彼女の靡く髪を綺麗だと思ったのは、これで何度目だろうか。
初めて高専で出会ったのが一度目だ。
入学初日、名前は高専に着いた途端迷子になり「あのー」と任務終わりに偶然通りかかった俺にヘラヘラしながら声をかけてきた。その日は風が強くて、春だというのにまだ少し肌寒く感じたのを覚えている。そんな風が名前の長い絹糸のような髪を靡かせて俺の心を奪ったのを彼女はまだ知らない。
「ここはどこですか?」
「…つーかアンタ誰だよ」
「名前」
「あ、恵くん、おはよう」
あの出会いから早いもので1ヶ月。後から名前に詳細を確認したところ、彼女は俺の唯一の同級生だったらしい。
5月の風はもう寒さなどを感じさせない。寧ろやや暑さとわずかな湿気を帯びたそれは、夏の気配を忍ばせていた。
「なんか毎日恵くんだけと顔合わせてると、もう同級生というよりも親戚みたいな親近感だよ」
彼女が勝手に俺のことを名前で呼び始めたので、俺もそうすることにした。
気に入っている名前ではないが、名前が俺を「恵くん」と呼ぶその声が不思議と心地良かった。
「悪かったな、俺しかいなくて」
「そういう意味じゃないってば。恵くんもそうじゃない?」
「別に」
俺と同じ2級術師の名前は、俺と同じくらい優秀だった。つまり任務中、会話のレベルが合う。
絶望的に方向音痴なところと、たまに途轍もなく鈍臭くなるところを除けば、彼女は同級生としてみた場合、優秀で…そして美しい術師だった。
「五条先生はもう一人新入生が来るって言ってたけどな」
「…あー、なんか推薦の件でモメてるんだよね?可哀想に」
本当に気の毒そうに目を伏せて手を合わせる名前に俺も頷いた。
美しいという言葉は日常的に使ったことがないが、多分五条先生の顔を仮に"美しい"と形容した場合、名前の顔も負けず劣らず美しくはあると思う。
そしてその美しさに反して、彼女は人を揶揄って笑うのが好きな人間だった。自分だって方向音痴で鈍臭い所があるにも関わらず。
「女の子らしいよ。早く入学できると良いなぁ」
そうか?
俺は今お前と二人の時間を、誰にも咎められることなく過ごせるのが嬉しい。もし俺がそう言ったらコイツはどんな顔をするんだろう。
1年の教室に入って並んで座ると、黒板には「自習!!」と五条先生の字で書かれていた。教卓に置かれているプリントを見る限り、これを俺たち二人で今日は片付けろということらしい。
「…また自習」
唇を尖らせて名前がプリントを一枚手に取った。
「今日は慣用句か。私慣用句実は苦手」
「…」
「恵くん教えt」
「自分でやれ」
「けちー」
俺が即答で断ると、名前は渋々プリントを自分の机にぱしんと置いて席に着いた。
「ねえ、こんなのやる意味あるのかな」
「五条先生がやれって言うんだからあるんだろ」
「もっと任務行きたいなぁ。実戦経験、大事でしょ」
「そんなに任務好きなのかよ」
「好きっていうか…まあせっかくなら行っときたい的な」
「…勉強も得意な方だろ」
「苦手じゃないけど」
「…何」
「恵くんとずっとこうやっていると、私楽しくて弱くなっちゃいそう」
名前はそう言うと机に突っ伏し、そのまま窓の外を眺めた。
さっき換気のために少しだけ開けた窓から風がふわりと入り込み、名前の長い髪を揺らしている。風にたなびく髪が綺麗だ。
「…弱くねぇだろ、別に」
「恵くんは私と二人で過ごしてて平気?」
「は?」
「だから、毎日私と顔合わせてて何とも思わないの?」
「…」
どういう意味だよ。
「別に」
「そっか」
名前はそう言うとペン回しをしながらプリントに目を落とした。こいつはこういう掴みどころのないところがある女だ。何か言いたげに、まるで翻弄するように俺に絡んできては笑って指の間をすり抜けるような。
わかりやすく俺はいつも翻弄されていると思う。
「根本的解決のための非常手段。外科医が使う道具から」
名前が問題を読み上げる。さっきの彼女の発言を心中で反芻しながら、俺は黙って問題を解いていた。あれはどういう意味なんだ。
「…外科医?」
「…」
「医者じゃなくて、外科医ってことは手術で使うものって事か」
「……」
「うーん」
「メスを入れる」
「それだね」
よく喋るな、本当に。
「…こっちは?…物事を進める意欲が湧き、調子良く進むこと。車で使う」
「……」
「……」
「…エンジンがかかる」
「ナイスー」
おい、このまま俺に解かせる気じゃないだろうな。
「恵くん」
「何だ」
「今日カタカナばっかりだね」
「そうだな」
「そういう縛りなのかな」
「知らん」
名前はプリントに飽きてきたのか、席から立ち上がると窓まで移動した。外を見ているらしい。背伸びしたせいか、スカートが視界の端で揺れた。
「…おい」
「恵くん後で答え見せてよ」
「自分でやれ」
「今日も恵くんと二人きりかー…」
彼女は窓の外を眺めながら退屈そうにそう言った。
外を見てもでかい森が見えるだけで何もない。高専は山の中にある。何も面白いものもない。
「そんなに嫌か、俺と二人は」
「…恵くんてさ」
突然名前が振り向いて俺を見た。その勢いで髪がまた揺れる。
俺の言葉をぶった斬る名前の言葉。会話が成り立っているのか、そもそも成り立たせる気があるのか。…また俺は翻弄されるのか。
「私のこと好きだったりする?」
綺麗だ、そう思った。
瞬間、窓からの風に名前の風が攫われて激しく乱れた。
「…どういう意味だ」
「恵くん、私のこと恋愛対象として見てるのかなと思って」
…見てるけど。
「何でそう思うんだよ」
「だって恵くん、私のこといつも見過ぎだよ」
「……」
「今もずっと私のこと目で追ってるし」
「…」
図星だった。何も言えなくなった俺をみて、名前は困ったように眉根を寄せた。
「…髪が」
「髪?」
「お前の髪が、綺麗だったから」
苦し紛れに搾り出した俺の言葉に、名前は一瞬ぽかんとした後ふは、と楽しそうに笑った。
「素直じゃないね」
「…うるせえ」
「ちなみに私は恵くんのこと、一目見た時から好きだった」
思わず顔を上げて名前を見る。気付くと俺の机に手をついて俺の顔を覗き込んで彼女は笑っていた。窓から吹き抜ける風が、俺と名前の髪を揺らしている。その自信満々な表情ときたら。
「って言ったらどうする?」
俺の机に乗ったその手を引っ張って顔を寄せた。バランスを崩した名前が俺に倒れ込んでくる。背中を支えて抱き留めると、乱れたままになっていた柔らかい髪を耳にかけてやる。
鼻先で互いの視線がかち合った。
言葉より先に身体が動いた。そのまま名前の唇に自分の唇を合わせる。想像の何倍も柔らかいそこに触れるだけのキスをして、小さく俺が呟いた言葉に、名前は微笑を浮かべた。
「…俺も好きだ」
「ふふ、やっと言ってくれた」
俺はまた翻弄されている、美しい彼女に。
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