何が起きているのかわからなかった。
とりあえず、私が私の目で見て理解できたのは宿儺が魔虚羅を撃破したという事実のみ。

悍ましいほどの悪感的な呪力、そして信じられない程の広範囲の領域。先ほどまで往々にして並んでいたはずの眼前の都会のビル群が、更地と化していた。文化村通りはおろか、井の頭通りまで……宿儺の領域内に指定された土地はすべて、文字通り無に帰していた。
一般的に領域内は呪力のあるものにしか術式必中効果が適用されない。無機物……つまり建物や地面には効果がない。
でも宿儺の領域はそうではないらしい。
あの領域内では、生きているものも死んでいるものも、呪力のあるものもないものも、何もかも全て切り刻まれて、木っ端微塵になる。

自分の手が震えるのがわかった。なんて恐ろしい、なんて強力な……これが、史上最強の……

「おい」
「……」
「そのゴミはもう殺していいぞ」

意識のない恵の肩を抱いて、呆然としながら座り込んでいると、宿儺が何でもないというような顔でゆっくりと歩いてきた。手には魔虚羅のものと思われる方陣が握られていたけれど、がしゃんと投げ捨てた瞬間どろりと黒く溶けて影になって消える。

ゴミ、と再度宿儺が指差した金髪の呪詛師が震えて私を見る。私がそちらに目を向けると、男の子が怯えた様子で立ち上がる。

「伏黒恵はたかだかこのゴミ1匹を巻き込んで殺すためにアレを呼び出した。愚かしい」
「……」
「小娘、貴様の手で殺すことを俺が許す」

カラン、と奇妙な剣が私に投げられる。柄の部分が手になっているそれを私が握ると手が握り返してきて気色が悪い。
ゆっくり立ち上がって金髪の呪詛師に近付くと怯えた様子で私を見つめてくる。何か言ってるが聞こえなかった。多分、「やめろ」「助けて」とかそんな感じのこと。やがてその声は聞こえなくなって、私はぽいと握ってきた剣を放り投げた。足元に転がる遺体に目をやって、私は静かに宿儺に向き直る。

「…虎杖悠仁の檻をどうやって破ったの?」
「貴様と長話などする気はない。それを連れて疾く去ね」
「……ありがとう」
「は?」
「……ありがとうございます」

私はその場で正座をすると、三つ指をついて宿儺に丁寧に頭を下げた。
ざり、と礫が額に擦れる感じがするけれど、気にしない。

「ありがとうございます」

宿儺が何の目的で私や恵を生かすのかはわからない。だけど、私も恵も宿儺に命を救われたのは事実だ。あのままだと恵は絶対に死んでいたし、私も多分魔虚羅に殺されていた。今生きているのは、この呪いの王のお陰なのだから。

「……やはり、実るほどなんとやらか」

宿儺は不遜に笑うと私の横を通り過ぎていった。じわり、と自分の額から嫌な汗が流れ落ちる感覚がする。










意識を失ったままの恵をおぶって救護班の設営されている渋谷料金所まで戻ると、すぐに夜蛾学長と硝子ちゃんがやってきて恵を診てくれた。
さっきの宿儺の領域を感じ取っていた夜蛾学長が何があったのかと問い詰めてきたが、うまく説明できたか正直わからない。私は動揺していた。

恵を救護班に預けて、一人でまた渋谷駅へと戻る。私は宿儺に圧倒されただけで別に大きな怪我もしていないし、まだ戦う余力も残っていた。

「……」

あの宿儺と魔虚羅の激しい戦闘を目にした後で、自分が渋谷でこれ以上どこまで通用するのか疑問だったけど、宿儺と虎杖くんの動向が気になる。高専所属の術師の中では強い方だという自負があるし、別に相手が宿儺以外なのであればそれなりにやり合えるという自信もある。

私が恵を連れて退避した時も、肉体の主導権は宿儺にあるようだった。虎杖くんの檻を多分宿儺は壊せない、と悟くんがいつしか話していた。だから主導権が虎杖くんに戻れば怖いことはない。ただ、あれはどういうこと?虎杖くんにいつ戻るの?

「…………」

湧いている呪霊を祓って祓って祓いまくる。特級ほどの呪霊の気配はもうこの辺りにはないし、心なしか呪霊と改造人間の数が減っているような気がする。おかげですんなりと地下鉄のホームに行き着いてしまって、何だか拍子抜けだった。
恵に言われた通り東京メトロ渋谷駅の副都心線の地下5階ホームに来たものの、そこには術師も呪霊ももう誰もいなかった。代わりに、多数の一般人がぴくりとも動かずに固まって立ったまま文字通り停止していた。床には血の跡が飛び飛びであって、恐らくこれは改造人間の血痕だと思われる。異様な光景に一瞬目を疑ったけれど、ここに五条悟がいたと仮定すれば何ら不思議ではない。
……恐らく、この人たちは悟くんの無量空処に当てられたんだ。やっぱりここに悟くんは居て、ここで一般人を最大限守りながら戦っていた。――じゃあ悟くんはどこに?

恵は悟くんが封印されたと言っていたけれど、獄門疆はおろか首謀者らしき姿もない。代わりにホームドアのそばに人がちょうど入るサイズくらいのクレーターが出来ていて、そこから少し異質な呪力の名残を感じられる程度だった。少し前までここに獄門疆があったのかな。

「……悟くん」

静まり返る駅に鎮座する電車の中には、激しい戦闘の跡と大量の改造人間の遺体。窓ガラスにはスプラッタ映画のような血痕がべったりとついている。
たくさんの呪霊の残穢が混ざり合って、悟くんの残穢などとても追えるような状態ではなかった。
多分、全部悟くんがやったんだ。でもその悟くんは封印されてしまった。

何もいない。
私が求めているものは何一つ、ここにはない。

「……どうしよう」

どうしよう。……どうしたらいい。私、どうしたらいい?
私が呪術師として歩む道には必ず悟くんがいた。いつも私の遥か先を、悠々と歩く貴方の背中があった。ついておいでと言われて必死に追いかけて、その先にあるのが平和な世界だと信じていた。なのにこんなにも早く、貴方のいない世界が始まってしまった。

「……あぁ……どうしよう」

貴方は最強なのに、無敵じゃなかった。最強なのに、弱点がないわけじゃなかった。私はそんな貴方を認めたくない。
封印というのは敗北だ。私達の五条悟が負けるなんてそんなこと、私は絶対に認めたくない。

――それなら私が悟くんの代わりをやるから、私が暴れてたらまた帰って来てくれるよね?あの時だってそうだった。私が暴れたら飛んできて捕まえてくれた。これ以上悪さをしないように、って。
誰もやらないなら、私がこれを止めなくちゃ。
誰も止められないなら、私がもっとめちゃくちゃにしなくちゃ。

後で怒られるかもしれない。殺されるかもしれない。
どうなるかわからない。でももう、この惨事を止められる人間は他にいないだろう。
恵は無事だ。硝子ちゃんの元にいれば絶対に治してもらえる。生きてさえいてくれればそれでいい。
なら私は、

『僕が困ったときは君も僕を助けてくれるよね?』
「……あれをやろう」

思い切り暴れてやれ。









その後のことはあまりよく覚えてない。
何を祓って誰を殺したとか、自分の身体に付いている血が誰のものなのかとか。

「名前ちゃんは一旦正気に戻ろうか」

ただ気が付いた時は私の白髪の半分は赤く染まっていて、九十九さんの呪具みたいな式神に拘束されていた。腕ごと身体に回った鳳輪が逃がさないとでもいうようにしっかりと私の身体を締め付けていて、少し息が苦しくなる。

「……私、」
「いいよ、よく頑張った。やり方に問題あり過ぎだけど」
「……」

ぼんやりする頭で九十九さんを見つめる。一体いつこの人は渋谷に来ていたんだろう。っていうか渋谷ってどうなったんだっけ。……あ。そうだ、夏油傑、夏油傑を探さないと。そいつが悟くんを獄門疆に封印したんだから。いや、夏油傑より獄門疆から悟くんを解放する方が先か。

「……いろいろ考えてるね。自分がしたこと覚えてる?」

九十九さんはガードレールに腰掛けて薄っすらと笑みを浮かべていた。彼女の問いかけに私は首を横にゆっくり振る。
覚えてない。多分何かとんでもないことをしたのだと思う。宿儺の実力、恵を失う恐怖、そして東京メトロ渋谷駅の副都心線の地下5階ホームの惨状。全てのマイナス要素が私の思考を鈍らせた。こんなのは初めてだ。

「……ま、いいや。結果として君が暴れてくれたのはプラスに働いたし私が何か言えた義理でもないから」
「私、もしかしてたくさん殺しました……?」
「ううん。でも多分、君が高専に戻るとそういうことにされると思う」
「高専……」
「夏油傑は獄門疆を持って立ち去った。五条くんもまだ封印されている。……悪いが私では止められなかった。その代わりに、多くの命はせめて助けたつもりだよ」
「……そうですか」
「君が一番気にしてる伏黒恵くんは無事だ。ちゃんと手当を受けたし、そもそも大きな致命傷もなかった。他にも何人か渋谷に高専関係者が来てたけど、亡くなったのは七海くんと釘崎野薔薇って子」
「…え……嘘、七海さんと釘崎ちゃん……?」

驚いて顔を上げると、九十九さんは黙って頷いた。冗談ではないらしい。

「結局のところ、渋谷の首謀者たちと繋がってた内通者は高専の上層部とみて間違いないだろうね。そうなると彼らにとって都合の悪い人間は恐らく即刻排除される。五条くんが居ない今のタイミングでね」
「……それには私も含まれる」
「恐らく。もう星漿体じゃないしな。……虎杖くんはここに残るそうだ。宿儺に身体を開け渡して多くの一般人を殺害したことを悔いている。仕方ないことだったと諭しても聞く耳を持たなかったよ。自分は帰る資格なんてないんだと」
「虎杖くん……」
「君はどうする?」

九十九さんは優しい声音で私に朗らかにそう問いかける。何と返すか迷って俯くと、少しだけ鳳輪の拘束が弱まった。足元のアスファルトは大きくひび割れている。
悟くんはまだ封印されている。夏油傑をから獄門疆を奪って助けないといけない。……悟くんのいない高専に戻って、私は何をすればいい?

「迷うなら戻らない方がいい。嫌な予感がするからね」
「……戻ります」

私の言葉に九十九さんは意外そうに眉を顰めた。

「へえ、それはまたどうして?」
「忘れ物、取りに帰らなくちゃ。……これ外してください。妙なマネしませんから」






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