「五条の様子がヘン?」
「はい…」
ごくごく、とジョッキで生ビールを美味しそうに飲みながら硝子さんはどうでも良いという顔をしながらこめかみを少しだけ掻いた。
向かいに座る私は頷きながら、ジンジャーエールをちびりちびりと口にする。
硝子さんが予約してくれていた居酒屋さんは半個室のおしゃれな内装で、アフターファイブに女同士で食事をするのにはまさにぴったりだった。
私は未成年なのでまだお酒が飲めないし、悟さんに「硝子に勧められても絶対に絶対に絶対に飲んじゃダメ!」と口酸っぱく言われて来たのでグラスジョッキに浮かんでは駆け上がっていく炭酸を眺めながら、お通しで出てきた鱧の湯引きに梅くらげが乗ったものを少し頂いていた。すっぱ。
「別に五条は常に様子も頭もおかしい変な男だけど」
「……そうなんですか?」
「私から見ればね。君の前では違うと思う、男って惚れた女にはカッコつけたい生き物だろ」
掘り炬燵に少し足を伸ばしながら硝子さんはメニューを手に取って今日のおすすめを眺めていた。
私はもう一口ジンジャーエールを口に含んで、しゅわしゅわと弾ける感覚を舌で味わう。
悟さんの様子が変だ、と思ったのは恵くんがうちに印鑑を貰いに来た翌日のことだった。私がキスマークのことを前日に少しだけ怒ったら、悟さんは「ごめんね、もうしないよ」と謝ってくれたし、それ以外特に何か大きなトラブルも起きていない。
でも硝子さんと夕食を食べに出掛けたいと言った時、一瞬無表情になって何か思い詰めたような表情をしたのは覚えている。そこから何だか、ずっと変なんだよね。悟さんはその後、何度もごめんと謝り始めて、なのに私を抱きたいと言ってその日はめちゃくちゃその…激しく…されたんだけど。
「んー、何というか、うまく言えないんですが元気がないって感じで」
「そうなの?高専ではいつも通りだけどね。元気がないって具体的にどういう感じ?」
具体的にどういう感じ、と言われるとうまく言えない。私が黙ると硝子さんは意味深に少しだけ微笑んで私と同じようにお通しを口に運んだ。
「…仲良いんだね」
「え?」
「少し元気がないだけで心配してもらえて幸せじゃん、五条。ちゃんと仲良いみたいで安心した。身勝手な結婚だったろうから、君は無理してるんだと思ってたよ」
「…それは、」
身勝手な結婚。硝子さんの言葉に私は思い返してみる。
そう言えば、悟さんは私のことが好きで結婚したと言ってくれていた。私が大人になるまで待っていた、とも。…つまりこの結婚は、悟さんが望んだ結婚だったということになる。そしてそれを身勝手と表現した硝子さんは、何か知っているのではないか、と。
「…あの」
「ん?」
「硝子さんは、私のこと、悟さんから何か聞いてたりしましたか」
「…何かって?」
「その、結婚する前に私の話をしたりとか」
「ああ」
硝子さんは髪をかきあげながらもう一口ビールを飲むと小さく頷いた。思い当たる節があるらしい。
「ちらっとね。痺れる子がいたって」
「…痺れる子?」
「3年も前の話だよ。今思えば君のことだったんだなって感じ。…痺れる子がいた、一目惚れだって。15歳の女の子で、その子が高校卒業したら結婚する、とか言ってたかな。キモかった」
「……」
「あ、ごめんね人の旦那をキモいとか」
「いえ…」
一目惚れ、というワードに驚いて私は箸置きを膝に落とした。
そんなの初めて聞いた。だって悟さん私に何も言わないんだもん。
「知らなかった。そんな感じだったんですね」
「…あれ?本人から何も聞いてないの?」
「あー…その、何となく聞くタイミングを逃してしまっていまして」
何となく聞くに聞けずにいたのはその辺りのことに関して、彼にしては珍しく矛盾が多いからだ。
私が大人になるまで待っていた、と悟さんは言っていたから、きっと以前どこかで会っていたのだと思う。
だけど悟さんはお見合いの時に「初めまして」と言って私の前に現れた。あれは何故なんだろう。
「…どこで、会ってたんだろう」
「それは私も聞いてないな。でも"会った"っていうか"見かけた"みたいなニュアンスだった気がする」
「見かけた?」
「だからちゃんと会って話してはないんじゃない?五条目立つし、一回でも会ってたら名前さんは忘れないでしょ?」
「…そうですね」
「それと…ねえ、そのカーディガン」
「はい?」
「ちょっといいかな」
硝子さんが突然じっと私の胸元を見るなり、着ていたアンサンブルのカーディガンを指差した。…何だろう?
「…貸して」
言われるがまま脱いでカーディガンを渡すと硝子さんはボタンの辺りを何箇所か触って裏地を撫でた。
このアンサンブルは悟さんが結婚してすぐに「名前に似合うと思って♡」と言って買ってくれていたもので、手触りも良く使いやすいデザインで私も気に入っている。
硝子さんはボタンの裏を見つめて何が摘んだ。そして小さくため息を吐いた。
「…」
「どうしたんですか?」
「んー…いや、何でもない。ゴミがついてたから取っといたよ」
硝子さんは首を振ると摘んだ何かをぎゅっと指先に力を入れて潰すと傍に置いてあった紙ナプキンに押し付け、近くにいた店員さんに「ゴミです」と言って渡した。ゴミ?そんなところに?不思議に思っていると、硝子さんは「ん、」とまた私にカーディガンを返した。
何だろう、何が気になったんだろう。
「…ゴミ、ですか」
「うん、すごく小さくて鬱陶しくて…ま、要するにゴミ。大丈夫、気にしないで」
「あの」
私が何だったのか訊ねようとした瞬間だった。店員さんがお刺身の盛り合わせを持ってきてそちらに視線を移す。美味しそう、なんて思いながら取り皿を手にしたタイミングで私のスマホに着信が入った。ディスプレイに表示された名前を見てちらりと硝子さんを見ると、硝子さんは「いいよ」と頷いた。
「はい、名前です」
『名前?大丈夫?何かあった?』
「……へ?」
声の主は予想通り、悟さんだった。ただ内容が予想と全然違っていて私は戸惑う。焦ったような口振りの悟さんにぽかんとして言葉を返せないでいると、矢継ぎ早に悟さんがまた捲し立てた。
『ねえ、今どこ?硝子と一緒?今朝話してた居酒屋にまだいるの?』
「…そうですよ?さっきお店に入って、今から食べるとこで…どうしたんですか、本当に」
『…そうなの?硝子と二人?他に人はいない?何もされてない?』
「…えっと、だから、お店に入ってごはん食べるところで…」
困った様子の私を見兼ねた硝子さんは指先をくいくいと引いて合図をしていた。スマホを貸せ、という意味らしい。
「硝子さんに代わりますね」と断って私がスマホをそのまま硝子さんに渡すと、彼女は何故かスピーカーモードに切り替えて話し始めた。し、と硝子さんが人差し指を唇に当てて私に静かにするように指示したので、小さく頷いた。一体何なのだろう。
「五条、私だ。どうした?名前さんは今私と二人で仲良く食事中だけど」
『硝子、何かしただろ』
「…何かって?」
『……』
「お前が言わないなら私が言おうか。彼女まだ気付いてないけど、どうする?」
『じゃ、外したの硝子だな』
舌打ちと共に聞こえた悟さんの声に、苛立ちの色がはっきり浮かんでいるのがわかった。私が反応しそうになるのをまた硝子さんが唇に人差し指を当てて制する。
「だったら何。聞いてるのはこっちなんだけど。私から言おうか」
『やめて』
「それで?」
『僕から話す。…だから硝子は言うな』
「いいよ」
硝子さんはそう言うと通話を切って私にスマホを差し出した。何が何やらだ。
二人の会話には主語がなくて何の話をしているのか全然わからなかった。
…何故あんなに悟さんは狼狽えていたんだろう。
「…あの、何だったんでしょうか」
「んー、私から言うなって言われたから」
「何をですか?」
「だから話せないよ。迎えに来てくれた時に、五条に直接聞きな。さてお刺身食べよう、私日本酒飲んでいい?」
「あ、それはもう、どうぞどうぞ」
硝子さんはそれ以上この件について話す気はないらしく、お箸を手に取りながら呼び出しボタンを押して店員さんを呼ぶと熱燗1合を注文した。
「でも五条ってセックスしつこそうだよね」
「…えっ」
「あれ違った?勝手なイメージだけど」
他愛もない仕事の話や学生時代の話を硝子さんと話していると、お酒が回ってきたのか硝子さんは饒舌になっていた。クールビューティーなイメージだったけど、酒豪でもあるらしい彼女は顔色ひとつ変えずにそんな話題を持ち出してきたので、思わず固まってしまう。
「…他の男性を知らないのでよくわからないんですが…」
へえ、と硝子さんは少しだけ笑うと新たに注文していた日本酒を一口飲んだ。
「初めての男が五条ってこと?他の男と付き合ったこともないの?」
「はい」
「…すごいね、そんなこと今の時代にまだあるんだ。ま、呪術師の家系ならそんなに珍しくもないか。…ってことは、そういう経験全部初めての相手が五条だったってこと?」
「そ、そうです…」
そういう経験、と言われて何だか恥ずかしくなってくる。
私が頷くと硝子さんは「うわー、アイツやったな」と言いながら食べ終えたお皿を重ねて机の傍に置いた。何がですか…。
「学生時代、あいつと3年?かな、同期だから一緒だったけど、アレのどこがいいのか私はついぞわからなかったよ」
「そうなんですか?学生時代の悟さんてどんな感じだったんです?」
「…一言で言うならクズ、かな」
なんかイメージと違う…。
硝子さんの言葉にクエスチョンマークを浮かべていると、「アイツ学生の時と今とで話し方とかキャラがちょっと違うから」と。
「性格は多分変わってないけどね。俺最強ー!雑魚は引っ込んでろー!って言ってた。バカでしょ」
「なんか可愛いですね」
「そう?めちゃくちゃバカだったよ」
そこからは硝子さんの知る悟さんの昔話をたくさん聞かせてもらった。
帳を張らずに任務中派手に戦闘して夜蛾学長にめちゃくちゃ怒られたこと、反転術式をどれだけ教えてもコツが掴めなくて(硝子さん曰く)センスがなかったこと、後輩に変な絡み方をして嫌がられていたこと、難しい任務に一度失敗して覚醒したこと、その後に文字通り最強になったこと、そしてその側にはいつも、今は亡き彼の親友がいたこと。
「…五条のこと、好きなんだね」
そこまで話して硝子さんは持っていたお猪口をそっと机に置いた。
「そんなに嬉しそうにこんな昔話を聞く人間は初めてだから」
「はい。…好きです。…でももっと好きになりたいんです。もっと悟さんを知って、悟さんが思ってる分、私も返せるくらい。…私はあの人にいつも貰ってばかりだから」
恥ずかしいけど、素直に口に出してみる。惚気てると笑われるだろうかと思ったけど硝子さんは笑わなかった。
「幸せ者だな、五条は」
「…そうですか?」
「うん。幸せだと思う。それに、貰ってばかりでもないと思うよ。君が気付いてないだけで、五条は君からもたくさん貰ってるはずだから」
「…だといいんですけど」
「ま、五条の場合やり方が問題だな。人の気持ちがわからないから仕方ないか」
硝子さんは意味深にそう言ってにやりと笑った。…それってもしかして、さっきの電話の話にも繋がったりするのだろうか。
「それって…」
「ん。そう言えばそろそろお迎えが来るんじゃない?」
私の言葉を遮って硝子さんは腕時計を見た。ラストオーダーのお時間です、と店員さんに言われてスマホを見るとぴこんと通知音が鳴る。悟さんから「着いたよ、外で待ってるね」とメッセージが来ていた。
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