「居るし」
そう思わず呟いたのは、皆が既に帰宅して数時間は経った頃だった。執務室に一人残り、机に向かって顔をしかめている彼に溜息が出る。
事の始まりはお昼の時間。医務室に訪れたレオナルド君とザップさんに泣きつかれたのが原因だった。
「あの人何とかしてくれよっ!」
「めっちゃ笑顔なのに、目だけは笑ってないんですよっ!」
───と。
その言葉だけで何が起こっているのか、ライブラの一員なら想像に難くないだろう。
スティーブン・A・スターフェイズ。普段は仕事の出来る胡散臭い上司だけど、一度仕事が溜まればめんどくさい仕事中毒者に成り果てる。
更には普段から一癖も二癖もあるのに、笑顔で無茶を言い出したりするもんだから始末に負えない。
そんな訳でレオナルド君達に哀願され、今日も徹夜しそうだったら様子を見ると約束した訳だが……。
居るんだもんなぁ……。
チラリと端正な顔を見てもう一度溜息をつき、視線を手元へと落とす。
まぁレオナルド君達と約束しちゃったし、一応この為に差し入れも作ってきたし。取りあえずやれる事はやってみよう。
そう思って彼へと近づき、声をかけた。
「スティーブンさん」
「うん? って、クレアじゃないか」
呼びかけに気だるそうに顔を上げた彼は、私を見て驚いた顔をする。どうやら、そうとう参っているらしい。先程からこの部屋に居たのに、私に気付いていなかったのが良い証拠だ。
「こんばんは」
「医務室の引きこもりがどうしたんだい?」
「どうしたもこうしたも、体調管理の出来ていない人が居たらおちおち休んでいられないんですよ」
「はは、すまない」
「そう思うなら今日は休んで下さい」
そう進言するものの、「そういう訳にもいかなくてね」とスティーブンさんはバツが悪そうに苦笑する。その顔には、疲れがありありと見えた。
けれどここで「つべこべ言わずに寝ろ」と言っても取り合ってはくれない事は分かっている。そこで役に立つのが持ってきた食事、である。
私は呆れを隠しもしないままに、彼へとそれを軽く持ち上げて見せた。
「差し入れです。何も食べてないんでしょう?」
「あぁ、すまない。腹が膨れたら眠くなりそうで」
「そう言うと思って、スープとサラダだけです」
「いや、充分だ。ありがとう」
疲れた笑顔でお礼を言われ複雑な気分になるが、一先ず置いておく。それよりも今は食べてもらう事が先決なのだ。
「そっちで良いですか?」
「あぁ、頼む」
視線で指し示せば、スティーブンさんは頷き腰を上げる。
「本当は仕事を手伝えれば良いんでしょうけどね……」
「まぁ、人には分野ってものがあるし、その中でも君は畑が違うからなぁ」
二人掛けのソファに移動しながらそう言えば、彼は仕方がないさと私の頭に手を置いた。そうしてからソファに腰かけ、スティーブンさんはふと考える仕草をする。
「でも、そうだな。君みたいなパートナーが側に居たら心強いよ」
「そうですか?」
「あぁ。こうして僕のことを気遣ってくれて、食事まで作ってきてくれるんだから」
ニコリ、と意味ありげに笑う彼の前にトレーを置きつつ、「はぁ、そうですか」と相槌を打つ。こういう時のスティーブンさんて面倒なんだよなと思いながら、どうぞと声をかけたが、何故か彼は私から視線を逸らさないままだった。
「?」
「君みたいな子が家で待っていてくれるなら、残業も減るかもしれない」
真っ直ぐに見つめられ、言葉の意味を反芻する。
「……それはつまりスティーブンさんの家政婦になれと?」
「いやいや、そうじゃなくてさ」
「まぁ、何でもいいですけど、取りあえずコレ食べちゃって下さいね」
何だか本当に面倒な事になりそうで「それじゃあ、ごゆっくり」と席を外そうとする。が、白衣の裾を掴まれ逃亡は失敗に終わった。
「こらこら、人が口説いてる時にどこに行こうって言うんだい?」
「口説いてたんですか?」
「もちろん」
「……そうですか」
「つれない返事だな」
やはりめんどくさい事になったと思いながら裾を離してもらい、仕方なく向かいのソファへと腰を下ろす。
つれない……とは言うが、前後不覚に足を突っ込んでるような寝不足の人に言われてもピンと来ないと言うのが本当のところだ。
そんな私を気にする事無く、スティーブンさんは野菜にフォークを突き刺しながら更に続ける。
「良い奥さんになれると思うんだがなぁ。このサラダも美味しいし」
「手で千切っただけですけどね」
「この千切り方がまた絶妙だ」
「……言ってて苦しいと思いませんか?」
私の冷静な突っ込みに固まること数秒。彼は慌てて次の話題を口にした。
「こ、このドレッシングは絶品だ!」
「市販の物ですよ、それ」
「…………」
「…………」
「これ! このスープは君が作ってくれたんだろっ?」
スティーブンさんが必死に指し示す先には卵スープがある。
ここで『固形の物にお湯を注ぎました』なんて冗談を言ったらどうなるんだろうと思いつつ、あまりにもそれは可哀想なので、真実を述べておく。
「えぇ、まぁ……一応」
「うん、美味しい!」
私の答えを待ってスープを飲んだスティーブンさんは、ニッコリ笑いながら、そう感想を口にした。
───睡眠薬入りですけどね。
そんな言葉を胸の内に秘めているとも知らずに。
その後も何度か睡眠薬入りのスープを口に運ぶ彼を見て、疲れてる人にえらく気を遣わせてしまったなと思う。
そういった所も伊達男と呼ばれる所以なのだろうか。寝不足でも身だしなみはキチンとしてるし。
そんな事を考えていると、不意にカシャンと高い音が耳に飛び込んできた。
見れば床に落としたスプーンに手を伸ばしているスティーブンさんの姿。
「あぁ、すまない……何だか体が思うように動かなくて」
「いえ、気にしないで下さい」
即効性は無い物にしたけれど、もともと寝不足なのも手伝ってか随分と効きが早かったようだ。
「今、かける物を持ってきますね」
「いや……しかし……」
「そんな体じゃ効率が悪いだけです。一度仮眠を取った方が良いですよ」
「……そう、だな」
取りあえず彼を納得させれた事にホッとしつつ、かける物を取りに立ち上がり部屋を出る。
まぁ、仮眠とは言ったものの、あの調子では朝までぐっすりだろう。
仕事の進捗状況は犠牲になるが致し方ない。一応リーダーにも仕事が遅れても大丈夫か確認を取った所、「仔細ない」の言葉をもらっているし。
……と言うか、そんなに急ぐ仕事でも無かったらしい。
何と言うか、スティーブンさんって夏休みの宿題を最初の方に全部終わらせて、残りの休みを堪能するタイプなんだろうか?
そんな事を考えながら毛布を手に執務室に戻れば、驚くことにスティーブンさんはまだ眠りについていなかった。
「寝てて良かったのに」
ウトウトしている彼をソファに寝かせ苦笑交じりに毛布をかければ、「……君に」と呟く声が聞こえ首を傾げる。
見ればスティーブンさんは拗ねたような表情で更に続けた。
「お休みのキスを、してもらってない」
───と。
「…………」
そんな事の為に……。
疲れだって溜まっているし、眠たさだってピークなはずなのに。
呆れと驚きで固まる私に、無言で注がれる視線。その普段からはとても考えられないような言動に、何とも言えない感情が芽生える。
「…………ずるいなぁ」
そんな私の呟きは彼に届いただろうか?
とうに限界だったスティーブンさんの瞳は閉じられ、穏やかな寝顔がそこにあった。
その姿に人知れず笑みが浮かんでしまうが、本人にはこれで許してもらおう。
「───良い夢を」
少し癖のある前髪をかき上げてから瞼にキスを落とし、私はそっとその場を後にした。
蕩けた瞳でキスをせがむ
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