宿儺は名前さんを抱えるとツギハギ呪霊の前に突き出した。意識のない彼女は宿儺…もとい虎杖の腕の中で目を閉じている。
俺は黙ってそれを見詰める。いつでも闘えるように掌印を結んではいるが、俺一人でどうにか出来るかは正直微妙だ。

「それって人にモノを頼む態度?」
「これは貴様に対する命令だ。代わりに貴様の願いを一つ聞いてやる。…時が来ればな」
「…焦らすね?」
「とっととやれ」
「良いけど、それだけじゃなぁ」
「…ならば、この女の術式も破壊して良い」
「マジ?…それならまあいいよ」

ツギハギはニヤリと笑って舌舐めずりをすると、宿儺が横抱きにしたままの名前さんの頭に触れた。
ぞくり、と自分の背筋が冷えるのを感じる。…もしこれで本当に彼女の魂が形を変えただけなのであれば、彼女は死なずに済む。だがこのツギハギがもし滅多なことをしたら、名前さんの命はない可能性もある。はっきり言ってここからは博打だ。宿儺の目を盗んでツギハギが彼女に何かしないとも言い切れない。

「…あーあ、髪の毛の色抜けちゃった」

名前さんの見た目や呪力の感じに大きな変化はない。…ツギハギの言う通り、髪の色素が抜けていることを除けば、だが。

「物好きだよねぇ、宿儺も。こんな女ほっとけばいい…の……に………っ?!」
「どうした?」
「……クソ」

時間にしてほんの数十秒程だったように思う。宿儺は名前さんを抱いたまま、ツギハギの様子が変化したことに僅かに首を傾げた。俺にもツギハギが冷や汗をかいているように見える。

「…貴様何をやってる」

宿儺が怪訝そうにツギハギを睨んだ。

「…破壊できない…!何で…?!」
「…ほう?」
「…ふざけんな、この女!!…離せ!!離せって!!!離せよ!!!オレに命令するな!!人間の分際で!!!」
「……」
「うあああ!!!!!!!」

ツギハギが突然苦しみだした。ニヤニヤと愉快そうに宿儺が笑っている。
何が起こってるんだ?
俺が鵺を出そうとすると、宿儺が首を振って制した。必要ないらしい。

「…無意識下の自己防衛か」

宿儺は呆れたように笑った。名前さんの様子は先ほどと何も変わっていない。目を閉じてまるで眠っているように見える。…いや、違う。名前さんの手が、ツギハギ呪霊の手首を掴んでいた。多分信じられないくらいの強さで。彼女は意識がないのに、身体だけ動かして呪力を練り、ツギハギに何が術式を放っているらしい。
そしてこともあろうに彼女は固く閉じた瞼のまま、今度は口を開いた。意識はないはずだ。今も意識があるようには到底見えない。それは彼女にしては低い声だった。

「虎杖悠仁」
「…え?」

ちょうど宿儺が虎杖と入れ替わってから1分が経過したらしく、虎杖が戻ってくる。時間通りに宿儺の顔の紋様が消えて虎杖が驚いたような顔をしたまま、名前さんを抱き上げていた。

「両面宿儺にあと1分間、身体を貸すこと。そしてこの事実を忘れること」
「…」
「従うと言え」
「…従う」

虎杖が虚な目で頷くのが見える。消えた顔の紋様が再び浮き上がり、宿儺がまた現れた。

「小娘め、生意気なことをする」

再び呼び戻された宿儺が愉快そうに笑う。
名前さんの術式によりダメージを受けたのか、ツギハギは動けなくなっているらしかった。まだツギハギの腕を握ったままだった名前さんの手を離し、宿儺は俺の前まで来て彼女をどさりと下ろした。俺が肩を抱いて体勢を整えさせる。
長いまつ毛が伏せっている。息もある。綺麗に色素が抜けてしまった真っ白な髪がさらりと揺れた。まるで五条先生のような髪色に俺は黙る。

「…この女の術式は他者の脳を支配する術式。あのツギハギは愚かにも術式破壊のためにこの女の生得領域に自ら入り込み、自爆しただけだ。案ずるな」
「…!」
「天元が恐れていたのはコレか。…どいつもこいつもこの女一人にやられて愚かしい」
「…魂の形は」
「間違いなく変わっている。天元との同化は不可能だ。この女自身が強く抵抗したせいで術式も剥奪されていない。…良かったな、伏黒恵。何もかも貴様の思い通りだ」

宿儺が俺にそう告げた瞬間、名前さんの瞼が持ち上がる。長いまつ毛が上を向いて、丸く大きな瞳が俺を見上げた。

「名前さん…!大丈夫ですか?痛んだり、おかしな部分はないですか?」

名前さんは俺に頷くと、黙って宿儺を見上げる。宿儺は無表情のまま名前さんのそばに屈むと、じっと彼女の顔を見つめていた。

「…感謝はしてる。で、私を生かして何企んでるの?」

宿儺は何も応えなかった。
ゆっくり立ち上がると髪をかきあげて俺と名前さんを見比べて背を向ける。そこでまた入れ替わったのか、振り向いた虎杖が目を見開いて怒りの形相で俺を見た。

「伏黒お前…!」
「…うまくいった」
「…っ」
「上手くいった。…ありがとう、虎杖」

俺が深く頭を下げて礼を言うと、虎杖はそれ以上俺のことを責められないらしく息を少し詰めた後に黙った。顔を上げて虎杖を見上げると、ぽりぽりと頬を掻いて困った顔をしているのがわかる。
…俺は自分が今どんな顔をしているのかわからない。多分、情け無い顔をしていると思う。
虎杖はと言うと、先程までの怒りの形相は形を潜めて「…二度とやめろよ、こんなこと」とだけ言うと背後のツギハギに向き直った。

ツギハギ呪霊は苦しんではいるが、まだ余力は残っているらしく、殴りかかろうとしたのを虎杖が避けてカウンターを叩き入れようとした時だった。

「クソ!!!やめろ…!!!触るな!!命令すんな!!!」
「失礼な奴。先に私のブラックボックスに触れたのお前だろ」

虎杖のカウンターがツギハギに入る前に、ツギハギがまたも苦しみだして仰反る。虎杖も驚いたのか動きを止めてツギハギを前に身構えていた。
名前さんは吐き捨てるようにそう言って自らの額をとんとんと突いて少しだけ笑った。反転術式に覚醒した日の、あの悪魔の様な笑みで。

「やめろ!!!クソ!!!」

俺の腕の中で名前さんは苦しむツギハギに向かって手を翳していた。いや違う、鎖だ。掌から伸ばした細い鎖の先が、ツギハギの足元に刺さっていた。彼女の掌から今までと少し違う呪力を感じる。べったりと絡みつくような、密度の濃い呪力。
やめろやめろと喚き散らしながら、ツギハギは自分で自分の首に手をかけていた。まるで自分の首を絞めようとしている様だった。

「…自決の強要か。末恐ろしい術式だよ、本当に」

笑みを浮かべたまま、名前さんが強く拳を握った瞬間、黒い全身ローブに身を包んだ男と、巨大な呪霊が頭上から乱入してきた。名前さんを抱えたまま背後に下がると、彼女が小さく舌打ちをしたのがわかる。繋がっていた鎖を呪霊が千切ったのが見えた。

「虎杖!」
「大丈夫!」

虎杖はギリギリで回避したらしい。
フードを被っているせいでローブの人物の顔は全く見えない。だが声だけで、男だということだけはわかる。
共に乱入してきた巨大な呪霊は以前交流会で乱入してきた植物呪霊だった。…やはりこいつら繋がってたのか。

「…笑えない状況になってきた。五条悟が来る前に帰ろう」
「…」
「自決の強要、君の領域の中なら完全に出来たかもね」

そう言い残すと、俺達が攻撃する前に植物呪霊がツギハギと男を抱えて逃走した。あまりの速さと突然の出来事に呆気に取られる俺と虎杖、そして残穢を睨みつける名前さんに暫しの静寂が訪れる。

「…祓いそこねた」

ゆっくり俺の腕から離れて起き上がる名前さん。大きな変化はやはり髪色だけで、それ以外はごくいつも通りに見える。

「…名前さん、」
「恵、ありがとう。虎杖くんも。もうすぐ悟くんが来ちゃうだろうから、帰ろうか」
「…名前さん」
「…恵?」
「名前さん」

虎杖の前ということも忘れて彼女に抱きつくと驚いたように名前さんは腰を逸らして俺を受け止めた。
これには虎杖も目を丸くしている。どうでも良かった。誰が見てるとか、どう思われているとか、今は何もかもどうでもいい。

「……良かった」
「ありがとう、恵」
「…良かったです」
「う、うん、ありがとね」
「…ごめんなさい」
「…どうして謝るの?」
「こんな目に合わせてごめんなさい。でも俺にはこれしか出来なかった。……もう誰にも貴方を奪われたくないし、貴方を失いたくない。…ごめんなさい」

もう一度ごめんなさい、と謝った自分の声が震えていたのがわかった。
情け無い。俺は、名前さんが目を閉じていた姿に寝たきりの津美紀の姿を見た。もしも彼女が津美紀と同じようになってしまったら、と心の奥で不安と焦燥がずっとせめぎ合っていた。津美紀が寝たきりで、名前さんまで失うことになったら?…そんなこと、俺はもう耐えられない。

「謝らないで、恵」

名前さんは俺の頬を撫でながら目尻からこぼれ落ちていた涙を一粒拭った。
俺は泣いていた、らしい。名前さんは安心させるように俺の背をゆっくり撫でた。
見下ろした彼女の顔には先程までの鋭さはなく、穏やかで優しい。

「恵の気持ちは全部わかってるから」
「……」
「もう何も言わなくていい。…大丈夫、私はちゃんとここにいるよ。助けてくれてありがとうね」










「無茶するよねぇ、ほんと」
「それは五条くんもだろ」
「僕は自分の生徒のことは信用してんの」
「…ならあんな意地悪言わなくていいだろうに」
「恵に発破かけたかったんだよ。あーしんど」

俺と虎杖、そして名前さんが高専に戻った時、既に寮を襲っていた呪霊や改造人間はあらかた片付いていた。

高専を出た時と全く同じ場所で、少し草臥れた様子の五条先生と全身ボロボロの九十九さんが俺達を笑顔で出迎えた時は流石に面食らった。九十九さんはどうやらあの後も本気で五条先生を止めてくれていたらしい。五条先生は九十九さんとやり合ったことで多少なりとも疲れているらしかった。

二人の周りの建物や地面はほぼ壊れていて、原型を留めていない。何をどうやったらこうなるのか問いたいが、どうせ怒られるのは俺なので黙っていると九十九さんは「よくやった!」と俺に笑いかけてきた。

名前さんは特に外傷もなく、普通に動けるので自力で歩いていたが、五条先生が不機嫌そうに彼女の前に立った瞬間にさすがに少し怯えたように固まっていた。俺が間に入ると「邪魔」と先生に肩を掴まれる。
五条先生は俺達に説教をするでもなく、罰を与えるでもなく、ただ六眼で名前さんを見ていた。

「…本当だ。呪力の感じが少し変わってる。これが魂の変容なの?生きてる人間でこんなこと、初めて見たな。以前よりも少し滑らかになったね、呪力が」
「……そうかな?」
「術式は?」
「えっと…多分、そのまま」

名前さんがおずおずと答えると、五条先生は俺の肩から手を離した。

「…ツギハギは?」
「逃げられた」

何を言われるのかと思いながら名前さんと同じように五条先生を見上げていると、先生は深いため息を一度吐いて俺を一瞥した。

「じゃ、また僕の負けだね」
「…何の話ですか」
「別に。…一応、硝子に診てもらっといて。恵と悠仁で医務室に連れて行ってくれる?」

五条先生はそれだけ言うと踵を返すので俺は思わず先生に声をかけた。

「五条先生」
「何?」
「…怒らないんですか」
「何?僕に怒られたいわけ?」
「…俺がやったことは、呪術規定1条に違反します」
「僕は何も見てないよ。九十九さんとここでずっと殴り合ってたからね」
「……」
「だから恵が名前に何をしたかなんて知らない。知らないことを裁くことは出来ない」

五条先生は俺と名前さんを見比べてそう言うと、さっきまでの不機嫌さはどこへいったのかいつもの飄々とした笑みを浮かべた。

「名前は見た目が少し変わっちゃったけど、それ以外特に何の問題も起きてないよ。恵は特級呪霊から護衛対象を"無事護衛して、僕が提示した時間内に戻ってきた"だけ。その点も特に僕が恵を咎めることはないかな。何故なら僕達の任務は、"星漿体の護衛"だからね」
「…それって」
「それより僕と九十九さんがタイマン張って校舎をめちゃくちゃにしたせいで、学長が来た。それの方が問題……痛ァァ!!!」

爽やかに笑う五条先生に思い切り背後から拳骨が振り下ろされる。五条先生はわざと無限を解いて甘んじてそれを受け入れていた。
九十九さんもニコニコしながらやって来て五条先生に並ぶと、同じように夜蛾学長から鉄拳制裁を受けていた。

「お前ら何をやってる!」
「「すみませーん」」

いい大人、それも特級術師の二人が拳骨を喰らっている姿に俺たちは黙った。
夜蛾学長は俺達を一瞥した後、ふんと小さく息を吐いてまた五条先生と九十九さんに何か説教を始める。

「何だこの有様は。呪霊に強襲されているという事態の中、何故特級ともあろう二人が殴り合っていた?建物がほぼ全壊になってるのわかっているのか?」
「…九十九さんが喧嘩ふっかけてきたんだから仕方ないじゃん」
「五条くんが生徒に領域展開して虐めてたから、私はそれを助けただけだよ?」

九十九さんはボロボロの怪我でそんなことをケロッとしながら言うので、名前さんは申し訳なさそうに俯いていた。
その後も学長は二人にだけやたらと厳しい対応を強いていたが、俺達はお咎め無しらしく「早く硝子に診てもらえ」としか言われなかった。…飛んだ茶番だ。

俺達は、俺達が思っているよりもずっと大人に守られていたらしい。





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