2018年11月5日
14:23 東京都立呪術高専 医務室
目が覚めると世界が一変していた。
俺が目を覚ましたのは11月5日の午後だった。大きな外傷はないものの、宿儺の呪力に当てられた影響と一度仮死状態になったせいで意識がなかなか戻らずだったらしい。
自分が生きていたことを奇跡だと思うと同時に、家入さんから聞かされた今の状況に俺は耳を疑った。
「名前さんと虎杖が死刑?!」
「声が大きい」
思わず口を押さえると、ベッドサイドに座っていた真希さんが小さくため息を吐いた。
長かった髪が短くなり、身体も顔も大きく傷跡が残っているせいで以前と随分雰囲気が違う。
「何が、どうなって……」
「知らん。今朝出たばかりの通達だ。憂太まだ帰って来てないし、死刑執行に関して具体的にどうなるか……」
「いや、だから何があったんですか?!」
「何って」
「虎杖の死刑が早まったのはわかります。五条先生が封印されて、五条先生に逆らえずにずっと黙ってた保守派が虎杖殺したいって話ですよね?名前さんは?名前さんは何もしてないんじゃ、」
「そっか。名前が渋谷で何をしたのか、お前まだ知らないんだったっけ」
真希さんは足を組み替えてもう一度深く息を吐いた。
そうだ、俺はあのクソみたいな金髪の呪詛師を巻き込んで調伏の儀を無理矢理始めた。……死ぬ覚悟だった。だからその後のことは何も知らない。
「私も直接見たわけじゃないからな。……どこから話すか…」
「彼女は何も悪いことはしてないよ」
ガタン、とドアが開く音がして俺も真希さんもそちらを見る。長い金髪に高身長の女性が俺にウインクを投げた。
「……九十九さん」
「久しぶり伏黒くん。目が覚めて良かったね」
「虎杖と名前さんは」
「虎杖悠仁はまだ渋谷にいる。……名前ちゃんは昨日まで高専にいたけれど、もう行方を眩ましたよ」
何でもないことのように九十九さんはそう言ってのけると「残念だったねぇ、もう少し早く起きてたら会えたのに」と軽く笑った。
名前さんが既にこの場にいないことは真希さんも知らなかったらしく、驚いて目を丸くしている。
「本人曰く高専に戻ったのも"忘れ物を取りに"って話だったからさ。その忘れ物が何なのかは結局教えてくれなかったけどね。上層部の動きを察したのか、君の寝顔を見てすぐにこの部屋から出て行った」
「……」
「随分と君のこと心配してた。伏黒恵くん、彼女にとっても君はすごく大切な人なんだね」
九十九さんはベッドのそばの椅子に長い足を組んで腰掛けると目を伏せた。今の話ぶりからして、名前さんが逃げられるように九十九さんは手を貸したんだろう。なら、この人は敵じゃない。
それにしたって俺は何と答えてよいかわからずに俯く。……名前さんが生きてたんだ、それだけでもまず良しとしなければならない。だがあの人はまた自分一人で面倒事を抱え込もうとしてるんじゃないのか。……俺を置いて。
「クソ……何でいつも何も言わねーんだよ」
「恵のことを思ってだろ」
「……」
「どうせ恵を巻き込みたくないって思ってる。それに事実、今の私らは足手纏いなんだよ。名前一人の方が寧ろ安全……交流会の時から何も変わってねぇ」
そんなことわかってる。……渋谷でも結局、俺は名前さんと分かれた後不意をつかれて致命傷を負った。出血量と呪力量、俺の身体の限界を推し量った結果、あの時は調伏の儀に巻き込む形の捨て身の作戦しか思いつかなかった。それは名前さんが最も嫌がる手段だ。
俺だって死にたかったわけじゃない。でも、呪術師としてこの道を歩む決意をした時点でいつでも死ぬ覚悟はあった。彼女が俺よりも長く生きて、死んであの世があるならそこでまた会えたらいいなんて、そんなことを思うくらいに。
「それに、今回のこの処分も彼女にとっては想定の範囲内だったみたいだよ。その証拠に、賢い彼女はちゃんと自分の身を守る算段をつけていたさ。五条くんが封印されて、彼女の後ろ盾は完全に無くなったからね」
そう言って九十九さんはベッドサイドに置いてあったらしいぬいぐるみの頭をむんずと掴んで俺に見せつけた。こんなのいつから置いてあったんだ?
「だから彼女のことはそこまで心配しなくて大丈夫。って言っても、私行き先知らないんだけどさ。行くアテがないわけじゃなさそうだったし、私に頼るのも嫌そうだったからぶっちゃけ野放しだよ」
九十九さんはぽいとそのぬいぐるみを俺に投げて寄越す。俺がそれをキャッチすると九十九さんはにやりと笑って何故か俺のベッドに腰を下ろした。
「さて、それじゃあ名前ちゃんのことを始めとして、重要なことをいろいろと話そうか。大きく分けて3つ、だね?一つ目は死滅回游。二つ目は禪院家の今後について。三つ目が虎杖悠仁と名字名前の今後についてだ。……起きて早々悪いけど、伏黒恵くん、君には随分頑張ってもらわなくちゃいけないみたいだよ?」
九十九さんと話してわかったことは簡略化して三つ。
一つは死滅回游という儀式――総則を見る限りはデスゲームのようなものが始まってしまった。呪物を取り込まされ呪術を与えられた一般人、術式を所持していたものの未覚醒だった状態を強制的に覚醒させられた一般人を巻き込む形で。そしてそれに、俺の姉である伏黒津美紀が巻き込まれているということ。
これに関して言えば俺は目が覚めてその日のうちに死滅回游の総則を読み込み、津美紀の置かれている状況を理解してすぐに津美紀が入院していた病院に向かった。なるべく冷静に、落ち着いて、1年と7ヶ月ぶりに目を覚ました津美紀と話をした。何も心配いらない、大丈夫だ、と。津美紀は自分の心配よりも、俺と五条先生と名前さんの心配をしていた。二人は無事なの?と聞かれたけど、俺は何も答えられなかった。
二つ目は禪院家の現当主である禪院直毘人が渋谷で瀕死の重体となり、恐らく数日以内に亡くなるであろうということ。それに伴い、相伝術式を持つ俺が何らかの形でその後継争いに巻き込まれる可能性があるということだった。順当にいけば過去に名前さんと無理矢理結婚をしようとしたいけすかない京都弁の男――禪院直哉が後を継ぐことになるらしいが、面倒ごとに巻き込まれる覚悟はしておく方がいい、と真希さんには言われた。俺は禪院家にそもそも深入りする気はないし、跡目争いも直系の血筋で勝手にやってくれればいいんだが。
三つ目、虎杖と名前さんの今後。これは当人達に高専の現状と死滅回游の話をしてどうにか仲間に引き入れるべきだという九十九さんの善意だった。彼女に言われずとも俺は虎杖と名前さんには協力を仰ぐしかないと思っている。虎杖は宿儺の顕現に恐らく責任を感じている。虎杖が悪いわけじゃない。だが許されることでもない。けれど、本当の意味で俺達呪術師を裁ける者はこの世にいない。だったら虎杖も、虎杖を生かした俺も、やるべきことは一つだった。前を向いて進むしかない。俺は、俺達呪術師は渋谷で負けた。五条先生も実質負けた。だから俺達は次に勝てるように進むしかない。
……名前さんだって、きっとそう思ってくれるはずだ。
「……名前さん」
名前さんの行く宛は一つだけ思い当たる場所がある。もっと俺が早く目覚めていれば、あの人を一人で逃げ回らせずに済んだんだろうか。二人で一緒に今のどうにもならない現状に立ち向かう術を考えられたんだろうか?
俺が不甲斐ないから。俺が弱いから。俺があの時、真人に狙われた名前さんに気を取られてしまったから。
「…くそ……」
九十九さんから聞いた話によると、名前さんは渋谷で虎杖と羂索が対峙した場所に単独で乗り込み、満身創痍の東堂を保護したらしい。その後何があったのかはわからない(つまり九十九さんも直接見てはいない)が、地面に大きな穴が空いたらしく、その穴は虎杖曰く「名前さんがやった」ものらしかった。又聞きなのでどこまでどうなのか、彼女があの場で何をしたのかは正直なところよくわからない。
ただ九十九さん曰く、あの時の名前さんは「正気ではなかった」そうだ。
「伏黒くん」
「……!乙骨先輩」
九十九さんの言葉を思い出しながら目を伏せていると、聞き覚えのある声に俺は瞼を開けた。目の前には柔らかい笑みを浮かべた黒髪の青年が立っていて、俺はすかさず「お疲れ様です」と挨拶をする。
「遅くなっちゃってごめんね」
「いえ」
「……ここだとちょっと話しにくいから、早速だけど外に出ようか」
準備はできてる?と聞かれて俺は小さく頷いた。
影の中にある程度の荷物や呪具は収納している。身軽な方だとは思う。乙骨先輩が虎杖の死刑執行人に選ばれたと聞いたのは昨夜だった。俺がそれに同行するのを内密に許してくれたのも乙骨先輩だ。
先輩に促されるまま黙って後をついていく。高専の結界を出てからがいいんだろう、乙骨先輩は天元様の結界を出て鳥居を抜け、階段を下り切った時にようやく口を開いた。
「大変だったね」
「いえ……いや、はい」
「みんなが大変な時に僕が行けなかったこと、申し訳なく思ってるんだ。五条先生までこんなことになるなんて全く予想してなかったし」
「乙骨先輩がそんな風に思う必要ないです。寧ろすぐに帰ってきてもらえて、俺らとしては心強いですし」
「……ありがとう」
乙骨先輩は俺の隣に並ぶと何か言いたげに俯いた後、少し疲れた表情で笑った。
多分この人は凄く優しくて機転の効く人なのだと思う。
俺は在学中、殆ど関わりがなかったし入学前に名前さんや五条先生から話を聞いていた程度で、実際の人柄というのはそこまで知らなかった。だがはっきり言って高専の術師の中で実力があってマトモなのは正直この人だけだ。
「虎杖くんに会うのは初めてだし、経緯も聞いてるから本気で殺す気はないよ。でも上層部との縛りがあるから、やっぱり一度僕が致命傷は与えなくちゃならない」
「……はい」
「勿論、策はあるから心配しなくていい。……ただ、今の渋谷は魔境だ。虎杖くんの他に何か妙な連中もいるかもしれない。僕一人で基本大丈夫だし、伏黒くんは戦闘を避けてとにかく目立たないことに徹して、都度僕のサポートに回る形をお願いしたい。いいかな?」
「わかりました」
乙骨先輩の指示に俺は再び頷いた。自分の実力とこの人の化け物じみた力の差くらい、わかってる。乙骨先輩は善人だ。信用できる人だ。今は指示に従うべきだということはわかる。
「それと、名前ちゃんのことだけど」
「……」
「……あっ、えっと……ゴメン!そう呼ぶように本人に言われてて、いや、でもあんまり良くないか、えっとぉ……名前先輩?いや、名前さんの方がいいかな……?」
名前"ちゃん"という妙に馴れ馴れしい呼び方に反射的に反応してしまい、乙骨先輩が何故か怯えたように俺を見つめた。名前ちゃん、と彼女を呼ぶ人を俺は乙骨先輩以外に知らない。乙骨先輩が実はダブっていて名前さんと本当はタメであるからそう呼ぶようになったらしいとは聞いていたが、実際耳にすると何とも言えない気持ちになる。
俺だってそんな風に呼んだことない、あの人のこと。
「名前ちゃんで大丈夫です」
「いや、良くないよね?名前……サンにしよっかなやっぱり……」
「……どっちでもいいんで、名前さんが何ですか」
「ああ、えっと……伏黒くんは彼女の行き先に心当たりとかってあったりするのかなって」
乙骨先輩は額にかいた汗を拭いながら困り顔で俺にそう問いかけてくる。
乙骨先輩も俺と名前さんが付き合っていることは勿論知っているから気を遣っているのだろう。
「一応、一つだけ。確証はないですけど」
「奇遇だね。僕も実は一つだけ思い当たる場所があるんだ」
「……」
「秤さんのところだよね?」
「……知ってるんですか?」
「いいや、それがどこなのか場所は知らない。だけど秤さんとは連絡とってるっぽかったし、僕が彼女だったら多分そこに行くだろうなって思ってね。実家は潰されてるって五条先生から聞いてたし、京都には近づきたがらないはずだから」
正直驚いた。乙骨先輩がそこまで名前さんのことを知っているということに。
名前さんが秤さんと連絡をとっている、というのは俺しか知らないと思っていた。学内でも「私だけ3年の中でハブられてんだよね」とよく話していたし、五条先生含め誰にも絶対に言うなと俺は口止めされていたし。なのに乙骨先輩は名前さんのその隠し事を知っている。それはつまり、名前さんから信頼されているということを意味する。
俺と五条先生を除いて唯一、名前さんが信頼している相手が乙骨先輩というのは頷ける話だ。事実強いし、性格も真面目で誠実。別に何もおかしくない。変な話じゃない。……なのに、何だこの腹の底に渦巻くモヤモヤした感情は。
「それにさ、ああ見えて3年生って凄く仲が良いんだよ」
「…!」
「あ……えっと、それを何で知ってるかと言うと!去年僕、京都校に交流会で人数合わせで参加して、その時今の3年生が3人とも揃っててね。だから様子は知ってるんだ。なんて言うか独特な雰囲気ではあるけどね、下ネタとかすごいし……」
俺が黙ったのを察して慌てて乙骨先輩が捲し立てる。
「つまり、何が言いたいかって言うと、もし彼女が秤さんのところに行ってるなら大丈夫だと思うよってこと。秤さんなら名前ちゃ……じゃないや、名前さんのこと匿ってくれてるはずだ。ちょっと独特なタイプだけど悪い人じゃない」
「……ですね」
「でも」
なるべく平静を装ってまた頷く。俺の知らない名前さんを、乙骨先輩は知ってる。
俺の醜い嫉妬心を乙骨先輩に向けるのはお門違いだ。だが名前さんを取り巻く男性関係は気になる。あの人と付き合ってるのは俺だ、結婚するのも俺だ、全部俺と一緒に生きるって決めてくれたのはあの人だ。何の心配もない。わかってる。
「愛してる人に置いていかれるのって、すごく寂しいよね」
俺の頭の中を見透かしているのか、とでも思うように乙骨先輩はそう告げた。並んで歩いていた俺の足が止まる。
「……少しわかるんだ。僕とは状況違うけど。伏黒くんが名前さんのことを好きだっていうのはよくわかる。彼女って明るくて優しくて人として魅力的だし、それでいて孤独で、強がりが罷り通ってしまうくらい強い」
「……はい」
「ケータイに連絡はした?」
「電源切られてたみたいで繋がりませんでした。メッセージも送ったんですけど、既読つかないので多分見てないと思います」
「そっか」
乙骨先輩はそこまで言うと顎を指で撫でて暫し黙った。
「……虎杖くんの保護と同時に、栃木まで行ってもいいかと思ってたんだけど多分僕も伏黒くんも彼女に警戒されてる。だから虎杖くんを無事に説得できたらとりあえずすぐ高専に戻ろうか。死滅回游の宣誓期限のことも考えると、伏黒くんとしては津美紀さんを最優先に動いた方がいいよね?」
「はい……」
「何度も言うけど、僕達の予想通りに彼女が秤さんのところにいるなら心配はないよ。何より彼女も、僕と同じことを思っていると思う」
乙骨先輩はそこまで言うと、俺の顔を一瞥した後「行こうか」と走り始めた。話はこれで終わりらしい。交通インフラはほとんど死んでいる。車での移動も難しい。俺たちは高専から渋谷まで、自らの足で向かうのだ。
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