくれて構わない。家政婦のヴェデッドがいるから家事もしなくて良いし、何不自由なく過ごせることを約束しよう」
「…………」
あまりにも現実離れした条件に、今度は思わず閉口してしまう。
けれどここで黙っていたらなし崩しに了承させられてしまいそうで、私は必死に頭と口を動かした。
「いや、でも、あの、簡単に言いますけど、結婚、ですよ?」
「あぁ」
「周りの方を納得させるだけなら、フリでいいんじゃないですか? 法的に成立させる事もないと思うんですけど」
「いや、ここはどうしても成立させないといけない」
「何でですか?」
「調べられれば直ぐにバレるだろ?」
「…………」
結婚しましたと報告して調べられる関係って……。
殺伐としたその関係性に疑問を持ちつつ、でもこの人の身内ならやりかねないかも……と思ってしまう。
「それに君にとっても悪い話じゃないと思うけど?」
「それは……」
確かに、そう、なのだろう。いつ返済完了するかもわからない借金も、日々の生活の心配もしなくて良いのだから。
けれど、だけれども。
そこはかとなく腑に落ちず、素直に頷きたくない部分でもある。
「それとも返せる当てはあるのかい?」
「……ありま……せん、けど……」
悲しいかな。そこを突かれれば私にはぐうの音もでない。
頑張って働く他に私に借金返済の当てはないのだ。
そう考えればやはりスティーブンさんの申し出はとても有難い。
幸い……なのか恋人も好きな人もいないので、もやもやしようが何だろうが、私が頷きさえすれば事は収まる。
でも……。
「……あの、スティーブンさんは本当に良いんですか?」
「うん?」
「今後好きな人が出来て、その方と付き合いたいとか、結婚したいとか思うかもしれないじゃないですか。そうなると私は邪魔者以外の何ものでもないですよね?」
「確かに、その可能性も無くはないかもしれないが……だとしても、これは僕から言い出したことだ。約束は反故にはしないさ。それまでちゃんと妻としての肩書を持って生活してくれていたなら『結納金』を返せとも言わない……まぁ、離婚はお願いするかもしれないけどね。その場合もある程度の保障はさせてもらうよ」
「…………」
ニコリ、と微笑みを惜しげもなくさらけ出し交渉を持ちかけてくる彼に、逡巡したのは数秒。
特に不利な条件もなく、離婚の際にも保証してくれるというのであれば最早断る理由はない。
釈然とはしないけど、気持ちは後からついてくるだろう。
私はこくりと一つ頷き、「わかりました」と了承の意を伝えた。
そんなこんなで、私は今、結婚式の真っ最中。
いつどこで事件が起きるとも知れないヘルサレムズ・ロット内で行うので、式はシヴィルウェディング形式。
婚姻届を受理し、正式に夫婦となった証を宣言するのが目的なので所要時間は2〜30分程の、とってもお手軽簡単ウェディング。
一応立会人としてクラウスさんとギルベルトさんが参列してくれているが、他に人はおらず司式者と役員の人達のみ。
愛など無い結婚なので、これくらいで丁度いい。
「それでは」
と、現実逃避に走っている間に司式者の長い……いや、身になるお話が終わったようで、ついに本日のメイン中のメイン。
神様への誓いの言葉ってやつがやってきた。
「汝、スティーブン・A・スターフェイズはクレア・イヴを妻とし、生涯愛すると誓いますか?」
静まり返った室内に、本来なら重い言葉であるはずの問いが投げかけられる。
それに対し、隣の人物───スティーブン・A・スターフェイズ氏が神妙な面持ちで、けれどきっぱりと力強く、「誓います」と宣誓した。
その様子をどこか他人事のように見上げていた私にも司式者の言葉が、問いかけられる。
「汝、クレア・イヴはスティーブン・A・スターフェイズを夫とし、生涯愛することを誓いますか?」
傷のある顔に胡散くさ……いや、素敵な笑みを張り付け佇んでいる彼が放つ無言の圧力を一身に受け、居住まいを正した。
これから契約結婚生活が始まるのだ。今更後戻りもできないし、なるようにしかならない。
窓の外には偽りの青空が広がっており、この虚構じみた式にはお似合いだと思いながら、私は視線を司式者に戻すと、まっすぐ前を見て言葉を口にした。
「誓います」
───と、ただ一言を。
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