「君を助けてあげる」
未だ血の香りがぷんと立ち込めるその部屋に座して、俯く私に不敵な笑みを浮かべた白髪の男。
その日、ようやく何かが動き始めた。
そんな気がした。
茹だるような暑さの8月。小学校に入学して5回目の夏休みのことだっだ。お盆休み真っ只中で慌ただしく動き回っている両親や使用人を尻目に私は自分の部屋で宿題と格闘していた。……とにかくイライラする日だった。
分家といえど五条の流れを汲む私の実家は、それなりの規模と財産を有する旧くから続く術師の家だ。お盆休みともなると、やれ墓参りだなんだと五条家とのやり取りがあるのはもちろん、自分達の縁者との付き合いも色濃い。私は一人っ子だけれど、父にも母にも兄弟姉妹がおり、私にとっては叔父や叔母にあたる親戚の出入りも多く、何かと騒がしいのがお盆の常。
親戚の誰に子供が生まれたのでご挨拶だの、葬式の話や結婚、見合いに至るまでこのお盆に交わされることが多く、例に漏れずその年もいろんな意味で賑やかだった。
「名前、久しぶりやねぇ」
「……叔父さま」
しかし私はどこ吹く風、そんな付き合いには興味もないし何より小学5年生の子どもだったし親が全てやっていることなので、余程の用事があって呼ばれない限りは学校の友達と遊びに出かけたり、夏祭りに行ったりと普通の小学生としての休暇を過ごしていた。そうしたかったから。
しかし今日は家にいなさいと母に強く言いつけられ、溜め込んだ宿題を部屋で片付けているところだった。今日は本当は友達に市民プールに行こうと誘われていたけれど……まあどっちしにても行けなかったから仕方ない。
そこに父の弟である叔父がひょこ、と襖の向こうから顔を覗かせてやってきたので、私は小さく会釈をした。
叔父は、父と歳が離れている。見た目も若く整った顔立ちをしていて、それでも何をフラフラしているのか結婚の話などは出ない人だった。
「名前のお父様は忙しそうにしてはるね」
「毎年この時期はそうです」
人懐っこい笑みを浮かべて私の部屋にごく自然に入ってきた叔父に私は少しだけ顔を顰めた。ここは私の部屋だ。入っていいなんて言ってないけど、と思ったけれど、そういうのも失礼だしなんとなく憚られて私は黙って叔父の動きを観察した。
「随分、大きなったなぁ」
叔父はそう言うと、やはりごく自然に私の隣に腰掛けて私が格闘している算数ドリルをじっと見下ろした。
私はそんな叔父を無視して鉛筆を走らせる。……この人が苦手だった。何故というとわからないけど、何となく苦手。なんて言うか、蛇みたいに懐にするすると入ってきて、まるで何か奪おうと企んでいるように見える時があるから。
「もう5年生ですからね」
「へえ……」
勿体ぶるように叔父は微笑むと、髪をかきあげてそっと私の肩に触れた。その瞬間、ぞくっと寒気がして鉛筆を走らせていた私の手が止まる。
「そういや聞いたで。お赤飯炊いてもろたんやろ?」
「……」
蛇がくすくすと笑うのがわかった。
私は固まったまま動けない。口の中が徐々に乾いていく感じがした。
「もう大人の仲間入りやね」
どういう意図で蛇が私にそう言ったのかはわからない。わからないけれどただただ不快だった。
この男の言う通り、私にはほんの数日前に初潮が来た。そういうものがやって来ることは学校でも母からも教わっていたし、処理の仕方も知っていたので特に何も思わなかった。けれど、その事実を告げると私の母は大層喜んでいた。とてもめでたいこと、らしい。子供から女の身体に変わったのだと。つまり私は、子供を産む資格を得たらしかった。
でもこちとら小学5年生、子供を産むも何もそもそも自分が子供である。現実味のない話に「まあそういうもんか」程度の折り合いをつけて、下腹に走る鈍痛に苛立つ程度だった。そしてその夜、確かに赤飯は炊かれた。
ところで、何故この男はそれを知ってる。
「そういや、早熟な子って初潮が早いって聞いたけど、どないなんやろね?」
知るかボケ。
そんな言葉を喉の奥に押し込めて無視してまた算数ドリルに向き直る。――だから家にいるのは嫌なんだ。こういう嫌な気持ちになることが必ず起きる。そして誰も、それらから私を守ってくれない。そういうものだ、という暗黙の了解がいつも私に息苦しさを与える。
うまく言語化できない、まるで空気中に埋められた毒ガスが蔓延しているみたいな、そんな嫌な重い不快感。それをいつも感じてしまう。
どうせ母か父か、はたまた使用人の誰かが喋ったんだ。
叔父は下卑た笑みを浮かべてそのまま私の首筋を指で辿った。触れられた箇所から鳥肌が立つのがわかる。
「叔父さまが試してあげよか?」
どくん、と腹の奥が脈打つのを感じた。
その日はイライラしていた。初潮による腹痛、それから来る不快感。あまつさえ私の許可もなく部屋に立ち入り、さらには私の貞操までどうにかしてやろうという目の前の男。重ねて言うが、私はその時小学生5年生だった。
「……私に触るな」
死ねこのロリコン変態野郎。
「…………っ!!!」
その時のことをあまり詳しくは覚えていないけれど、そう思ったことと叔父さまに手をかけてしまったことは覚えている。
断末魔を思わせる叫び声と、それを聞いてすっ飛んできた使用人の青褪めた顔。さっきまで私が格闘していたはずの算数ドリルは何故か赤く血に染まっていて、これは全問解いたとしても到底夏休み明けに提出できそうにないなぁ。そんなことをしたら間違いなく私の親が児童相談所に呼び出されるだろう。
「誰か!!誰か来て!!名前様が!!!」
「随分派手にやったね」
鴨居に頭をぶつけないようにそっと屈みながら、白髪にサングラスの男が私の元へやってきた時は少しばかり面食らった。
随分久しぶりに会う五条悟の姿がそこにあったから。
悟くんは私を幼い頃から知る親戚。というか五条の本家の当主。東京の高専卒業後は京都に戻らず何故か東京で教鞭を取っているらしく、京都ではお見かけしない。もちろんこの時期は家の仕事で本家に毎年帰省しているようだけれど、多忙な悟くんと顔を合わせるのは久しぶりだった。私が星漿体の補欠候補であること、そして術式の開花により鍛える必要ありと判断してくれたお陰で、彼の都合でふらりと現れては稽古をつけてもらうことはあったけれど。
「どうせなんかキモいことされたんでしょ?君の叔父さんから良い噂聞かないもん」
悟くんは私の状況を見ても少しの動揺も見せずに微笑んでいた。
だが急いで来てくれたことだけはわかる。いつもきちんとした格好で来るのに、今日はTシャツにジーンズというラフなスタイルだった。心なしか少しだけ髪も乱れているような気がする。
「……」
何も応えない私に悟くんは「ふーん、そういう気分?」とまたにやりと笑うと、ローテーブルを挟んで私の向かいに座った。サングラスの奥で煌めく六眼が、少しだけ警戒するように私を見つめている。
「別に術式が暴走したってわけじゃなさそうだね」
「……うん」
こくんと頷く。一応、使用人が綺麗に拭いてくれたけどまだ室内は血の匂いがするし、畳にも微かに血の跡が残っていて薄っすらと赤茶色いシミになっている。
私はその時、絶望していた。
自分がどうしたか、あまり覚えていない。気づいた時には血塗れの叔父さまが叫んでいて、ああ自分はとんでもないことをしたんだなとぼんやり理解していた。
初潮のイライラがあったとか、叔父が気色悪い触れ方をしてきたとか、言い訳はいろいろあるけれど私がしたことは許されないことだ。
罰がきっと父から与えられるはずだから、それは甘んじて受け入れよう。……てか学校の宿題どうしよう?と思っていたところに、父がやって来た。
私が絶望したのは、叔父が気色悪かったからではない。
その時、父が喜んでいたからだ。
「よくやったな、名前」
てっきり平手打ちでもされるだろうと踏んでいたのに、父は嬉しそうに私の背を撫でると「血がついたろう、風呂に入ってきなさい。後のことは私が片付けておくから」と優しく微笑んだ。こんなに優しくされたこと、今まで一度もなかった。
そこまで言われて、ああ、私はもうこの家にはいられないと確信した。今までずっと感じていた違和感。それの正体に気付いてしまった。
この家は異質だ。
結局のところ、才能のある者だけが持て囃され、才能のないものはどれだけ真っ当でも冷遇される。この家はおかしい。イカれている。人を傷つけた私を持て囃すくせに、お利口に宿題をしている私を誰一人褒めもしない。この家はおかしいんだ。
「何か言いたいことある?」
「……どうして来てくれたの」
「将来の妻のピンチに駆けつけない婚約者って逆にどーよ?」
「いやそれさ……悟くんが勝手に言い張ってるだけで誰も間に受けてなくない?」
「こういうのは言い張ってることが大事なんだって。結構効果あるんだよ?おかげですんなり名前とこうやって二人で話せてる」
いつもの余裕たっぷりな笑みを浮かべて悟くんが笑う。
私は何とも言えず、座ったままその笑みを見つめ返した。ちくたくと時計の秒針が動く音がやけに響く。
「だってほら、"婚約者"としては君の処女をやすやすと君の叔父さまに献上させるわけにはいかないし?」
「……気付いて、」
「あーあ、どうせそんなことだろうと思った。君のお母さんがやけに嬉しそうに僕に話してきたからね。耳には入ってるよ。言っとくけど僕だって聞きたかったわけじゃないから」
「うん……」
「気分悪いだろうけど僕そういう変態趣味ないし、気にしないで。……あ、ってことは体調良くない?ここ居づらいなら一旦ウチ来る?……あ、ウチも居づらいか」
悟くんは本当に何でもないようにからからと笑いながら頬杖をついた。この人は当然ながら私のことなんて全く怖くないのである。だって1秒あれば私の腕を捻り潰せるし、更にもう1秒あれば私のことを殺すことだって簡単に出来てしまうだろうから。
悟くんはそこまで言うと鼻歌混じりに立ち上がって、私の部屋の障子を開けて回廊の越しに庭を眺め始めた。……私の殺気と呪力が落ち着くまで黙ってそばにいてくれるつもりらしい。優しいんだか、お節介なんだか。そこまで悟って私は漸く自ら口を開いた。
「……お願いがある」
「どうぞ?」
「この家を出たい」
私の言葉に悟くんは唇を引き結んで黙った。そして庭を眺めながら顎を無言でしゃくる。まるで何か考え込むように。
「ここにいると頭がおかしくなる。……ここにいたくない。どこでもいいから、ここじゃないどこかで暮らしたい。……呪術師にはちゃんとなる、逃げたりしないし。だから……その……どうにか、してもらえない、かな……」
尻すぼみになる自分の声を聞きながら私は俯いた。血まみれになった算数ドリルは、酸化した血液のせいで黒っぽく変色している。……叔父さまはあの後救急車で運ばれ、一命は取り留めたらしい。だけどあの時の私を見る母や使用人の恐怖と憎悪の目がまだ頭の中にこびりついている。……なりたくない。嫌だ。私はおかしくなりたくない。
「いいよ」
まるでそれは一筋の光みたいな答えだった。
悟くんは軽くそう言ってのけると、勢いよく振り向いた。でも笑ってない。さっきとは違う真剣な表情。サングラスの奥から覗く、何もかも見通してしまうきらきらの六眼が真っ直ぐ私を見下ろしている。
「君を助けてあげる」
五条悟はサングラスを外すと、今度は私の隣に腰掛けた。叔父さまが座っていた場所とは反対側。俯く私の顎をそっと指で持ち上げて、半ば無理矢理視線を合わせられる。
「その代わり、僕が困ったときは君も僕を助けてくれるよね?」
有無を言わせない言葉に私は息を呑んだ。この人が困ることなんてあるんだろうか。でも私の疑問を見透かすみたいに悟くんは続ける。
「あるよ、僕も困ること。でも君は何があっても僕を助けてくれる。そうだと約束して。今ここで」
「……これって縛り?」
「まさか」
悟くんは薄く笑ったまま私に右手の小指を突き出してきた。まるで子どもが遊びでする指切りげんまんをしろと言わんばかりに。
一瞬だけ躊躇ったけど、私に選択肢は一つしかなかった。おずおずと私も右手の小指を立ててそっと差し出すと、強引に悟くんの小指に絡め取られる。大きい大人の指に、子どもである私の指が捕まっている姿は何だか不恰好だった。
「はいそれじゃいくよ?指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ーます、指切った♪」
ぱちんと離された小指を何となく不安げに見つめていると、悟くんは「指切りとかマジ何年ぶりだろー」と笑っていた。
← top