五条先生が予約していた近場のホテルに着くと、各自一時的に休息を言い渡されてチェックインを済ませた。
ボロボロに破けた名前さんの服はパーク内で着替えを済ませておいたのでこちらも問題なし。

骨折を反転術式で治療したばかりでなんとなく覚束ない名前さんが心配だったので、荷物を持ちながら部屋についていくと、大きなベッドに夜景が綺麗な部屋で彼女は満足気だった。

「良い部屋じゃん!恵、荷物ありがとうね」
「いえ、これくらい当然です」
「なんか飲む?ソファーふかふか〜!恵も座りなよ!」

いつになくテンションが高いのはさっき死にかけて反転術式を獲得したからなのか。
名前さんはそれまでの無理をした笑顔ではなく、ケラケラと子どものような笑い声をあげて楽しそうにしている。

俺は備え付けのバゲージラッグに名前さんのボストンバッグとスーツケースを置く。そのままソファに腰掛けながら館内案内の冊子を手に取る名前さんの前に立った。

「悟くんがね、危ないから今日だけは私はルームサービス頼めだってさ。一人で食べるの寂しいから恵も一緒に食べない?」
「…良いですよ」
「何するー?これかな、メニュー置いてあるけ、ど…」

名前さんの手を引いて立たせると、そのまま唇を奪った。名前さんは驚いてはいるものの抵抗はしなかった。
寧ろ嬉しそうに目を細める。

「…どうしたの」

俺が名前さんの頭に顔を寄せると、名前さんも俺にもたれてくる。

「…すみません」
「あれは悟くんのミス」
「でも俺も反応できませんでした」
「…うん」
「……」
「本当言うとちょっと怖かった」

小さくそう言う名前さんに胸が締め付けられる。
この人は何でも器用にこなすが、本当はそんなに強いわけじゃない。なのに優しくて何でも引き受けてこなしてしまうから、強いと皆んなが勘違いしている。

「…ごめん」
「何が」
「…怖いの、本当は」
「…」
「…強がってるけど…本当は死ぬのが怖いの」

ずる、と力無く俺にもたれかかって俯く名前さん。顔は見えないが、か細い声がいつもより名前さんを小さく見せている。

器用で優しい彼女は、残酷なまでに強くなっていく。名前さんの心はそんなに強くないのに。

「ごめん、自分で決めたことなのにこんなこと言って。恵のこと困らせてばっかりだね、私。恵のこと幸せにしてあげたいのになぁ、なんか何もうまくいかなくてさ」
「…そんな風に思ってたんですね。名前さんは軽い気持ちで俺と付き合ったと思ってたので、意外でした」
「そんなわけ」

ないでしょ、と俺を見上げる瞳には僅かに涙の膜が張っている。

「恵には幸せになってほしいと思ってたよ。ずっと。…恵が私のこと好きなのも、本当はずっと前から気付いてたよ」
「…そうなんですか?」
「だってわかりやすすぎるもん」

名前さんは目を細めてまた微笑んだ。
知られていたとは知らなかった。名前さんは交流会で勝ったら付き合って欲しいと俺が言うまで、そんな素振りを全く見せなかったから。

「なのに、ごめんね」

どうして謝るんだ。
どうしてこの人ばかりが辛い思いをしなければいけないのか。この人が一体何をしたって言うんだよ。

「私じゃ恵のこと、幸せにしてあげられないみたい」

名前さんは俺の腕を外すとそっと離れて背を向けた。
窓の外の夜景を見て、まるで彼女は自責の念にかられているようにすら見える。

「なんか勘違いしてるみたいなんで言っておきますけど、俺は別に名前さんに幸せにしてもらいたいとか思ってませんから」
「…」
「俺は名前さんがいれば、それで幸せなんですよ」

名前さんは黙っていた。

「もっと欲張ってください」
「……」
「アンタは目の前の現実何でもかんでも受け入れ過ぎです」
「そんなことしたら…みんな幸せになれないよ」
「…は」

幸せ?さっきから幸せ幸せって、他人の幸せのために死ぬ気なのか?
アンタの幸せはどこにあるんですか?人の犠牲になるために生まれてきたみたいな口振り、腹が立つ。
気付くと自分でも驚くほど低い声が出ていた。

「どうでもいいでしょ、他人の幸せなんて」
「…なに言ってるの」

俺の言葉にようやく名前さんが振り向いた。
涙の膜は剥がれ落ちて、ぽたりと一滴頬を伝っている。慌てて彼女はそれを拭う。
夜景の前でそうしていると彼女は絵画か何かのようで、存在そのものが希薄になるようで恐ろしかった。
だからだろうか、言うつもりのなかった言葉が止めどなく口から溢れる。そうしないとこの人が俺の中で形を保てなくなりそうで。

「俺は少なくともどうでもいいです。名前さんがいて俺がいて、二人でいれるならその場所がどんな場所でも、俺にとってはこの上ない天国ですよ」

俺の人生はある種地獄だ。そしてこれからもそれは続いていく。何故なら俺は呪術師という道から逃げることができないから。
逃げられないんだ。津美紀を守るためにはそれしかない。
五条先生が俺を見つけたあの日から、俺の人生は決まってた。自分の父親を恨んだし、自分の才能を恨んだ。家族に津美紀がいたけど、津美紀には心配させたくなくて全てを話せなかった。

孤独だった。

だけど俺を孤独から引き摺り出して、俺の地獄を理解して、それでも尚俺に手を差し伸べたのはアンタだ。
誰にも話せない苦悩、生まれ、生い立ち、立場…それらを理解してただ黙ってそばにいてくれたのは名前さんだった。

その手を取った俺を引っ張って新しい世界へ連れ出してくれたのも名前さんだ。俺に"楽しい"や"嬉しい"、そして"愛しい"という感情を教えてくれたのも。

「それって名前さんが俺を幸せにしてくれてるってことですよね」
「…」
「俺は名前さんと一緒にいれたら良いんです。…それで十分でしょ」

この感覚は普通ではないんだと思う。
でも俺はそれで良かった。もし名前さんに出会わなかったら、他の誰かからこんな気持ちを教わることはなかったと思う。

"こういうこと"しか俺にはわからない。どんなに本を読んでも、勉強しても、俺の気持ちにぴったりくるものはなく。
つまり俺の中にある名前さんへの想いは"愛"というにはあまりにどす黒すぎるが、そうとしか言えないほど唯一無二なんだ。

これが日頃から隠していた本音だ。
他の人間が憎悪の対象という訳じゃない。
でも名前さんの命と引き換えに世界のバランスが壊れるとかそういう話なら、それでもう良いだろ。
壊れた方がいい、そんな世界。

「本気で言ってる?」
「俺はずっと本気ですよ」

この人の犠牲で成り立つものなんかいらない。俺はそんな施しは受け入れない。
この人が俺の前からいなくなるなんてことは、認められない。絶対に。

「……あのね」
「?」
「恵には、私以外にももっとたくさん素敵な人が周りにいるんだよ。家族や友達や先輩や先生、恵をサポートしてくれる人、たくさん、たくさんいるんだよ」
「…」
「だから…私だけいればいいなんて…自分にはそれしかない、みたいな……そんな悲しいこと言わないで」

俺の目を見てはっきりそう言った名前さんに思わず俺は名前さんの腕を掴んだ。頭に血が上ったように、反射的に体が動く。驚いて固まる名前さんを無視してそのまま壁に押し付けると、名前さんは怯えたような目で俺を見上げた。

「じゃあ、どうして」

アンタが俺にそれを言うのか?

「どうして俺を、貴方の男にしたんですか」
「…え」
「俺には最初から、名前さんしかいなかったのに」
「恵…」

名前さんが何か言いかけて黙った。

「貴方がいたから呪術師という道に絶望せずに生きて来られたのに。…俺を貴方に依存させて、貴方なしじゃダメにさせたのは、名前さんですよ」

名前さんは口を少し開いて、目を逸らした。俺の言ってる意味、わかっているんだろうか。伝わってるだろうか、この人に。

「こうなるって少し考えたらわかりませんか。俺には最初から何も…」
「恵は仙台で虎杖くんを助けたでしょ?」

名前さんが俺の言葉を遮って俺を真っ直ぐ見上げると、俺が掴んだ腕を反対の腕で掴んだ。強い力に思わず言葉を失う。

「恵は虎杖くんのこと、善人だから助けたいって言ったよね。私嬉しかったんだよ。恵に、津美紀以外に大事なものが出来たんだって。それが同級生の男の子だって知って、本当に良かったって思ったの」

なんで急に虎杖、と思ったが名前さんにとってそれは重要なことらしい。
確かに虎杖を救いたいと思ったのは事実だ。それは虎杖が善人で、津美紀や名前さんと同じ類の人間だと確信したからで。

「虎杖くんは危険な存在だし、本来なら即刻殺すべきだと思うけど」
「…」
「恵が助けたいって言ったのなら、私は虎杖くんを信じたいと思ってるよ」

殺すべき、という言葉に俺は顔を上げた。名前さんはまだ真っ直ぐ俺を見上げている。

「恵には虎杖くんを生かした責任があるんだよ」
「…それは」
「本当に何もいらないのなら、どうしてそんなことをしたの?大好きな私と守るべき津美紀のためだけに生きてくれたら良かったんじゃないの?…それが恵の幸せだったんでしょう?」

どうして、この人はいつも。

「本当は恵にも、私以外に大切にしたいと思ってる人や世界があるんじゃないの?」

こんなに正しくて、揺るぎないんだろう。
何も返せないでいる俺の手を名前さんはそっと剥がした。

「だから…他人の幸せを願うことを、どうでもいいなんて言わないで…。私には自分の存在意義がそれしかなかったのに…っ!」

そう言って名前さんはぼろぼろと涙を溢すと、俺を押し退けて部屋から出て行ってしまった。
突然のことに呆気に取られて立ち尽くしてしまう。

「…自分の存在意義が、それしかない…?」







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