2018年10月29日
10:23 東京都立呪術高専 職員室
「恵の父親〜?」
「うん」
その日、私は伊地知さんに借りていたタブレットを返しに職員室を訪れた。用を済ませたらすぐに帰ろうと思っていたのだけれど、悟くんがあのふっかふかの高級ソファにふんぞり帰って仮眠をとっていたので何となく声をかけた。
私に気付いた悟くんは長い脚を組み替えて「やあ」と片手を上げる。別に寝ていたわけではないのかもしれない。偶然にも悟くん以外には名前の知らない若い補助監督がひとり職員室の隅で仕事をしていただけで、他には誰もいなかった。だから何となく、気になっていたことを聞いてみただけ。
「何、恵の父親に挨拶でもしようっての?結婚させてください♡って」
「…生きてるならそれも必要だろうけど」
伊地知さんの椅子をパクって勝手に腰掛けて悟くんの隣に並ぶ。しんと静まり返る職員室。私の言葉に悟くんが黙る。そこで職員室に電話がかかってきて女性の補助監督が電話を取る。
「生きてるならどこに居るか知りたい。死んでるなら誰が殺したか教えて」
「……生きてはいないよ」
「…ってことは悟くんが殺したって認識でOK?」
「君の察しの良いところ、任務の時は良いけどこういう時本当イヤ」
「いつ?恵は知ってるの?」
髪の毛の毛先を弄りながらさり気なく悟くんの顔を盗み見る。隠れた目元からは表情は窺えないけど、返答に悩んでいるらしかった。
「恵には初めて会った時に話そうとしたけど、どうでもいいって遮られちゃってさ」
「クソ言い訳」
「お口が悪いよ、名前」
「じゃあ恵って本当に何も知らないの?」
私がじとっと悟くんを睨むと、悟くんはうん、と頷いて天井を仰いだ。親の仇に育てられたなんて恵が知ったらどんな気持ちになるか考えたことないの?このバカ目隠しは。……そう思ったけど、恵の父親の話をなんとなく恵から聞く限り、別に何も思っていなさそうではある。
寧ろ悟くんのおかげで津美紀が禪院家で苦しむことを免れたのだとしたら、やはり恵はこの事実を知っても悟くんに怒らない気がする。
「……言えばいいのに」
「知りたかったらいつでも聞いてって言ってるけど、恵が聞いてこないんだもん。興味もなさそうだし」
「なのに私には喋っちゃって?」
「だって名前は聞いてきたから」
「……」
また言い訳じゃん、なんて思いながらああそうと返して私も悟くんと同じように天を仰いだ。
「この前、私の護衛任務で私のこと殺しかけたの、恵の父親でしょ」
「多分ね」
「……」
「それが何?」
「…ああいうタイプの攻略を知りたい。悟くんはあの男をどうやって殺したの?」
私がそこまで言うと悟くんは目隠しをずり上げて一度瞬きすると、空の色全部閉じ込めたみたいなきらきらした目で私を見た。
「そうだね。…強いて言うなら――――」
2018年10月31日
22:31 井の頭線 渋谷駅アベニュー口付近
伏黒甚爾が振り下ろす一撃、ただの一つでも真正面から受けたらひとたまりもない。まじで速い、術式による身体強化がなければ正直私も危ない。改めて対峙して思う、虎杖くんのフィジカルの遥か上をいく生き物であるということ。
この男の一撃は重い。そして硬い。鋼でも殴ってるのかと思わせる硬度と、それを感じさせない速さが末恐ろしい。私だって体術は悟くんにそこそこ仕込まれてるから自信はあるけど、なんていうか……この男はもうそういうレベルではないのである。
伏黒甚爾には一度敗北を期してから、対策を練っていた。何か知っているかもと思い悟くんに尋ねた時は驚かれたが、やはりこの男は恵の父親なのである。
――恵は本当に、身内に恵まれていない。
「ちょっとタンマ。本当に私のこと覚えてないの?」
「…はあ?」
まあだからと言って私がこの男を殺さない理由はない。私を殺そうとする術師は私に殺されても仕方がない。
「…少しショック」
私の言葉に男は一瞬攻撃の手を止める。
ムカつくことにこの男、私のことを本当に覚えていないらしい。頭に酒をぶっかけたくせに。何なら今、恵が自分の息子だってことにも気付いてないんじゃないだろうか。絶対私からは言わないけど。絶対絶対絶対言わないけど!!!
降霊術って術師が一回呼び出して死んだ後、再度別の術師が呼び出したら記憶リセットされるのかな。その辺よく知らないな。イノタクに聞いておくんだった。いや、まあそれは今はどうでもよくて。
「ひとつだけ、聞きたいんだけど」
「あ?」
そう言った瞬間、游雲を投げつけられてすんでのところで避けた。背後にあった複合機にブッ刺さったそれに目をやると黒く煙が出ている。
「……人を愛したことってある?」
びきびきっと嫌な音を立てる複合機。モーターが焦げたような独特の匂い。踏みしめると感じる、割れたガラスの破片のざりざりした独特な感触。
男は何も答えなかった。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ目を見開いたけど、それだけだった。……それが答えだった。
「さあな」
肝心なことは誰も教えてくれない。いつもそう。答えは自分で見つけなければならない。
向かってきた男を屈んで避ける。が、避けきれずに腕を掴まれて壁に投げつけられた。コンクリートの壁にヒビが入るのがわかる。痛…めっちゃ痛い…。また骨折れた…。
不遜に笑う男に私も薄く笑い返した。
「いい加減"俺に"術式を使えよ。いくら体術が向上してようがお前の体力的に鬼ごっこはそろそろ限界だろ」
私が自分自身に術式を使っていることには気付いているらしい。ぶっちゃけ時間との勝負だった。この交戦状態は長引けば長引くほどこちらが不利。この状態が続けば、私は間違いなく負ける。……正直、あと5分も保たないだろう。それは即ち私の死を意味する。
頭から垂れる血が鬱陶しい。反転術式で背骨をくっつけて男の腕を取って肩を外そうと試みるが無理だった。ちょっとくらい脱臼しろ。殴られそうになったのをすんでの所で避けて仕方なく距離を取って廊下を走る。
――恵がまともなのは絶対母親の遺伝子のお陰だななんて思いながら、投げられる礫を避けて駆け抜けた先、突き当たりにドアが開けっぱなしの非常階段があった。恵はきっとそこから降りたはず。ビルの隣はまた別のビルだ。せいぜい細い路地がある程度でその先も袋小路になっている。恵の姿はない。…影が多い。明かりがない。
「鬼ごっこは終わりか?」
「…」
「…そっち行っても逃げ場ねぇぞ」
背後から聞こえた声にすぐに屈んで階段を転げ落ちた。私がさっきいた非常階段の踊り場に游雲が刺さっていて、コンクリートを貫いている。怖。死ぬじゃん。何なの本当に。
伏黒甚爾の言葉を無視して私は階段を駆け降りた。降りている最中、どす、どす、と私の頭上の階段を何度も游雲が貫いて針地獄みたいに追い立てられる。全部ギリギリで避けきれたのは相手に手を抜かれているからか、それともラッキーだったからか。
わざとへろへろの芝居を打ちながら階段を降りて路地に入り込む。袋小路のそこにはそれ以上進めない。
こういう作戦は狩る側と狩られる側のポジショニングが重要だ。袋小路に追い詰めた、と思ったらどうしても一歩踏み込んでトドメを刺したくなるのが狩る側の心理状態。つまり今の伏黒甚爾は、私を狩ることにちょっと夢中になってるはず。それが重要。
「…袋の鼠ってのはこのことだろ?」
自らの圧倒的優位の前で、人は必ず警戒を怠る。ましてや自分よりも小柄で、華奢で、弱って逃げ惑う女を相手にすれば。
ふと以前金ちゃんが言っていた言葉を思い出した。
『男はみんな乳のデカい女が好きなんだよ。ついでにその女がやられそうになってると興奮する、この世の変わらぬ摂理だ』
「…本当に嫌な摂理」
でもその摂理のおかげで、一瞬だけでも忘れてしまう。――もう一人の存在を。
私が観念した素振りで身構えて術式を解くと、伏黒甚爾はニヤリと笑った。
この戦いでの唯一の私のアドバンテージは、こいつが"私のことを忘れていること"だ。
私が反転術式を使えることを知らないし、多分まだ気付いてない。術式の順転利用による純粋な私の肉体強化(要するに自分で自分に過剰な体術向上を命令・強制する)、そして反転術式による回復。これらを今同時に行っていたわけだけど、伏黒甚爾は恐らく私が前者のみ使って戦っていると思っているはずだ。
だから恐らく、急所を狙うとなった時は頭ではなく心臓・或いは腹を狙ってくる。頭だけ残っていれば生得術式が焼き切れたとしても最悪反転術式が回せるし、内臓や骨や血液はある程度補填できるから、游雲の攻撃はあまり怖がらなくていい。
……最悪の場合も恵がいるし、医療班の設営場所までここからだとそんなに遠くはない。だから大丈夫。
ざり、と足元を靴の裏で擦る。恵の影の位置を確認して私も今一度身構えた。タイミングを合わせろ。失敗したらほぼ勝機はない。この作戦は二度は使えない。一回でキメる。
「…じゃあな、口ほどにもねぇクソガキ」
伏黒甚爾が向かってきたのを感じて私は隠していた鎖を握り直した。来る。大丈夫、こいつは私しか見えてない。思い切りやろう。――恵を信じるんだ。
奴の歩幅に合わせてどぷんと私の足元に暗闇が落ちた。恵が影の中に男の足を引き摺り込んだのが見える。ナイス、天才、完璧。伏黒甚爾が体勢を崩したのがわかる。游雲の切先が私の肩を貫いたのを確認して私はその男を抱き込むようにして強くホールドして背後に倒れた。肩に走る激痛に耐えながらも、伏黒甚爾の頸に私の鎖の楔が確かに刺さったのを確認する。つう、と赤い血が頸から垂れ流れるのが見える。こっちもビンゴ。
押し倒されるような体勢のまま、男にしがみついて私が術式を展開する。でなければ逃げられる可能性があった。
「動くな。私の質問に答えなさい」
フィジカルギフテッドに常識は通用しない。私の支配をこの男は引きちぎることが出来るかもしれないのだから。その証拠に男は身体をこそ動かさないが瞳から抵抗の意思をむき出しにしていた。術式、保って1分てとこだろう。その前に情報を聞き出して殺さないと私が殺される。何せ今私たちはゼロ距離なのだから。
「名前さん!」
恵の焦ったような声が男の向こうで聞こえる。男が目だけでそちらを見たが無視して私は質問を投げかける。
「このテロの首謀者は誰?」
「知らねえ」
「君を呼び出した術師は誰?」
「…ババアだった」
「そのババアはどこにいる?」
「さっき殺した」
「ところで君は、名字名前を知っている?」
「…………お前あの時の」
まるで思い出したとでも言わんばかりに男は目を見開いた。どうやら今の今まで私のことを忘れていたらしい。私の術式がこの男の脳に直接訴えかけたことで、記憶を辿って思い出したのかもしれない。その証拠に目の前の男は私の拘束を解こうと踠き始めた。背後にいる恵に思い当たる節があるらしい。
「…お前、名前は」
そこで初めて、伏黒甚爾は自らの意思である問いを投げかけた。私は黙って見守る。
以前私は恵に「お父さんのことを許してあげて欲しい」と言った。自分の親が死んで、私は初めてそう思った。それを理解することが出来た。
この男が恵に何を思っているかなんて知らない。それでも多分、結果として。死ぬ前の彼が五条悟に恵を預けたのだとしたら、それは多分、愛だった。自分では育てられなかったけど、自分の手で愛してやることはできなかったけど、どんな風に触れて、どんな顔で隣に立てばいいのか、どんな風に愛すればいいのかわからなかったんだろうけど。
それでもこの男なりに、恵が少しでも苦しまずに済む道を願っていたのだとしたら、心からそう思っているのなら、それは多分、愛なんだ。
恵は不思議そうな顔で実の父親を見下ろしていた。ちらりと私を見た後に戸惑ったように口を開く。
「……伏、黒」
恵の言葉に、男は目を丸くした後少しだけ私を見て笑った。
「禪院じゃねぇのか」
私が小さく頷くと、男は満足気な様子で私の鎖に手を伸ばした。
――私が伏黒甚爾相手に最初から領域を展開しなかったのは、"意味がないから"だ。私の領域は必中必殺の領域だけど、呪力のあるものしか閉じ込められない。フィジカルギフテッドは呪力がないから、領域=結界をすり抜けられる。やるだけ無駄、仮に領域を展開しても、一瞬で逃げられて呪力を無駄に消耗して終わり。大体私の領域、30秒以上保たないし領域の押し合いにも全く向いていない。マジの一撃必殺だから使い所を間違うと終わる。
だから。
「…良かったな」
だからこの男は、私の"術式のみ"で殺す必要があった。
「――――」
男が私の肩から游雲を引き抜く。痛みに目を細めて歯を食いしばると、その切先が男の頭に刺さった。……嘘、自害?私そんな命令してないんだけど。呆然とする私を見てニヤリと笑みを浮かべると、男は目を閉じて脱力してしまう。
死体ならではの重量感に思わず私が「うぇ」と潰れたような声を出すと、恵が慌てて私から男を引き摺り離してくれた。
男の左手は私の腕を掴んで剥がそうとしていたから、術式のリミットは結構ギリギリだった。
「…あー…疲れた。めっちゃしんどい」
恵に手を引かれて立ち上がる。倒した男の顔は前回同様やはり別の人間のものになっていた。降ろした術師はババアだと言ってたから、この死体は降霊術の依代となった別の人間だったんだろう。お気の毒様、降ろした相手が悪かったね。
「…名前さん、この男のこと知ってたんですか?」
「一応…一回こいつに負けてから対策考えてたの。運が良かったし恵がいなかったら危なかった。ありがとうね」
「俺は何も…」
「私はこのまま先を急ぐよ。恵はもう呪力カラカラでしょ?一度結界から出て離脱しな。よくやった」
「待ってください、俺もまだ動けます」
「いや無理しなくていいし」
私も元気ではないけど、まあまだまだ動ける。
肩にぽっかり空いた穴に手を翳して反転術式で治しながら駅の方面を見つめた。さっき宿儺の指の気配がしたのも気になる。虎杖くんが先に駅に向かっていたようだけど、一体何が起きているんだろう。私も向かわなくては、そう思って走ろうとした瞬間だった。
「名字名前見ーっけ♡」
「…あ」
油断した。
声を上げる間も無く、身体が横に吹き飛ばされる。しまった、と思った時には恵と引き離されて何区画か離れたビルに突き飛ばされていた。
「漏瑚に先越されちゃってさぁ、オレ虎杖には今手ぇ出せない状況なんだよねぇ。で、ちょうどよく暇してたところにお前の呪力を感じたからすぐにすっ飛んで来たんだ♡」
「……っ」
「会いたかったよ。すっごく、すっごーく!!会いたかった」
私の前に立ちはだかってにやにやと笑みを浮かべる男。否、それは呪霊だった。
特級呪霊。私の魂の形を変えた呪霊。
私の両親を殺して、何もかもめちゃくちゃにした呪霊。
「で、お父さんとお母さん元気ぃ?」
そう言って楽しそうにニタニタと笑みを浮かべて、ツギハギ面のそれが私を見下ろしていた。
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