「天元様がお呼びだって」
その日は何故だか随分朝早くに目覚めた。
目覚ましも鳴っていない。任務もない。なのにすんなりと目が覚めた。
目を覚ましてすぐ、私は枕元の気配を感じた。瞼を押し上げる。
私の髪を撫でる悟くんにそれを言われた時、私は"そんな予感"がしていたから驚かなかった。
澄んだ朝の空気とは対象的な重々しい悟くんの声。私は頷いた。
「天元様と会うの、二回目だったっけ?」
「うん」
「…名前」
「うん?」
「……何でもない」
悟くんが一応気遣ってそっぽを向きながら、私が着替えるのを待っていた。
何か言いかけてやめる悟くん。何を言おうとしたんだろう。
二人で並んで部屋を出た。
時間は早朝。世が明けてやってきた朝一番の空気を吸い込む。
「こんな日は漠然ともう来ないって思ってたけど、来たね」
私がそう言うと、悟くんはポケットに手を突っ込んで黙って空を眺めていた。
「…ごめんね」
「…何で謝るの?」
「……」
「天内理子が死んだのは悟くんのせいかもだけど、それと今回の呼び出しはまた別問題じゃないかな」
「でも、あの日僕が天内を守り切れていたら、名前は今日天元様に呼ばれてない」
「…まあそういう考え方も出来るか」
自分が星漿体の候補だと知ったのは、幼少期に悟くんにこっそり伝えられた時。
その時から可能性があるとは思っていたけど、私よりも優秀な星漿体がいるからとどこかたかを括っていた。
その星漿体、天内理子が天元様の元へ辿り着く前に死んだのが、12年前。
私が6歳の時。それから今まで天元様は安定していると聞いている。一体どういう風の吹き回しなのか。
「…天内理子は受け入れてた?因果のこと」
「…受け入れようとしてたけど、最後の最後で、逃げ出そうとした。その場合、僕と傑で助けてどうにかして助けようって算段だった。まあ死んだけど」
「悟くんにも若気の至りってあったんだ」
悟くんが黙る。
いつも饒舌な悟くんが、今日はぎこちない。
彼の中で12年前の事件は一つの大きなターニングポイントだったらしい。私は詳しく知らないけど、その翌年に彼にとっての大事件が起き、口調や態度や一人称が変わり、私に鬼のように厳しい修行をさせ始めた。
「こうならないために、名前を1級術師に育てて、誰も君に歯向かえないようにしたかったのにな。天元様絡みの任務も名前に行かせてたし、ちょくちょく確認しても状態が安定しているからもうないと思ってた」
「…どういう心変わりなんだろうね」
「さあ。あまり多くを語らないから。…名前」
「ん?」
「…逃げる?」
悟くんはそう言って私を見下ろした。
「僕とどこか遠くへ逃げる?」
私は微笑んで、その言葉に黙った。悟くんが本当にそれを言いたい相手って私じゃないでしょ、という辛辣な言葉はさすがに飲み込んだ。昨年のクリスマスイブに悟くんが誰に手をかけたのか知らない私ではない。
貴方こそ何もかも捨ててあの時、大切な親友と逃げれば良かったのに。本当はそうしたかったくせに。
悟くんと彼の過去に何があったのか詳しくは知らないけど、知らないからこそあの男と私を一緒にされるのは不快だ。
「…悟くんは逃げたいの?」
「どうだろう。そんな選択肢、最初から僕には無かったな」
「…悟くんが逃げたいなら逃げてもいいよ。私は逃げない」
私がそう言って悟くんを睨むと、悟くんは少し笑った。
天元様は高専の地下最深部に位置する薨星宮にいる。
今から向かうそこで、私は天元様から今回の事のあらましの説明を受けるようだった。
天元様と星漿体、そして六眼は因果で繋がっている。同化の周期には必ずこの三者が揃う。つまり、私が天内理子亡き後の星漿体として同化する場合、悟くんがいる時点で条件は揃っていた。
…本来の同化周期から遅れた、12年という歳月を除けば。
「名前さん!しっかりしてください!」
クソ、しくった。
あまりに一瞬のことで何が起きたのかわからなかった。
非術師の女性スタッフを利用して帳を展開した男は、五条先生を帳内に閉じ込めて名前さんを文字通り連れ去った。
展開された帳が半径3メートルにも満たない超小規模なものだったこと、帳が完全展開されるまで呪力を全く感知できなかったこと、そして帳の展開速度の異常な速さ、何より連れ去った男から全く呪力を感じなかったこと、それら全ての異常が同時に起きて五条先生の反応が遅れたことが、敗因。
"恵、名前をすぐに追え!"
動揺で一瞬固まった俺に五条先生は焦った様子で叫んだ。その一言で我に返り、名前さんの匂いを玉犬に辿らせて帳から出ると、彼女はさっきのジェットコースターのコース下まで吹っ飛ばされていたらしい。
名前さんは植栽の樹木に寄りかかるように座っていた。まだ息があり、大きな外傷はなさそうに見える。
「…!!」
頭がびっしょりとアルコール臭のする液体で濡れていたことを除けば。
俺が到着した時には既に名前さんを連れ去った男の姿はなく、代わりに頭にナイフが刺さった見知らぬ男が死んでいた。その側には空のウイスキーの瓶が転がっていて、見た瞬間に血の気が引いた。
名前さんは薄目を開けているが意識が朦朧としているらしい。俺はすぐに持っていたペットボトルの水を頭にかけて応答を促すが、返事がない。
原液を飲まされたのか?それとも頭にかけられただけか?いずれにせよ危険な状況だということに変わりはなかった。
その時ちょうど五条先生も追いつき、膝をついてサングラスを外して名前さんを見る。
先生が一瞬だが息を乱していたのを、俺は初めて見た。
「…名前さん!」
応答がない。だが呼吸はあった。
「息がある。恵、ちょっと待って」
「何悠長なこと言ってるんですか、このままだと死にます。名前さんが酒全くダメなの五条先生も知って…」
「わかってる、でも待って」
「は?」
「…成るのかもしれない」
何言ってんだ本当に。五条先生はサングラスをずらしてじっと名前さんを見詰めているが、相変わらず彼女は薄目で口は少し開いている。意識があるのかも怪しくなってきた。
「…絶対絶命の危機に、人間のポテンシャルは試される。成るものは生き残り、成れないものは死ぬしかない。名前は今際の際で呪力の核心を掴みかけてる。…成ろうとしてるんだよ、僕達が邪魔しちゃダメだ」
五条先生は瞬きせずにじっと名前さんを見つめ続けている。まるで自分が経験した、とでも言うような語り口だ。五条先生は今の名前さんの状況が手に取るようにわかっているらしかった。
「名前、戻ってこい。死ぬな」
それは多分、六眼で見えているからというだけじゃない。先生の経験から来る直感。
「おえ」
突如として名前さんが何か吐いた。
口の中に残ったアルコールだろうか。べ、と口端を伝って顎へと流れ落ちる透明な液体。薄らと血が混じるそれを、俺が持っていたタオルで拭うと、そのまま俺の手首が名前さんに掴まれる。
「名前さ…」
まさかと思った時、それまで虚だった名前さんの瞳に一瞬光がさした。瞼を閉じてゆっくりとまた開く。青白かった顔に少しだけ赤みがさして、大きな瞳の視点がしっかり合った瞬間、にやりと笑って俺を見つめた。
しかしその瞳の色は普段と違って殺気立って爛々と光っていた。俺がその瞳に射抜かれた直後、彼女は驚くべき速さで立ち上がり俺の背後で死んでいる男の胸ぐらを掴んでいた。
「…おい、私は生き残ったぞ。この賭け、アンタの負けだから。………てかマジに死んでるじゃん、重」
そう言うとその男の頭に刺さったナイフを抜いた後、遺体をぽいと投げ捨てた。そこで目を見開いて笑いながら名前さんは頭上を見上げる。
つられて俺も見上げると何人分かの呪力が遠方から飛んで来て、それがさっき虎杖と釘崎の方にいた者達だと気付いた時には五条先生が手を出すまでもなく、
「なっ…生きてる?!酒かけたはずだろ?!」
「あー?酒…酒な?不っ味い酒だったわ」
「ひっ」
「お前ちょうど良いよ、試しにやってみようか?呪力の核心に触れた今なら、アレが出来そうな気がする♡」
ハイになってる?
名前さんは持っていたナイフに呪力を込めて浮遊している呪詛師に目掛け思い切り投擲した。
ナイフが向こう脛を切り裂いたその瞬間、呪具の鎖を取り出すと、呪詛師の足に巻きつけ思い切り引っ張って地面に叩きつける。呪詛師の男にそのまま馬乗りになり、怯える男を見下ろして笑いかける彼女の姿はまるで悪魔のようだった。
「驚いたよ、お前らみたいな雑魚が私を殺せると思ってる事実に。…ちょこまか小細工使いやがって。あの降霊術師と君らグル?」
「くそっ…だったら何だよ」
「私の地雷を踏んで生きてられると思わないで。今の私は最高で最悪な気分なんだ」
「っ…」
地雷、というのは恐らく非術師の女性スタッフをさっきブラフに使ったことだと思う。名前さんが最も嫌うやり方だ。
俺が五条先生を見ると、五条先生に手で制された。
「…なんか懐かしいよ、過去の自分を見てるようでさ」
「止めないんですか」
「どうして止める必要があるの?彼女は今凄まじい勢いで成長中だよ。恵もよく見ておくように。呪術師の成長曲線っていうのは単純な比例グラフじゃないってこと」
五条先生はそう言うとずらしていたサングラスを外して胸ポケットに仕舞った。
あと二人、同様に飛んで来ていた呪詛師を五条先生が蹴散らすのを見て、五条先生に言われた通り俺は名前さんを見守る。
「私の能力は術式を順転で発動すると相手の支配に使えるんだけどね、これを反転させてみようと思うわけ!ねえどうなるかな?」
「…や、やめてくださ」
あは、と目を見開いてニヤニヤ笑いながら名前さんは手から新たに呪力で構築した鎖を出すと、男の腹に向かって鎖の先についた楔を刺した。
「上手くいくかわかんないけど、優しくするね♡」
「ひいっ」
ぺろり、と赤い舌を出して舌舐めずりをすると名前さんは反転した術式を男の丹田に流し込んだようだった。瞬間、男が痙攣して意識を失う。…とても優しくしたようには見えないんだが。
何が起こったのかと目を見張る俺をよそに名前さんはゆっくり立ち上がると、自分の額を親指で突いて笑った。
「うん、良いね。これに私の外付けメモリの容量を増やせれば問題なし。式神は苦手だから憂太くんみたいな外付けの術式が欲しいなぁ……憂太くんに聞くか…いやでもあれはリカの能力だから参考にならないかな。そういう呪霊を支配するしかないのかな…後は術式の反転をもっと安定させて呪力供給の効率を上げれば…」
ハイになったかと思えば、今度は一人でぶつぶつと何か言いながら考えている様子の名前さん。
「成ったね」
どうすべきかと立ち尽くしていると、五条先生が呪詛師の首根っこを掴んで戻ってきた。二人とも鼻血を出して気絶している。
「あれ、悟くんいたんだ」
名前さんは立ち上がるとすたすたと軽やかな足取りで歩いてきて俺と五条先生の前に立った。
「さっきからずっといたよ」
「ふーん。気付かなかった」
俺が固まっていると、名前さんは俺の手にあるペットボトルを勝手に取り、水を飲み始めた。すっきりしたー、と笑う姿を見て五条先生もサングラスをかけ直した。
「反転術式か。しかも一発目でアルコール分解成功。さらには術式の反転にも成功?センスあるね」
「うん、まあね。あと足の骨折もとりあえず治療できた。死にかけた甲斐があったよ」
興奮が少し落ち着いてきたのか、名前さんは目を細めてペットボトルの蓋を閉めると俺に投げて寄越した。
「…アイツが出てくるなんて思わなかったからさ」
「やっぱりあの男と知り合いだったんだ」
そう言って笑う姿にほっとすると同時に、名前さんの強さが怖しい。
死んでない。生きてる。…それだけで十分なはずなのに、彼女は強くなることに貪欲過ぎる。
「恵」
「…はい」
「ありがとうね。さっき頭に水かけてくれたの恵でしょ?」
「そうですけど」
「声、聞こえてたよ。アレがなかったら意識持っていかれて死んでた。ありがとう」
「「反転術式ー?!」」
Qの呪詛師達をボコってボロボロで帰ってきた虎杖と釘崎は、名前さんの様子を見て口をあんぐり開けていた。
そりゃそうだろう。曰く降霊術師の男にぶっ飛ばされたせいで服がボロボロに破けた名前さんが、俺にしがみついて擦り寄りながら折れた自分の足を再度ベンチで治しているところなのだから。
揶揄われるのが面倒で俺は遠くを見ている。これいつまでやるつもりなんだこの人。
「いやー死ぬかと思った!まあもうすぐ死ぬんですけど!」
たははーと笑いながらそう言う名前さんに、虎杖と釘崎は何とも言えない表情をしていた。
五条先生は足の具合を見ながら、名前さんの足に触れることで無限を付加している。治療中に狙われても安心だそうだ。
「冗談でも笑えねぇ…」
「それはそれとして何で伏黒とイチャイチャしてるんですか?」
「俺はしてない。名前さんがくっついてくるだけだ」
「拒否ってないからイチャイチャしてんのと一緒じゃん」
「…うるせえ」
「だってよく考えたらイチャイチャ出来る時にしとかないと後悔するなと思って!後悔のない人生歩みたいから!」
「名前さんいつになくテンション高くて怖いんだけど」
「そりゃハイにもなるでしょ、アルコール分解と術式の反転に成功したんだよ?私マジですごすぎ!これで怖いものなし!お酒も飲める!」
「飲めません。酒は二十歳になってからです」
「ケチ!」
ドン引きの虎杖と釘崎を尻目に、名前さんはどんどん頭を回して足の骨折した箇所に呪力を流しているらしい。
「聞いてもいいですか」
「ん?」
「反転術式で多量のアルコール分解、怪我の治療、術式の反転による攻撃…それから呪具も構築してましたよね?それを一度にやったわけですよね」
「うん」
「何で呪力切れ起こさないんですか」
「それはナイショ♡企業秘密だからいくら彼氏の恵でも話せない〜…!」
「…じゃあいいです」
聞くだけ無駄だった。俺はまた宙を見つめて平静を保つことに徹した。
さっき覚醒した時に一瞬で雑に治したらしいがそれでは不完全とのことで、五条先生が名前さんに跪いて足を支え、サングラスをあげてじっと名前さんの向こう脛を見ている。六眼で反転術式の流れを見て解析しているんだろう。
「…うん、いいんじゃない。折れた箇所はしっかりくっついてる」
「アルコール分解するよりも怪我治す方が簡単なんだね」
「うん、反転術式使いにとって毒はNGだから。そう言う意味でも名前は土壇場になるとセンス発揮するよね」
「歩けますか?」
五条先生がサングラスを掛け直してそう言うので、俺は名前さんの両手を取ってゆっくり立ち上がらせた。
「おお、ちゃんと歩ける」
さっき適当にやったから変な感じだったんだよねと笑っている。
「うん、治った!」
「名前、さっき頭にウイスキーぶっかけられて足も骨折してたんだよ」
「ええ?!マジで?!それでアルコールがどうのって言ってたんか。酒弱いんじゃなかったの?」
「いやー本当死にかけた。危なかった」
ぽりぽりと頭をかいて笑う名前さんに、五条先生が珍しく真面目に謝罪した。
「本当にごめん、僕に隙があった。名前が生きてて良かったよ」
「いいよ、結果的に私元気だし。パワーアップも出来たし」
「…さっきの男、何か言ってた?」
五条先生の妙な問いかけに俺も耳を傾けた。
そう言えばあの男、一体何者だったんだろうか。恐ろしく速く、そして呪力を全く感じなかった。だから俺も気付かなかった。
非術師だと思うが、非術師にしても異常だ。全く呪力のない人間なんか見たことない。
「……あー…」
「…」
「…えっと……なんか、降霊術で降ろされた人みたいで、ちゃんと話する前に急に自害しちゃったからよくわかんなかった。ほら、私もお酒掛けられて意識朦朧だったし」
「…そっか」
名前さんは何故か俺をちらりと見た後、少し考えながら言葉を選ぶようにそう言う。…何かを誤魔化しているように見える。というか何で俺を見るんだ?
五条先生はそれに気付いているのかいないのか、「ふーん、それならいいや」と頷くと、スマホを取り出した。
「…こんな時間。せっかくの楽しいユニバだけど、もうそろそろホテルに戻ろうか」
「えー、ハリドリしか乗ってないじゃん」
「この状態でまだ遊ぶ気なんですか?」
「酒ぶっかけられて死にかけて足骨折したのに?」
「さすがに私も戻った方がいいと思いますよ」
「なになに?なんかみんなノリ悪くない?」
「名前さんが妙にハイテンションなだけでしょ」
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