「ねえ」
九十九さんとの食事会を終えて私と悟くんはホテルに戻るところだった。
九十九さんはこの後何やら用事があるらしく、会計を悟くんに押し付けて颯爽とバイクに跨り去っていった。さすがである。その辺もやっぱり特級術師。
テーブルチェックの際に金額を確認すると、ウン万円となっていたけれど、悟くんは「まあ情報料ってことだね」と特に気にする様子もなく、いつもの様にブラックカードでお会計を済ませていた。こちらもさすがに特級術師。
「九十九さんの話、どう思う」
悟くんの隣を歩きながら私は問いかけた。ホテルまで歩くと少し時間がかかるけど、歩きながら悟くんと話をしたい気分だった。彼も同じ気持ちだったのか、私に歩幅を合わせて歩く。
「そうだねぇ。まあとりあえずこの件は内密にしてくれる?一年生の三人にはまだ何も言わないで」
「…何で?」
「何でも」
「…いいけど」
私の言葉に頷くと、悟くんは何か考える様に顎に手をやりながら視線は真っ直ぐ前に向けたまま考えているようだった。
「九十九さんが嘘を言ってるとは思えないし、本当のことなんだとは思うよ。…それにしても僕に一言言えよって感じだけどね」
「…うん」
「名前はどうしたい?」
悟くんに見下ろされて私は足を止めた。
つられて悟くんも足を止めて、ポケットに両手を突っ込んだ。
「…私、さっき恵と喧嘩しちゃって」
「うん、知ってる」
「恵に、本当は死ぬの怖いって言っちゃったの」
「それが本音だよね?」
私が頷くと悟くんは何かまた考えるように黙った。
「…一度さ、素直に恵と話したほうがいいよ。腹の中のもん全部ぶちまけてぶつかってみたら?君達の愛が呪いになっちゃう前に」
「でも…」
「傑はさ、」
思わぬ人物の名前に私は驚いて固まった。
悟くんからその人の名前が明確に出るのは、初めてじゃないだろうか。
「傑はさ、俺が何も気付けなくて、あんなことになったけど、でも僕にとって親友なんだよね。たった一人の。もしあの時何か気付いてたらとか、傑がもっと何でも話してくれてれば、とか……たられば言ってもしょうがないんだけど。そしたら傑はまだ僕の隣にいてくれたのかな。…いて欲しかったな」
悟くんはそう言って私をじっと見下ろした。
その視線。それが何を意味するか、私はわかってる。悟くんの異常なまでの、ある男に対する執着。
恵も私に対して大概重いけど、それに負けないくらい五条悟という男は夏油傑という男に執着している。
ちゃんと女泣かせのクズであることは知ってるけど、特定の女性を作らないのは親友より大事な女がいないからでしょう。
「僕が今も傑にそう思ってるように、恵も名前にそう思ってるんじゃないかな」
「……」
「死んでからじゃ遅いんだよ、何もかも。この件に限らず、呪術師として生きていく限りそのリスクは付き纏う」
「うん…」
「僕と傑はそれになれなかったけど、恵と名前はまだ間に合う。良い機会だと思うよ」
繁華街の喧騒が遠くに聞こえる。飲食店の看板や照明、ネオンの明かりが私達の顔を照らしている。
交差点の信号が赤から青に変わるのが見えた。
「悟くん、ありがとうね」
「…僕の方こそありがとう」
「悟くんの望む私になれなくてごめん」
「いや、君に傑を求めてごめん。…もう名前のこと、解放してあげなくちゃいけないね」
そう言って悟くんは私の頭を撫でた。大きくて暖かい手。何度この手に殴られ、掴まれ、鍛えられたことだろう。
殴られた時に吐いたあの不快感も、無限で叩き付けられる骨身に染みる痛みも、地べたを這いつくばる苦しみも、絶対的強さの前で気持ちだけは負けない精神力も…そして何より自分の無力さを、何もかもこの手に教えてもらった。
私がいかに弱いかを、この人は知らしめるのが上手だった。
「…君は十分強い」
「たっだいまー!」
「…ただいま」
悟くんに言われるがまま、緊張の面持ちで恵の部屋をノックする。ややあってガチャ、と開いた扉。恵が私を見て少しだけ目を見開くといつも通りの仏頂面に戻った。
悟くんに両肩を背後から押さえられているから逃げられない。
自然と恵と目が合い、少し気まずい。
「おかえりなさい」
「あの……急に飛び出してごめんなさい」
恵はいつもと変わらない声音でそう言うので、私は反射的に謝った。少しだけ頭を下げて謝罪して、ゆっくり顔を上げる。
「心配しました」
「……ごめん」
「まあでも、無事なら良かったです」
恵は怒っていないらしい。いつもより穏やかな、ほっとしたような優しい顔で私を見ていてどくんと胸が高鳴った。何も言えないでいると、恵の背後から虎杖くんと釘崎ちゃんの声が聞こえる。
「あ!二人ともおかえり!飯食った?」
「残念ながらココには干し芋とポッキーしかないわよ」
「ありがとう、悟くんと食べてきたから大丈夫」
そっかー、と虎杖くんと釘崎ちゃんはそれ以上触れてこなかった。私が恵と喧嘩して出て行ったこと知ってるのかな?もしかしたら恵がうまいこと話してくれたのかも。とにかく二人は気を遣っているのかいないのか、いつも通りの雰囲気でポッキーと干し芋を食べていた。
「悠仁、野薔薇。悪いけどちょっと話あるから、席外してくれる?…いいよね、恵」
「はい」
そこまで言うと、悟くんはパッと私から手を離した。虎杖くんと釘崎ちゃんが「へーい」と言いながら部屋から出ていく。二人がいなくなったのを確認して、「それじゃ、ちゃんと仲直りしてよ?」と悟くんも片手を上げると部屋へと戻って行った。
残された私と恵には沈黙が訪れる。廊下で立ち尽くしたままの私と、ドアを開けて黙ってその私を見下ろす恵。
「…話、したいんだけど」
「はい」
「いい?」
「どうぞ」
恵が中に入るよう促したので、私は意を決して入室した。
恵の部屋は私の部屋よりもほんの少し狭くて、窓も少し小さい。室内の装飾や家具は同じだ。
「何か飲みます?お茶かコーヒーしかないですけど」
「お茶で」
「わかりました」
ポットにお湯を沸かす恵をソファに座って見つめる。本当は怒っているんだろうか。
勝手に飛び出したことも、恵にさっきぶつけた言葉も。彼を傷付けてしまったかもしれない。
何から話そう、と視線を彷徨わせて考えていると、恵がテーブルにお茶をそっと置いた。
有り難くそれを頂きながら、ちらりと恵を見るとベッドに座って黙っている。私の言葉を待っているようだった。
「…あの」
「はい」
「私、恵に隠してたことがあって。隠してたっていうのはちょっと違うか…その、なんていうか…とにかく、恵に知っててほしいことがあるの」
「何ですか」
「私は恵が思ってるような善人じゃない」
恵は何も言わなかった。
黙って私の言葉の続きを待っている。
「さっきも言ったけど、私は他人から求められることでしか自分を満たせないタチなんだよね。…だから、誰でもいいの、寧ろ誰もが私を必要としてほしい。だからそういう風に振る舞う八方美人なところがあるの」
「……」
「もちろん、人が幸せそうにしてたり嬉しそうにしてたら、私も嬉しくなるよ?でもそれとは別に、もっと必要とされたい、もっと私を求めてほしいって思う。それが私の存在意義なの」
「別に、いいと思いますけど」
「恵もその一人だった」
恵が目を細めたのがわかる。
「恵さっき言ったよね。恵を私に依存させて、私なしじゃいられなくしたって。…ごめん、薄々だけどわかっててやってた」
「…マジですか」
「恵と付き合うって決めたときに、私なしじゃ生きられなくなって、私をずっと求め続けてほしいって本当は思ってた。ごめん。…そんなの、間違ってるのに」
私は首を横に振って告白すると俯いた。恵の顔が見られない。きっと嫌われた。
だって私の言ってること最低だもん。
「…ごめんなさい」
「そうやって、俺の気持ちを支配しようとしてたんですね」
「…側から見るとそうかも。本当にごめんなさい」
「…」
「でも、これは本当のことだから聞いて欲しいんだけど」
「うん」
「最初から、貴方は私の特別だった」
私がそう言った瞬間、恵が息を呑んだのがわかった。私は俯いたままなので恵がどんな顔をしているかわからない。顔を見るのが怖い。
「…何で」
「誰かに愛されたくて、誰にでも優しくしてたら、みんな徐々に私を愛してくれなくなる。無償の愛だと勘違いするから。…私は見返りを求めているから、返ってこないと愛すのを辞めてしまう。…恵とはそういうふうになるのが嫌だった。恵のことが大事だったから」
私がそう言うと、恵は黙った。
恵の気持ちにずっと気付いていたのに意識しないようにしていたのは、私が彼を本当に好きになった後を考えた時が怖かったから。好きかどうかわからない、曖昧な気持ちのままでいれば、恵が私以外の人間を選んで進んでもきっと祝福出来る。気持ちをセーブしていたのに。
なのに決めてしまった。私自身の意思で。この特別な気持ちは、やっぱり愛だったんだって。
この男を自分のものにしたい、そう思ってしまった。
付き合ってからは尚のこと。
恵のベッドの上でゴロゴロしてわざと意識させたり、補助監督の子にヤキモチ妬いてみたり。全部恵が好きだからやってたことではあるけど、"恵が私のことで頭いっぱいになればいい"と思っていたのも事実だ。
「だから、恵だけは私から離れないように依存させようとしてたの」
ああ、何て卑怯なやり方なんだろう。自分の口から話すほどに自分の汚さを感じて嫌気がさす。私って本当に芯の部分が歪んでいる。
恵が淹れてくれたお茶を覗き込むと薄緑色の水面に不安げな表情の私が揺れていた。
「そもそも、何でそんなことをし始めたんですか」
「…"私"を必要とされたことがないから。他で穴埋めしようとしてた」
「誰に」
「…親、かな」
「ああ、そういうこと」
はあ、と恵がため息を吐いた。あーあ、嫌われたな。きっと恵の中で私は誰にでも優しい博愛主義の善人だったはずなのに、実際は自分の腹を満たす為だけに他人を利用して快楽を貪る偽善者だったわけだから。
きっと幻滅しただろう。
でも話すべきだと思った。後数日の命かもしれない状況に今も変わりはないけど、本当の私を知っていてもらうべきだと思った。じゃないと悟くんの言う通り、私達の心は歪んだまま、呪いになってしまいそうだったから。
「で、どうなんですか、今は」
「…?」
「今、埋まってるんですか、その心の穴は」
私が首を振ると、恵がため息を吐いて頭を掻いたのがわかる。そんな何回もため息吐かないで欲しい。
「俺がこんなに名前さんを愛してるのに、まだ足りないって相当欲張りですね」
「…幻滅したでしょ」
「いや?寧ろ安心しました。名前さんもちゃんと人間だったんだなって」
そう言うと恵が立ち上がって近付いてくる。ドキドキしながら俯いたまま目を伏せてじっとしていると、私の横に恵が腰掛けた。
「好都合です」
「えっ」
「俺はそんなの知っても別に何とも思いません。俺以外の男に不必要に優しくするのを金輪際やめてくれれば特に問題ないです」
「……そう、なの?」
私が恐る恐る顔を上げると、恵は顎を手に乗せてソファの肘置きに肘をついていた。
「名前さんは誰にでも優しく平等に接する。だからみんな貴方を好きになる。そうやって誰もが自分は貴方の特別だと勘違いする。俺以前そう言いましたよね?」
「は、はい…」
誰にでも好かれるように平等に接することが普通の私にとって、それは当たり前のこと過ぎる。好かれるように、無意識に振る舞うのが癖付いているんだ。
「それが名前さんの揺るぎなさの象徴だと思ってました。でもそれが実は俺に対してだけの特別な気持ちだったって今わかって、俺は正直言うと嬉しいです」
「…え」
「つまり、俺だけが名前さんの特別で、貴方には俺が必要ってことでしょ」
そう、だけど。
湯呑みに淹れられたお茶はまだ温かい。揺れる水面を眺めながら、私は考えた。
私は恵に嫌われると思っていたから、まだ恵が私を好きでいてくれているという事に安心している。と同時に、少し混乱している。
「…それに、どんな考えが根底にあろうと名前さんがしてきた事は善行ですよ。俺が見る限り、結果として貴方はそうやって人を救ってきた」
「そう…かもだけど」
「なら、名前さんは善人です」
隣に座っている恵の顔を見上げてみる。恵は穏やかな表情をしていた。わかりにくいけど長い付き合いなのでわかる、多分彼の心は今満たされている。
ばっちり目が合って私はその目を見つめ続けた。いつだったか、視線を逸らした方が負けだなんてくだらないこと言ってた時がもう懐かしい。
「…俺と初めて会った時のこと、覚えてますか?」
同じように私を見つめ続ける恵が、唐突に切り出したので私は記憶を探った。初めて恵と会った時か。
悟くんに連れられて、車に乗せられて、私は上京に浮かれて、恵という名前だけ聞いて勝手に女の子だと思い込んで友達になろうとしてたな。
「えっと…任務、だったかな」
「はい。その時、名前さんは医者になりたいって言ったんです。私は私を助けてくれた人達を助けたい、私が助けた人が私じゃない誰か別の人を助けてくれても嬉しいって」
そんな事、よく事細かに覚えてるなぁ。
恵は懐かしそうに目を細めてそう言うと、少しだけ笑った。
親に否定されてもうほぼ諦めている医者の道を、今嬉しそうに恵が口にしているのが何だか不思議な気持ちだった。
「綺麗事を言う奴がいるモンだなと思いました。でも貴方はその後、自分の危険を顧みずに本当に俺を助けた」
「…そうだったっけ」
「それで怪我をした時、何で俺を庇ったのか聞いたら、医者になれなくなっても俺が助かったならそれで良いって言ったんですよ」
「……」
「名前さんの行動の裏には歪んだ気持ちがあるのかもしれないですけど、貴方が人を想って人を助けるその気持ちと行動だけは、嘘じゃないと思います。じゃなきゃ、人の幸せを願うことを否定されてあんなにマジに怒れません」
恵はそこまで言うと視線を外した。私は持っていた湯呑みをそっと机に置く。ことん、と音がしたそれに目をやる。
「ありがとう」
「いえ。…俺からもいいですか」
「どうぞ」
「…さっきからずっと考えてました。名前さんは俺が虎杖を救ったから、虎杖に対して責任があるって」
ああ、その話。私は頷いた。
「それは名前さんも同じですよね?貴方が俺を救って、貴方なしじゃダメになるようにしたんですから、名前さんは俺に責任があります」
「……」
「それでも、同じだけお互い、俺達には俺達以外の大事な人や守りたい世界もあるんだっていうのはわかりました。名前さんの場合それが圧倒的に多くて、それと比べると俺はかなり少ないですし。まあそもそもこの話自体色々矛盾してますけど」
「…良いんじゃない?完璧である必要はないでしょ。矛盾だらけなのが人間だから」
「…確かに」
私がほっとして微笑むと、恵は突然頭を下げた。ええっ、何で?!
「だから、ごめんなさい。…名前さんが大切にしてることをどうでもいいって、酷い言葉でした」
「…え、ちょっとまって、顔あげて」
「すみませんでした」
「もういいから!私怒ってないし」
頭を下げ続ける恵の手を取ると、がば、と顔をあげられる。そのまま至近距離でお互い見つめ合う形になってしまった。
近い!顔が、近いんだってば!
「…あ、あの」
「名前さん」
「はいぃ…」
がし、と急に恵に手を握られて私は固まった。な、何を言われるんだろう、とむず痒い気持ちで見つめ返すと、恵の頬が少しだけ赤くなっている。
「でもやっぱり俺は貴方のことが好きです。貴方がいなくなることは考えられない。…名前さんが今回死なずに済む方法を俺は全力で探します」
「……う、うん」
「名前さんの決意を無駄にすることになると思うんですけど、初めて俺に弱音を吐いてくれた貴方を見殺しには出来ません。いいですよね」
恵のあまりに真っ直ぐな誓いに私は頷く他なかった。
「わかった…」
「それと」
「な、何?」
「俺に対して責任があるって、さっき認めましたよね?」
「…うん」
私が頷くと、恵はまだ真剣な眼差しで私を見つめ続けている。
なんか恥ずかしくなってきた。何となく何を言われるかわかってしまったから。
「じゃあやっぱり、俺が18になったら結婚してください」
でも今それ言うのって卑怯じゃない?
「…えっと」
「返事は?」
「えっ…あの…」
「しますよね?結婚」
「わ、わかった。する、恵と結婚する…」
半ば押し切られる形で詰められて、私は頷いた。というか頷く他ない。だってもう、恵からは逃げられないんだもん。
彼は私を逃がさないし、私も多分彼を逃してあげられそうにない。憂太くんと里香ちゃんみたい。ああ、そうか。だからこのままじゃ呪いになるんだ、私達。
「…っ」
眠れる獅子を起こすなとかいう言葉があるけど、私はそんな所ではないとんでもない男に手をつけてしまっていたんだ。
今まで見たことのない恵の嬉しそうなはにかんだ表情を見て、私は思わずその顔に見惚れる。なんて可愛い顔をするんだろう。
『先に逝く。せいぜい頑張れ、お嬢ちゃん。…ああそれと、生き残った場合は恵のことよろしく』
と同時に、私を殺し損ねたあの男の言葉が急に頭の中を駆け巡った。恵とよく似た顔のあの男。まるで恵を知っているかのような口振り。
今ならわかる。あの男は多分、
「わっ」
恵の手が私の手から離れて背中に回った。ああ、抱き締められてるんだと気付いた時には恵の肩に顔が埋まっていた。恵の匂いが胸いっぱいに広がる。
「…絶対に助けますし、絶対幸せにします」
この世に絶対なんてない。私は知っている。存在しない。しないから、私は求めてしまう。絶対的な愛というやつを。
でも、今だけは恵の言葉を信じてみようか。
私は彼の腕の中で小さく頷いた。
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