自分のことを大事にしてほしい、と言われた時、意味が分からなくて俺は思わず名前さんを睨みつけた。
禪院直哉との結婚は破談になったし、俺とのことももっと喜んでくれると思っていた。…俺が勝手にそう思っていただけだけど。
それに、自分を大事にしろと言われるのは癪だった。
…自分を一番大事にしていないのはアンタの方だろ。
京都駅に着くと、俺達の微妙な空気を察してか五条先生は「僕実家寄ってから帰るから、二人はデートでもして適当に帰りな」と言って去ってしまった。
この状況で二人にされるの結構キツイんだが。大体今さっき俺は名前さんにプロポーズまがいのことをして断られたに近い状況だ。地獄だ。
「…どうする?」
「帰りましょうか」
「えっ、デートしないの?」
は?と俺が振り返ると、いつもより綺麗な格好の名前さんが少し悲しそうな顔でショルダーバッグの肩紐を両手でぎゅっと握り締めながら俺を見つめていた。
クソ、可愛い…。でもそのめかし込んだ姿も俺のためじゃなくて禪院直哉という男のためだ。それが無性に腹が立つ。
「…」
「私は恵とデートしたい、けど」
結婚はやんわり断るくせにデートはしたいと言い出すのが名前さんらしくてイライラする。
そのはっきりしない態度にこれまでも何度調子を狂わされてきたことか。
「…どこ行きたいんですか」
「…えー…と…あ、水族館!…とか?」
「行きましょう」
俺が名前さんの手を引くと、ヒールを履いているせいかいつもより少し顔が近い。名前さんが嬉しそうな顔をしているのがわかって、俺はまた調子を狂わされている。
「でっか…」
「…動かないですね」
「動かないね」
水族館なんて何年振りだ。小学校の遠足程度でしか経験のない俺からすると、名前さんと二人で来ているというのは不思議な感じがする。
入館してすぐに展示されているデカいオオサンショウウオを並んでじっと見ているがさっきから全く動かない。やる気あるのかこいつら。
「…動かないね」
「…」
「全然動かない」
「もしかして動くまで粘るつもりですか?」
名前さんは「…ははは」と笑うと次の大きな水槽へ歩いていく。
「そう言えば恵とデートらしいデートするの初めてじゃない?」
名前さんはさっきの気まずさなんて忘れたのか、すっかりいつもの調子で微笑みながら水槽を眺めている。
「そうかもしれないです」
「恵そういうのあんまり好きじゃなさそうだもんね」
「…別に」
名前さんがしたいって言ったら、するけど。
言いかけてその言葉を飲み込んだ。
名前さんとは任務や高専、寮で顔を合わせることは少なくないし、休日もお互い稽古や修行で忙しい身としてはそこまで必要なことではないと思っていた。
けどあのさっきの顔を見るに、名前さんはこれまでもしたかったのかもしれない。
「見てあれ、ゴマアザラシだって。可愛い」
「……」
「なんか学長の呪骸にこんなのいた気がする」
名前さんの横顔を眺める。
楽しそうに水槽を見て俺に話しかける姿は間違いなく恋人のそれだ。
綺麗に巻かれた髪も、いつもよりタイトでくびれが強調されたワンピースも華やかで…つまるところ美しい、が形容詞として合う。
「…恵?」
ぼーっとその横顔を眺めていると、名前さんは心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「…楽しくない?」
「いえ」
「…」
「名前さんに見惚れてました」
俺が素直にそう言うと、名前さんは顔を赤くして照れた。「もう」と少し視線を逸らすと、また水槽を眺め始める。
すれ違う子どもや男が名前さんをちらりと見ているのを本人は気づいていない。
「恵って急にそういう事言うよね」
「本音です」
「……ありがとう」
「?」
さっき言いそびれちゃったから、と名前さんが頬を赤らめたまま俺の手をそっと握ってきた。
クラゲの水槽まで来ると、人の混雑が落ち着いていた。薄暗い照明の中で小さなクラゲが大量に泳いでいる姿が見える。
「…許婚のことですか」
「うん。…正直助かった。説得やっぱりできなかったし。悟くんと恵が動いてくれてなかったら難しかったと思う」
「それはそうですね」
「…それとその…さっきはごめんね」
何が?
「何に対する謝罪ですか、それ」
「恵のこと、心のどこかでまだ子どもだと思ってたから。大人の事情に巻き込んじゃったと思って…あんな言い方しちゃって」
「その子どもと名前さんは何回もセックスしてますけどね」
「コラ」
俺がわざと嫌味っぽくそう言うと、名前さんは「そういうところだよ」と言いながら握った手に力をギュッと入れた。全然痛くない。
「と、とにかく。結婚の話は一旦置いておこう。私達まだ学生だし、恵に至ってはまだ結婚できる年齢でもないし」
「名前さんがそうしたいならそれでいいです」
「…うん」
「でもあと2年経てばできますよ、結婚」
「そんなにしたいの…?」
「…名前さんが他の男と結婚するくらいなら、俺としてほしいとは思います」
そう言ってクラゲの水槽に照らされた名前さんの横顔をまた見る。
気恥ずかしそうな、少し嬉しそうにも見える顔。複雑そうに口をきゅっと結んでクラゲに視線を落としている。しばらく見ていると名前さんの目が俺を見上げた。
可愛い。
「見過ぎ」
「今日は特に綺麗ですから」
「…口説き落とそうとしてる?」
「はい」
京都駅に着く頃には俺と名前さんはいつもの調子に戻っていた。新幹線に乗って東京まで戻ろうと窓口に向かっている時だ。
「あれ、名前じゃん」
「…ふーん。珍しいじゃない」
京都駅で偶然にも京都校の面々に遭遇する可能性はゼロではなかった。それくらい俺もわかっていたはずだ。
「あ、西宮に真依ちゃん。この前ぶりー!元気?」
普通に話を始める名前さん。
おい、まだ俺と手繋いだままだぞ。
「珍しいじゃん、名前がそんな格好なんて。結婚式の帰りとか?」
「で、何で伏黒くんと手繋いでるの?」
ほれ見ろ、俺は知らないからな。
名前さんは「あ」と言って俺の顔を見ると、しばし固まった。
そして思いもよらぬ言葉を発した。
「付き合ってるの、私と恵」
「え」
「は?」
前者が西宮さんの声、後者が真依さんの声。
厄介なことになる、と俺は頭を抑えたが、お互い手は離さないのでやはり繋いだままだった。
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