「君が伏黒恵くん?」

そう呼ばれた時の俺はまだ幼くて、実に単純だったと思う。
小4の春休み、セーラー服にでかい荷物で現れたその人。
目の前の女性がそれまでの誰とも違う、特別な存在だと気付くのは少し後。
その主観的感情を幼い俺が抱いた時点で、跳ねた心臓の音は初恋のきっかけであったということに過ぎない。











「何してんすか」
「あ、おかえりー」

久々の単独任務だった。低級呪霊が数匹だったので手早く仕事を終えて、やっと慣れてきた高専へと戻った時だ。
補助監督さんの車から降りて報告書を出そうと校舎へ向かっていると、昇降口の階段に珍しい人物が座り込んで何故かシャボン玉を吹いていた。

やる?と聞かれて暫し考えて首を振る。
やってもいいが、ストローは一本しかない。何となく彼女の使った後のものを使うのは憚られた。…そんなことを意識してるのは俺だけなのだろうが。
彼女はシャボン液に専用のストローを潜らせてふふっと笑うだけだった。

「なんか恵、背伸びた?」
「どうですかね、最近測ってないんで」
「ふーん」

相変わらず掴めないな、なんて思いながらその人の目の前に立つと、にこりと笑みを浮かべて彼女は自分の横を指した。座れということらしい。

「名前さんも任務だったんですか」
「ん?んー、まあそんなとこ。さっき戻ったんだ。2週間ぶりとかだね」
「それは…お疲れ様です」
「ありがと、さすがに疲れた」

道理で最近見かけなかったわけだ。単独で長期任務って学生の扱いじゃねぇだろ…と思うが、名前さん含めた3〜4年の先輩はそういうこともザラにあるらしく特に不満を抱いている様子はない。まあ今年の3年が桁違いな実力者ばかりだからというのはあるだろうが。

「他の3年の先輩は一緒じゃないんですか?」
「あー、それ酷い話なんだよ、聞く?」
「じゃあ一応」
「私が任務行ってる間に停学中の金ちゃんと綺羅羅が本格的に上とモメたらしくて、なんかいなくなってんだよね」
「え」

3年の先輩は名前さんを除くとあと男二人しかいないはずだ。その中でも秤さんという人が確か強い術師であるものの、前々から上と折り合いが悪いという噂は耳にしたことがある。

「私に一言も断りなくだよ?帰ってきて硝子ちゃんから聞いてびっくりした。悟くんも知らないみたいだし」
「それで病んでシャボン玉吹いてたんですか?」
「病んでませんー、これは今日帰ってくる時の新幹線で知らない子どもがくれただけです」

むくれながら俺に向かってシャボン玉を吹きかけてくるので俺が手で払うと、二人の間でパチンと弾けたシャボン玉が飛沫を散らした。少しべたっとした掌のシャボン液を恨みがましく見るが、名前さんはそんなこと全然気にしていない。

「というのは建前で、久しぶりに恵と喋りたかっただけだよ。元気そうで良かった」
「…」
「あ、照れてる」
「照れてません」

くそ、また名前さんのペースだ。
この人と出会ったのは随分昔で、五条先生を通じてだった。その後も度々任務が一緒になることがあり、少なからず世話になっている間柄ではある。公私共に。

「高専はどう?楽しい?友達出来た?」
「名前さんって俺に友達いないと思ってるんですか?」
「思ってるよ」

ナチュラル失礼なところは久しぶりに会っても変わってない。

「でも恵のその良い意味で尖ってるところはとても好きだよ」
「…褒めてます?それ」
「褒めてる褒めてる。金ちゃんとか悟くんは変な尖り方しててキモい時あるけど恵はそういうのないじゃん」
「良かったです」

比べる対象が正直微妙ではあるが、好きと言われて全く動揺しない俺ではない。手のひらに僅かに残っているシャボン玉の飛沫を指の腹で撫でて動揺を誤魔化した。
この人の言葉が俺の気持ちを振り回すのは今に始まったことじゃない。

「同級生も他にいるんでしょ?私まだ会ったことないけど、良い子達だって悟くんから聞いてるよ」
「まあ…はい」

同級生、と言われて虎杖の顔が思い浮かんだ。先日の任務で死んだ、"同級生"。
俺の声のトーンが下がったことに気付いているのかいないのか、名前さんは変わらず続ける。

「良かったね。まあ私は金ちゃんと綺羅羅にハブられてるけどね。メールも電話も無視されてるけどね。友達だと思ってたのは私だけだったんだね……」
「結構落ち込んでるじゃないですか」

名前さんはそう言うと膝を抱えて項垂れた。わかりやすくがっかりしている姿に少し笑ってしまう。

「別にそんなことないし。…ねえ、金ちゃんか綺羅羅の情報とか連絡とかあったら私に教えてよ」
「俺、その二人と面識ないですよ」
「面識なくても何か耳にすることはあるかもしれないじゃん?」
「ないでしょ、その前に名前さんに連絡来ますって」

どーだか、と呆れた眼差しで彼女はまた一つシャボン玉を膨らませる。ふわりと大きく膨らんだそれは、静かに宙を待って山の方へ飛んで行った。
その様子を見て、あ、と名前さんは声を上げた。

「そうだ、つまり私達3年、今年の交流会出ないから」
「え」
「そうなると必然的に1年が駆り出されると思うから、頑張って勝ってね。そうだ、京都校の東堂、ウザくて強いし何言ってるかわからないから気をつけてね」
「……」
「それと狗巻くんが貸してくれるって言ってたギャグ日の最新巻、代わりに受け取っといて」
「勢いで俺のことパシるのやめてください」
「バレたか」
「本筋は交流会の話ですか?」
「ううん、本筋は恵の顔が見たかった、だけだよ。これはぜーんぶついでの小話」

あまり嬉しいことばかり言わないでほしい。これ以上俺に勘違いさせないでくれ。

「…結構大事なんですけど」
「そう?全部大した問題じゃないよ」

アンタくらいのキャパの人間にとってはそうだろうな、と思うが口には出さない。
代わりに小さいため息を吐くと、名前さんは口をへの字に曲げた。

「怒った?」
「別に…」
「じゃあなんかご褒美あげよっか」
「ご褒美?」
「そ。私の代わりに恵達に頑張ってもらわないとだからさ。交流会で勝ったら…そうだな、恵のお願い、1個だけ何でも聞いてあげる」
「何でも…」

あまりに魅力的な誘いに俺は思わず聞き返した。名前さんはニヤリと笑って頷いた。

「そう、何でも」
「本当に何でも良いんですか?」

俺が詰め寄ると、名前さんがぱちぱちと瞬きして一瞬不思議そうな顔をした。長いまつ毛がゆっくりと揺れていて、じっと見つめ返してくるその瞳に吸い込まれそうになる。

「んー…いいよ。でも私にできることだけだからね。世界征服したいとか悟くんをアレするとかは無理だから」

アレするって何だよ。

「…俺が世界征服を名前さんに依頼すると思います?」
「いや例えばの話だし!」
「わかってますよ」

もう、とむくれた名前さんが髪を耳にかけた。少し赤くなった横顔が可愛い。
ピアスの刺さっていないピアスホールがちらりと覗いた。首筋からふわりと香る匂いに必死に平静を装う。

「揶揄わないでよ」
「いつも揶揄われてばっかりなんで」
「仕返し?可愛いね」
「可愛いとか言うのやめてください、ムカつく」
「はいはいごめんごめん。じゃ、頑張ってね」

そう言って無責任に微笑むと、名前さんは俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でて立ち上がった。犬扱いかよ。
シャボン玉はいつの間にか彼女の手からなくなっている。

「あれ?もっと見たかった?」

俺の視線に気付いたのか、そう言っていたずらっ子のような笑みを浮かべると名前さんは行ってしまった。

彼女を形容するならば"飄々としている"というのが一番しっくりくる。いついかなる時も"飄々とした"態度で、何が起こっても動じないみたいな顔で笑っている。それが少し五条先生と似ていて、ムカつく時もあるが。

俺もゆっくり立ち上がって今一度昇降口へと足を進めた時に、何か違和感に気付いてポケットに手を突っ込んだ。
あったのはさっきのシャボン液のボトルだ。

「…いつの間に」

いつ、どのタイミングで?
全然気付かなかった。…術師失格じゃねぇか。
それとも俺が浮かれてたから?何でも一つお願いを聞いてもらえると。
名字名前さんは俺の、現在進行形の初恋の相手だから。


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