「"私はアナタを殺しません、だからアナタも私を殺さないでください"……他人と関わる上での最低限のルールでしょ?」
名前さんが中学時代に俺の喧嘩を咎めたことは一度もない。何故なのか聞いても必ず「今の恵に必要なことだから」と返すだけで、怪我をして帰ってきた俺を見ても黙って手当てをするか、或いは軽く流して笑って全然違う話をするかの何れかだった。あまりに目に余るときは流石に一言咎められたりはしたが、それでもその程度で深入りはしてこなかった。
「ハア…?」
「"殺しません"を何に置き換えてもいいよ。例えば"傷つけません"、"泣かせません"、或いは"許しません"…とかもね」
別に俺は叱って欲しいわけではないし、そうでなくても津美紀がしつこく心配したり五条先生に圧をかけられたりはするので、名前さんが俺の喧嘩や暴力行為に対して寛大なのは寧ろ非常に有り難かった。
何なら馬鹿どもを殴った後に名前さんと何でもない話をすると気が紛れた。彼女が何を意図して俺にそう接していたのかは、本当のところよくわからない。聞いても応えてくれないし、どうせ返事はいつもの「今の恵に必要なことだからいいんじゃない?」という曖昧なものだ。
でも俺はなんとなくではあるが理解はしている。
彼女だって俺と同じ、"人間"なんだってことを。
「俺らがアンタに何したってんだよ…」
「これ以上は自分の頭で考えてみて、それがわかんないならもう死ねば?」
死ねば?なんて強い言葉を彼女が使うところを俺は初めて見た。
それは珍しく津美紀が泣いて帰ってきた日の翌日に起きた事件だった。
津美紀が春から中学に進級し、俺は小学6年となったその年。その時名前さんは廉直女学院という女子校に通っていて、よくセーラー服姿で我が家に出入りをしていた。
入学式を終えてしばらく経った時期に津美紀が珍しくしょんぼりとして帰宅した。浦見東中は俺や津美紀が通っていた小学校の校区とは別に他の校区から進学した者も多く、学生の数が多い。その見知らぬ同級生との学校生活にも津美紀は難なく慣れ、新たに出来た友達の話なども聞くようになった頃だった。
その日の津美紀は帰宅時に目に僅かに涙を浮かべていて、俺はどう声をかけるべきか悩んだ。その時点で何かあったのだろうと悟った俺と、任務の帰りに偶々我が家にふらりと立ち寄った名前さんは顔を見合わせた。
「…あれは何かあったね」
「多分」
「私、聞いてきていいかな」
「…いいですけど」
俺の返事に名前さんが立ち上がる。部屋に篭った津美紀に声をかけて、二人で少しだけ何か話したようだった。
その翌日だった。名前さんが津美紀と同じクラスの男子数名を半殺しにしたのは。
「おい聞いてんのかクソガキ」
名前さんが近所の公園で鼻血を出す男子生徒の胸ぐらを掴んで凄んでいる姿は衝撃的だった。
下校時刻に俺がたまたま近所の公園の前を通りかかると、彼女はセーラー服姿のままでブレザーを着た男子生徒をタコ殴りにしていたのである。彼女のそんな姿を見たのは初めてで、任務の時以外はふざけてはいても穏やかでどちらかと言えば事勿れ主義的な彼女。そんな名前さんが一般人の、それも同年代の自分よりも大きい中学生相手に大立ち回りで殴り合いの喧嘩をしていた。俺としてはかなりの衝撃的な光景だった。
「こんなことしてタダで済むと思うなよ……その制服、廉直女学院だろ…!」
「だったら何なの?力でも脳みそでも敵わないからってチクるのマジでダサいけど、やりたいなら学校に通報でもすれば?ほらこれ私の学生証、廉直女学院中等部2年B組の名字名前デース、いくらでもどうぞ」
胸ポケットから学生証を取り出して名前さんはわざとひらひらさせながら伸した男子生徒達を踏みつけてそれを見せつける。そして馬鹿にするように中指を立ててべーっと舌を突き出していた。
何というかこの感じが絶妙に出会った当初の五条先生に似ていて、やっぱり親戚なんだなと思ったのを覚えている。
「何やってんですか」
さすがにまずいのでは、と思って俺がランドセルを背負ったまま名前さんに声をかけると、名前さんもその時ばかりは少し焦ったように俺を見て「ヤバ」と言った。ヤバじゃねぇよ、と言いたいのを我慢して状況を確認する。死人は出ていないようだが、こんな真っ昼間に公園で喧嘩なんて警察にでも見られたら厄介だ。しかも彼女は私立の女子校に通っているから、バレたら退学だってあり得る。
「恵には関係ないよ。…てか何でいるの?学校は?」
「今日は午前中授業」
何でもないように名前さんが「あ、そう」と言うので、俺は倒れている男子生徒達を一瞥するに留めた。
「…俺帰るんで、名前さんも来てください」
「…いいけど」
名前さんは倒れている男子生徒達を冷たい目で見下ろした後、俺に続いて公園を出た。
「何であんなことしてたんですか」
「内緒」
名前さんを自宅に連れて帰り、とりあえず家に上がるように促した。本来肩にかけるはずのスクールバッグを背負ったまま、名前さんは不機嫌そうに玄関に突っ立っていたが、俺が再度上がるよう促すと渋々履いていたローファーを乱雑に脱いだ。
「昨日津美紀が元気なかったのと関係ありますか」
名前さんは何も応えずにちゃぶ台に肘をつくと勝手にテレビのリモコンを手にとって電源を付けた。呑気な音楽と共に昼の帯番組が流れる。
「別に。恵に関係ないよ」
名前さんが殴っていた男子生徒達は津美紀が通っている(そしてその翌年俺が通うことにもなる)浦見東中のブレザーを着ていた。つまり津美紀関係だ。バカでもわかる。
「恵、お昼ご飯は?私焼きそば作ってあげよっか?」
「話逸らさないでください」
名前さんは津美紀とそこまですごく仲が良いわけではない。でもいつも「女の子だから」と津美紀のことをさり気なく気遣ったり心配したりしていたのを知ってる。本人には言葉にはしないし、態度でもそこまで示さないが。
だから津美紀のことに彼女がここまではっきりと干渉したのには驚いた。俺に断りもなく、恐らく五条先生にも何も相談せず、だろう。
「津美紀に関係してることは、俺に一声かけてからがルールですよ。…勝手なことしないでください」
「他人と関わる上での最低限のルールを守れない馬鹿は誰の許可を得なくても殴って良いことにしてるの」
「…アイツらが津美紀に何かしたってことですか」
前日の元気のない津美紀の姿を思い出して俺が問い詰めると、名前さんは黙ってテレビを見つめた。無言は肯定だろう。
頬杖をついてダンマリを決め込む彼女の正面に俺が胡座をかいて座ると、名前さんは漸く俺を見た。
「私はアナタを殺しません、だからアナタも私を殺さないでください」
「…?」
「他人と関わる上での最低限のルールってあるでしょ?」
「…はあ」
「"殺し"を何に置き換えてもいいよ。同害報復。タリオとか言うこともあるかな。お互いの尊厳を守るための線引き。私、大抵のルールはバレなきゃ破ってもいいと思ってるんだけど、人を傷つけて喜んでる奴だけはどうにも許せない主義でね」
「……」
「ま、何が言いたいかというと、"なんかそんな気分だった"ってだけ」
そう言うと名前さんは頬杖をついたまま、またテレビに視線を移した。これ以上俺にこの件について話す気はないらしい。
あれが本当に同害報復なのだとしたら、あの男子生徒は津美紀に余程のことをしたということになる。が、多分名前さんのやり過ぎである可能性が高い。
唇を引き結んで黙る名前さんに俺はそれ以上問いただすことが出来なかった。つまり名前さんの私情だったということにして彼女はこの件を終わらせたいらしかった。
「…津美紀が何かされたのなら、俺にも知っておく必要が」
「知りたいなら津美紀から直接聞きなよ、姉弟でしょ?」
「…だったら尚更、」
「あーもう、しつこい」
名前さんが面倒くさそうにそう言い放った瞬間、俺は反射的に黙った。そこで名前さんはハッとして俺をまた見て「ごめん!」と焦ったように謝った。
「ごめん、違うよ。違うの。…でも恵が心配するようなことじゃないから、これ以上もう気にしないで欲しいっていうか」
そこまで名前さんが言ったところで、彼女のスマホに着信が入った。俺がちらりと彼女を見ると、名前さんは気まずそうにスマホを見て目を細めていた。…五条先生からの着信だというのはその顔を見ただけで当時の俺でもわかった。
名前さんは暫し悩んだ後立ち上がり、玄関に向かいながら「はい、私だけど」と通話を始め、ローファーに足を通してスクールバッグを背負い直していた。
「制服で真っ昼間に喧嘩は流石にまずかったよねー」
「…申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げて土下座する名前さんを目にして、俺は僅かに開いた道場の扉にかけた手を止めた。ただならぬ雰囲気だった。
名前さんが問題を起こした翌日。
その日俺は五条先生に呼び出され、高専の道場で稽古をつけるから迎えの車に乗るようにと言われており、伊地知さんの送迎で高専に向かっていた。
道場に着くなり、重々しい空気と話し声が聞こえて思わず俺はその場で立ち尽くした。
「もう二度としません。反省しています」
「……」
「だから、京都には帰さないでください。…お願いします」
「…はぁ」
「お願いします」
綺麗な土下座だった。
道場の引き戸の隙間から見える名前さんは依然として深々と頭を下げて三つ指をついて土下座している。表情は伺えない。その前には腕を組んだ五条先生が立っていた。彼女が五条先生に必死に許しを乞う姿を見るのは初めてで、これがただ事ではないと言うのはすぐに理解できた。
「今のところ京都に帰す気はないよ。…だけどやり方がまずかった、それは自分でもわかるよな?」
「…はい」
「何であんなことしたの」
「………」
「そこはダンマリなんだ」
名前さんは頭を下げたまま黙り込んだ。
「制服であんなことしたらすぐ特定されるに決まってるでしょ。てか学校名も名前も自分から明かしたらしいじゃん。何でそんなバカなことしたの」
「…公平じゃないから」
「…ん?」
「私は相手を知ってるのに、相手が私を知らないのは、喧嘩をする時に不公平だと思ったから、です」
名前さんはゆっくり顔を上げた。床に綺麗に三つ指をついたまま五条先生を見上げたその横顔を、今も覚えている。曇りのない凛とした表情だった。
そんな名前さんの言葉を聞いた五条先生は吹き出すと「ははは!」と快活に笑い始めた。
「侍みたいなこと言うね」
「そんなに笑わなくてもいいでしょ…」
変わらず正座したまま名前さんは目を伏せた。
「津美紀とそいつらに何かあったんだろ。一般人相手にやり過ぎだよ。…理由は?話して」
「…言いたくない」
「僕にそれは通用しない。話せ」
五条先生が屈んで名前さんの肩を掴んで無理矢理視線を合わせた。
あまりに顔の距離が近いので思わず俺は息を呑んだ。まるで見てはいけない大人の秘密を見ているような、そんな気持ちにさせられる。彼女に淡い恋心を抱いている俺としては胸がざわついた。
唇同士が触れそうな距離に迫っているにも関わらず、名前さんは動揺せずに五条先生を見つめ返していた。
「…名前」
「……」
「答えろ」
「っ…あの男の子達が、津美紀に酷いことを言ったから」
「…津美紀は何を言われたの」
五条先生が名前さんにまた詰め寄った。俺は息を殺してその様子を見守る。二人はまだ俺に気付いていない。
名前さんはややあって意を決したようにでもどこか嫌そうに口を開いた。
「"親に見放されてよく平気で生きてられるな"って」
「…他は?」
「…"そんな人間が偉そうに指図するな"、とか。…ねえもういいでしょ、口にするのも気分悪い。だから殴りました、やり過ぎました、私が悪いです、ごめんなさい、反省してます」
名前さんは唇を歪めてそう言うと、五条先生の腕を振り解いた。
「ま、今回は腕引きちぎってないだけマシか」
「…その話やめてよ」
俺は腹が立つのに、同じくらい嬉しい気持ちも込み上げて来て何とも言えずその場に立ち尽くしていた。何もやり返さない優しい津美紀のために、名前さんは怒ってそいつらを殴り飛ばしてくれたのだ。
「恵、入っていいよ」
五条先生はニンマリと笑いながら俺に向かってそう声をかけた。気付かれていないと思っていたが、五条先生は気付いていた。ただ名前さんはマジで気付いていなかったらしく、驚いたようにばっと顔を上げて道場の扉…すなわち俺の方を見てバツが悪そうに唇を噛んだ。
結論から言うと名前さんは1週間の停学処分となった。
彼女が公園で浦見東中の男子生徒と喧嘩をしたことは通行人の目に留まり、すぐに警察に連絡が行き、その後学校から保護者である五条先生へと連絡が行ったという流れらしい。
「言っとくけど、私が停学になったことに恵も津美紀も関係ないから」
「…」
「私が勝手にやったことだから」
「理解しました」
「…何が」
「"私はアナタを殺しません、だからアナタも私を殺さないでください"ってヤツ」
「……」
五条先生にその後稽古をつけられボコボコにされた俺と名前さんは、着替えて道場から出るところだった。
俺が少しだけ口角を上げて名前さんを見ると、彼女は片目を閉じて頭を掻いた。
「悪影響与えちゃった?」
「何の漫画の引用なんですか」
「えー、何その決めつけ。漫画じゃないかもしれないじゃん?」
「だって名前さん漫画しか読まないでしょ」
「まあね」
「で、何て漫画ですか」
「なにもち。恵、結構好きだと思うよ」
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