心地よい温もり



朝起きたら少し体がダルくて頭も痛かったが、疲労か何かのせいだろうと普通に会社に出勤した。俺の働く部署は基本的に毎日人手不足だ。だからただの風邪ではよっぽの事が無い限りは休めない雰囲気になっている。まぁ、悪口を言うような人間がいない事が唯一の救いだ。


「おはようございます」
「おはよう」

「苗字くん、何か顔色悪いけど大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと頭が痛いだけなので…」


パソコンの電源を入れて昨日、途中で切り上げた書類の続きを作る。これは別の部署に回さないといけない書類だから期限よりも少し早めに作っておかないといけない。腱鞘炎になっている手首を気遣いながらも何とか書類を完成させ、印刷をして課長に印をもらい別部署へと向かう。

その時、突然視界一杯に光が点滅するように広がり立っていられなくなった。立ちくらみにしては長いし今まで経験したことも無い感覚でやっぱりただの疲労じゃなかったんだろうか?目を開けると視界はまだ点滅していて深呼吸を何度か繰り返す。


「苗字?」
「………」


誰かに名前を呼ばれたけれど、今はそんな声に答える余裕も無い。吐き気まで出てきて書類を持っていた手に力が入ってしまっている事に気付いて慌てて書類を床に置いた。


「名前」
「っ!…ち、茅ヶ崎…」


肩に手を置かれて名前を呼ばれた。聞き慣れたその声に思わず振り返るとそこには同期の茅ヶ崎がいた。俺の顔色が相当悪いのかすぐに心配そうな表情に変わって、辺りを見回す。時間帯が悪かったのか今はきっと皆、それぞれの部署で仕事をしている事が多くうちの部署の人間はデスクワークが多いから余計に会社の廊下を歩くことは少ない。


「これ…お前んとこに渡さないといけない書類」
「え、あぁ…ありがとう」

「じゃあ俺、行くから」
「は?ちょっと待て。このままじゃぶっ倒れるから」

「大丈夫だって…どっちにしろ部署に帰んないと何も出来ねぇし」
「肩貸す。言う事聞かなかったら今、ここでキスするから」


アホな事を言ってくる茅ヶ崎に抵抗しようとしていた動きを止める。そんな俺を見て、楽しそうに笑った茅ヶ崎は俺の腕を自分の肩に回して空いた方の腕を俺の腰に回してくる。何とか体に力を入れて立ち上がる。
点滅していた視界は少しはマシになっているけれどまだ吐き気は収まらない。


「っ!…ば、か!お前…ふざけるな…」
「名前が俺の好意を無駄にしようとするからだろ」

「こういうことしないって言っただろ…ここどこだか分かってんのかよ、クソ」
「会社」


腰に回っていた腕が俺のズボンの隙間から中に入り込もうとして、すぐに声を掛けた。相変わらず楽しそうに笑っている茅ヶ崎だけど俺はその表情に合わせるように、笑う余裕は無い。茅ヶ崎に支えられながら歩いていた時、ふと足の力が抜けた。


「うわっ!」
「ご、めん…」


茅ヶ崎が慌てて体を支えてくれて、何とか二人揃ってこける事は無かった。ゆっくりと俺の部署に向かって歩いてくれる茅ヶ崎に安心しながら、俺も足を進める。
部署に辿り着いた俺の姿を見た課長が驚いてすぐに早退するようにと、俺が言わなくても言ってくれて、タクシーまで手配してくれた。本当に申し訳ない。


「後で何か持ってく」
「あー、ごめん…よろしく」

「安静にな」
「んー…」


適当に返事を返して茅ヶ崎のスーツを掴みそうになった手を止める。笑って誤魔化してタクシーを発車してもらった。すぐにLIMEが来るけどそれも無視して、家の場所を告げる。茅ヶ崎の住んでる寮からうちが近くて良かった。仕事してる時だけでもゲームゲームとうるさいから、ゲーム機自体を一切置いていない俺の部屋に来ても、何も楽しくないだろう。なら何か食料を持ってきてもらってから、すぐに帰ってもらったら良い。


「着きましたよ」
「………ありがとうございます」


タクシーを降りて、フラフラしながらもマンションのエレベーターに乗る。すぐに目的の階に着いて部屋に向かう。
床で寝る訳には行かないと最後の気力を振り絞り、ベッドに向かった。スーツが皺になると一瞬、考えたけどそんな事はもうクリーニングにでも出せば良いやと開き直ってそのままベッドに倒れるようにして転がり、眠った。







「名前…」
「………ち、がさき?」

「食べる物と薬買ってきたから」
「ありがとう」


少しおさまった吐き気のおかげかゆっくりと体を起こしてコンビニの袋を受け取る。中を確認すると、俺の好きなアイスとゼリーが入っている。ドラッグストアの袋もそのコンビニ袋の中に入っていてそれには風邪薬が入っていた。袋に入っていたスプーンを持ってお気に入りのアイスに手をつける。


「ん、うまい…」
「………」


どこか不満そうな顔で俺を見てくる茅ヶ崎に何か聞かれないようにと、視線をずっとアイスへと向ける。あっという間に無くなって俺が袋の中に入っていた風邪薬を飲もうとした時、それを茅ヶ崎が横から取ってまさかと思った時にはもう茅ヶ崎が薬を自分の口の中に入れていた。


「茅ヶ崎、お前それ…何の漫画のシーン…んっ…」


口移しで薬を受け取るとすぐに水がまた口移しで入って来て、何とかそれを飲み干す。零れた水を拭おうとしたらそれを茅ヶ崎が舐めた。本当にどこの漫画から出てきたんだよ。


「元気な時に何でも相手してやるから、俺の部屋にいたってつまらないだろ」
「別に。苗字がいるからつまらなくない」

「限定のクエストとか…あるんじゃねぇの」
「今は苗字のが優先」

「………明日、雨でも降るだろ」
「ひど」


風邪うつったらいけないだろとか言おうと思っていたけど、さっきキスしたしまぁ良いかと開き直って茅ヶ崎のスーツを掴む。驚いた表情をした茅ヶ崎と視線が合う。普段はこういう恋人らしい事なんて言ったことも無いし、自分から求める事もあまり無かった。


「スーツ脱がせて。茅ヶ崎もスーツ脱いで」
「はいはい」


甘えるように茅ヶ崎に言うと、呆れながらも俺のスーツのボタンを外して脱がせてくれる。下着姿になってから部屋着まで着せてくれて思わず吹き出すようにして笑った。


「何?」
「んーん…別に。茅ヶ崎ってこんな優しかったんだなって思っただけ」

「今更、分かったの?」
「そうだねー…会社では女子社員に優しい茅ヶ崎さんだもんねー」

「今、会社の名前出さないで。俺も寝る」
「茅ヶ崎の体、あったかい…」


擦り寄るように体を近付けると、外から来たのに茅ヶ崎の体は温かくて俺の体温を上げていく。布団も段々と温まって来て風邪のせいか眠気が襲ってくる。


「茅ヶ崎、今日は…ごめんな…やること…あったのに…」


茅ヶ崎が何か言っているけど、それを聞くよりも前に眠りについていた。


「恋人なんだからもっと素直に甘えれば良いのに」