「すみません、突然お邪魔して」
「ううん、大丈夫です。上がって」
「お邪魔します」
その日、恵くんがウチに判子を貰いに来た。
お姉さんが入院している病院の書類で、保護者の印鑑と緊急連絡先が二人分必要なものが何枚かあるので捺印して欲しいという連絡が悟さん経由で私にあった。書類の内容は悟さんが既に把握しているので、全部押しちゃっていいよと言われている。
悟さんは恵くんとその姉の津美紀ちゃんの後見人になっていて、実質のところ保護者という立ち位置に近い。彼の両親は蒸発していなくなってしまい、恵くん自身は禪院家の血を引いてはいるものの、難しい立ち位置にいる(詳しくは割愛)ので悟さんが保護している。それが私が聞き及んでいることなので、恵くんが我が家に判子を取りに来ても特に違和感はない。要するに恵くんはうちの子、という認識だ。2〜3歳しか変わらないけど、私にとっては息子的な立ち位置だと思っていればいい。
「今日は仕事休みなんですか」
部屋に上がった恵くんが世間話的に私に問いかけてくるので頷いた。仕事、と言っても高専で事務と雑務をやってるだけだけど。
恵くんは制服姿のままだ。平日なので高専生である以上、学生は授業も一応あるのだろう。
「お休みの日にすみません」
「いいのいいの、気遣わないで」
恵くんは少しだけ申し訳なさそうに俯くと、鞄からファイルを取り出して何枚か書類を出した。今月の津美紀ちゃんの入院費用明細や投薬スケジュール、医師の所見などが入っていてそれは何となく見ないように気をつけながら同意書、申込書といった書類を受け取る。
用意していたボールペンで書類の署名欄に私が"五条悟"と記載してポンと悟さんの認印を押す。それを何枚か繰り返して、緊急連絡先という欄に悟さんの名前と電話番号、私の名前と電話番号を書く。
五条悟、五条名前と並ぶ名前を傍らで立って見下ろしていた恵くんがぼそっと呟いた。
「…マジで夫婦なんですね」
「へ?」
「あ、いや。…すみません」
何だか不思議そうにそんなことを言うので、私は思わず笑ってしまった。
「夫婦ですよ?何で?」
「…五条先生、結婚するまで名前さんの話しなかったんですよ。だから何か実感がないというか…」
「変な感じ?」
「はい、見慣れないんで」
恵くんはそう言って書類に目を落としていた。悟さんが恵くんにまで私のことを黙っていたというのは、この前のあの嫉妬ぶりからして今となっては納得だった。恵くんと仲良くなりたいと言っただけであんなに怒るんだから……私の存在など明かしたくないというのも段々理解出来るようになってきた。
と同時に数日前、台所で襲われたことを思い出してじわっと頬が熱くなる。
「恵に見てもらおうか?」なんて冗談にしても笑えない提案。そんな自宅のリビングに今恵くんが私と二人でいるんだから、変な感じがして慌てて席を立った。何か飲み物でも淹れようかな、とキッチンボードの引き戸を開けてマグを二つ取り出す。
恵くんがまた不思議そうに私を見つめるが、すぐにその視線は手元に移った。書類に目を落として不備がないか確認してくれているらしい。
「あー…えっと、お見合いだったんですよ。だから私達付き合ってはいないの。出会ってすぐにプロポーズされたから」
「よく決断しましたね。嫌じゃなかったんですか?」
「まあ…断れない相手だしね。最初は結構戸惑ったけど…あ、でもちゃんと仲良しだよ」
恵くんは気の毒だとでも言いたげな表情をしていたが、それ以上何も言わなかった。
元々悟さんは私を好いていてくれたし、私もその気持ちに応えるように彼へと接するうちに自然と好意を抱くようになった。結果としてこのお見合いは上手くいったということなのだと思う。
「書類、大丈夫でした。ありがとうございます」
「何か飲む?時間は?」
「…大丈夫です、お気遣いなく」
恵くんは遠慮するように首を振ると、仕上げた書類をまとめてファイルに入れ、持ってきていたリュックに仕舞った。
「それに、俺が長居するとあの人がまた嫉妬するでしょ」
「へ」
「ここ」
恵くんが自分の鎖骨の少し上、肩の辺りを指差して気まずそうに私から目を逸らした。
「スーツだと隠れると思いますけど、結構くっきり付いてるんで。…もう少し首元詰まった服着た方がいいと思います」
「…えっ」
思わず私がそこを押さえて固まると、恵くんはファイルを手に小さくため息を吐いた。私は黙って頷くことしかできなかった。
「たっだいま〜♡」
「…おかえりなさい」
上機嫌で帰ってきた悟さんを、いつもよりやや低めのテンションでお迎えする。
私の普段と違う様子にすぐに気付いた悟さんは一瞬だけぽかんとしたけれど、目隠しを外して首を傾げて屈んだ。私は黙ってその唇にキスを落とす。いつもと同じおかえりなさいの挨拶。そう、何もかもいつもと同じ。
「…名前、どうかした?」
「どうかって…?」
「なんか元気ない」
「別に何も、普通ですよ」
「…ふーん?」
悟さんは目を細めて私を見ると、私のおでこにちゅっとキスをして靴を脱ぎ始めた。上着を黙って受け取ると、玄関のクロークのハンガーにかける。部屋に入る悟さんの後ろを追うようにして私も続いた。すると彼は振り返る。
「そう言えば恵、今日ウチ来たんだって?」
「あ、はい」
「津美紀の病院関係の書類だったよね。大丈夫だった?」
「聞いていた通り、判子押して署名しておきました。特に問題は無さそうでしたよ」
「ありがとう、助かったよ。…恵、すぐ帰ったの?」
「はい。用事を済ませたらすぐに帰りました、長居するの悪いからって」
「そう、それなら良かった」
悟さんはそう言って微笑むと、ポケットに入れていたサングラスを付けて洗面所へと向かった。「それなら良かった」とはどう言う意味だろう。書類に問題が無かったこと?恵くんがすぐに帰ったこと?…そんなことを思いながら、私も台所で夕食の仕上げに取り掛かる。
恵くんに指摘されたそこには、恐らく数日前に悟さんに付けられたキスマークがくっきりと残っていたようだった。恐らくというのは私が覚えていない、つまり寝ているか気絶している間に付けられたものだから。
それがよりにもよって私には見えにくい位置にしっかりとあるものだからボートネックのトップスから丸見えだったらしい。恥ずかしい。恵くんにそういう部分を見られるなんて。それで私は少しだけ、悟さんに怒っている。
「今日の夜ご飯なーに?」
でも悟さんは特に気にせずいつも通りに振舞ってくる。私が台所で大きなサワラの切り身を焼いたものと、柔らかく煮込んだ野菜のスープ、サラダ、作り置きしていた小鉢を準備していると、背後から彼はすりすりと頭に顎を寄せてくっついてきた。
「…お魚です」
「名前」
「…はい?」
「何か怒ってるでしょ。こっち向いて」
肩を悟さんに撫でられてちらりとその顔を振り返って見上げた。
「…あれ、ほっぺ膨らませて可愛い」
「……」
「僕何かしちゃった感じ?…ごめん、心当たりないんだ。だから教えて、僕が悪いなら謝りたい」
すり、とまた猫のように甘えて擦り寄ってくる悟さんに私は目を細めながら配膳の手を止めた。悟さんからすれば大成功だろう、キスマーク、恵くんが見たんだから。…"これは俺の、お前は触るな"って意味なことくらい、私でも知ってる。
「恵くんに…」
「ん?恵が何」
恵くん、と私が言った瞬間、悟さんの声がやや低くなった。…やっぱり恵くんのことをすごく警戒している。絶対そんな必要ないのに。だって今日のあの常識的かつ塩対応な恵くんを見れば、私に興味なんてあるわけないってすぐわかる。彼だって暇じゃないし、私に深く関わる気なんてないはず。
「…ここ、見られちゃって。…恥ずかしくて。私知らなかったから」
「……あー、そういうこと」
わざと着たままにしていたボートネックのTシャツの首元を指すと、すぐに合点が言ったのか悟さんは私の髪を掬い上げて確かめるようにそこを撫でた。今も恐らくくっきり残るそれに羞恥で頬が熱くなる。
「恵は何て?」
「…もう少し、首元詰まった服着ろって」
「はは、子どものくせに偉そうに」
悟さんは少しだけ笑うと私の肩に腕を回して抱きついてきた。
「見せつけてやれて良かったじゃん」
「…嫌です、恥ずかしい」
「それで怒ってるの?」
こく、と小さく頷くと悟さんはニヤニヤ笑いながら愉快そうに私を見下ろした後、私の顔を見てハッとしたように「ごめんね」と頭を撫でた。悟さんからすれば大した問題ではなあのかもしれない。でも私は、何だかモヤモヤ来ている。…私の知らないところで、私を支配しようとしている、そんな気がして。
「こんなことしなくても私、ちゃんと悟さんの妻ですよね。入籍してるし、名字も一緒です。だから恥ずかしいことするの、やだなって…」
「え、そんなに嫌だった?ごめん、名前が可愛いからつい」
「…」
本当に?
本当にそう思ってる?
私が可愛い?本当に?
…そもそもどうして悟さんは私を好きになったの?
「…名前?」
あまり考えないようにしていたことに、自然と私の思考が捕らわれていく。
好きだったらこんなことするの?
好きだったら閉じ込めたいって思う?
好きだったら……?
そもそもどうしてこの人はそんなに私のことが好きなの?
「名前が嫌ならもう見えるとこには付けないよ。ごめんね」
「…はい」
「許してくれる?」
悟さんがほんの少しだけ焦ったように見えた。
ぎゅっと抱き竦められて、回された腕に私も手を添える。…止そう、別に何も大きな問題は起きてない。悟さんは私が好きで、私も悟さんのことが好き。それでいい。…それでいい、んだよね?
「…ご飯、食べましょうか」
振り返って悟さんを見上げてにっこり笑う。うん、大丈夫。だって謝ってくれたし、もうしないって言ってくれたし。だから大丈夫。
自分にそう言い聞かせて、私はまたお皿に料理を盛り付けようと手を動かした。
私の笑顔を見て悟さんが少しだけほっとしたように頷いた。
『君を貰うために君が大人になるの待ってたんだから』
なのにずっと胸の奥で引っかかっているあの言葉が、頭の中で木霊した。私が大人になるのを待っていた。それはつまり、悟さんは大人になる前の私を知っているということだ。
一体いつから?
どこで?
「…名前?」
「…」
「やっぱりまだ怒ってる?ごめん、本当にもうしないよ」
「悟さん」
私はお皿をダイニングテーブルに並べて、めそめそしながらついてくる悟さんを見上げた。
「もう怒ってません。大丈夫。…食べましょう?」
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