彼女が既婚者だと知ったのは、俺が彼女に既に好意を抱いた後だった。
「伏黒くん、お待たせ」
嬉しさと、少しの後ろめたさ。
多分不倫をしている人間ってこんな気分なんだろう、と勝手に予想する。ノンフィクションしか読まなかった俺が、流行りの恋愛小説やドラマ化された恋愛小説を読むのなんてらしくない。
でもその小説に手が伸びるのは、俺の恋が非情に後ろめたいものだからだった。
「今日は任務近場で良かったねぇ」
「ですね」
補助監督の新田さんの運転する車の後部座席に並んで座りながら、名前さんは今回の資料に目を移していた。
高専所属の術師として登録されている名前さんと知り合ったのは入学する少し前だった。きっかけは勿論任務で、内容的に一人では心許ないからと俺が補佐する形で派遣されたことから。
彼女の見た目云々もだが、考えや彼女の術師としてのスタンスが尊敬から思慕の情、明確な恋心へと変化するのに時間はかからなかった。
「ふーん、病院の跡地か」
「祓っても祓っても集まりやすいですからね」
「でもここ、大規模マンションが今後建つ予定みたいだけど大丈夫なのかな」
そう言って名前さんはスマホで何か調べ始めた。案の定、左手の薬指に指輪はない。何故、とはまだ聞けずにいる。
「最近多いですね、そういうの」
「買い手がつくんだろうね。定期的に窓に見回りしてもらわないと怪奇現象止まらなくなりそう」
知らなかったから惹かれたのか?
いや、多分知っていても好きになってしまった。
それなら、知らなければ俺は幸せだったか?
自問自答を繰り返して、何度目か。それでも名前さんと一緒にいられる時間を得るために根回しをしている自分が滑稽で嫌になる。
この人は結婚していて、俺が好きになった時既に他人のものだった。俺がそこに介在する隙も、そんな場所もない。
わかってる、わかってるのに。
「伏黒くん強くなったね」
病院跡地の工事現場には確かに呪霊が大量に湧いていて、全て一人で片付けるのは骨が折れる作業だった。使役できそうな蝿頭などは名前さんが捕まえて封印の呪符で保護したりと、討伐というより作業に近い任務だ。
「そうですか?」
「頑張ってるんだね、えらいえらい」
「…ありがとうございます」
名前さんはにこやかに笑って俺を褒める。なんとも言えない擽ったい気持ちになり、簡易な礼しか言えない自分の幼さにうんざりする。
そこで不意にポツポツと雨が降り出して、空を見上げる。
「うわ、ゲリラ豪雨じゃない?」
ザーと激しく急激に降り出した雨に戸惑う様子の名前さん。予報では降らないはずだったのに、という言葉に俺はとりあえず制服を脱いで名前さんの頭が濡れないようにそっとかけると、「伏黒くん?!濡れちゃうよ?!」とびっくりしていた。
「名前さんも濡れますよ」
「…そうだけど、風邪ひいちゃう」
「大丈夫です、これくらい」
「ダメダメ」
「つっても、今返されてももう濡れてるんで意味ないです」
「……たしかに」
とりあえず誰もいない工事現場のプレハブの軒下にきたが、雨が激しすぎて意味がない。
どうするか、と考えていると名前さんと目が合う。どうにか頭は濡れていないが、名前さんの服や足元も濡れていてぴったり身体に張り付くブラウスが目に毒だった。ピンク色の下着が透けている。…くそ、見るな。落ち着け、俺。
思わず視線を逸らすと、名前さんがあの、と俺に声をかけてくる。
「うち、ここから近いんだけど、来る?」
「…は」
「服、濡れたしこのままだと本当に風邪ひいちゃうから。お風呂と着替えくらいなら貸せるし」
いくら叶わぬ恋だとわかっていても、偶然だとしても、名前さんの家に入れるというのは少し嬉しい。
と同時に、嫉妬と後ろめたさが襲ってくる。
ここに名前さんは夫である人と暮らしていて、生活をしている。
「さっき電話で新田さんにも事情説明したし、特に問題なさそうだから服乾くまでゆっくりしていって」
玄関で靴と靴下を脱いでいると、名前さんがタオルを持ってきてくれたので有り難く借りた。髪も服もびっしょり濡れているせいで気持ち悪い。
「良かったらシャワー浴びる?」
「…借りてもいいですか」
「もちろん。こっちだよ」
そう言って名前さんに案内されるがまま部屋に上がった。玄関を入ってすぐの寝室のドアが少しだけ開いていて、思わず横目で見てしまう。
「伏黒くん?」
「あ、すみません」
「着替え、一先ずこれでいいかな。弟のお下がりだけど入る?」
弟、という予想外のワードにやや面食らったが、旦那の服よりはマシかと思い受けとり、浴室を借りた。
広くも狭くもない浴室でシャワーのコックを捻る。置かれているシャンプーやボディーソープなどは全部女性もので、不思議なほどに男の影というのが感じられなかった。
結婚、してるんだよな…?
というか自分がこんなものを繁々と観察して勝手に私生活を覗いているのが気色悪い、やめだ、と雑念を振り払ってさっさとシャワーを浴びて浴室を出た。
脱衣所に戻ると俺の制服はなかった。既に洗濯に回されているらしい。
「すみません、お借りしました」
「お、良かったサイズ合ったね」
俺がリビングの方に声をかけると、名前さんも着替えていた。部屋着なのかスウェットにレギンスというラフなスタイルで、普段会う姿とは全然違う様子に心臓が跳ねる。
「伏黒くん何か飲む?あったかいものいれようと思うんだけど…あ、牛乳あるからホットココアしようか」
「…お願いします」
「適当に座ってて、すぐ作るから」
そう言って名前さんは台所に向かった。冷蔵庫から牛乳を取り出し、ミルクパンらしきものも取り出しているのが見える。
俺はと言えばどうして良いか分からず、とりあえずソファに腰掛けて部屋を見渡してみる。
あまり飾り気のないシンプルなインテリアだった。特徴と言えばソファの脇と窓辺に吊り下げてある観葉植物が目に入る程度で。
それにしても本当に男の気配を感じない。
例えば結婚していたら二人の写真とかを飾ったり、思い出の品を置いていたり、ちょっとした小物が机に置きっぱなしになっていたりするものじゃないんだろうか。
そういうものが一切ない、不自然な部屋だった。
部屋の広さ的には一人暮らしにしては広過ぎるんだが。
「何か気になる?」
名前さんは落ち着かない様子の俺が面白いのか、ココアを作りながらカウンターキッチンから俺を覗き見ていた。
「…広いな、と思って」
「広いでしょ。一人だと勿体無いくらい」
一人?
「…あの、確かご結婚されてましたよね」
…とうとう自分から聞いてしまった。
何となくその話題に触れるのは今まで避けてきた。名前さんが既婚者だというのも五条先生から聞いた話だし、直接本人とプライベートな話をすることはあまりなかった。変に聞いて惚気られたりでもしたら、気持ちがもたない。
「あー…」
俺の言葉に名前さんは気まずそうに視線を逸らして宙を見た。否定はしない、ということは肯定らしい。
「…指輪、してないのと関係ありますか」
「……知ってたんだ」
「すみません」
何で謝るの?と言われたが謝る以外の選択肢が思いつかなかった。
名前さんは微笑みながら何も答えない。沈黙が空気を支配していた。
「…別れることになりそうなの」
その言葉に俺は目を見開いた。
驚きと、微かな喜びが胸の内を駆け巡ってわずかな罪悪感がまた生まれる。
「話したくなかったら大丈夫です。すみません、よく知りもしないで立ち入ったことを」
「いいんだよ、別に隠すことじゃないからね」
思わず俺がそういうと、名前さんはマグカップを二つ持って微笑みながら俺の横に座った。ローテーブルに置かれたそれからは仄かに甘い香りがする。
「浮気されてるんだぁ、私」
何でもない、と言うように笑う名前さんに胸が痛んだ。笑っているけど、傷ついている。そんな顔だった。
「…名前さん」
「呪術師って忙しいでしょ?毎回必ず予定通りに任務が進むわけじゃないし、急に泊まりになったりして。私も家を空けることが多いからなかなか気付かなかったんだけど………そうだったみたい。私も悪いんだよね、ほったらかしにしてたから」
「…」
「あ、ごめんね。伏黒くん学生なのにヘビーな話だったよね、家に人が来ることってそうないからついベラベラ喋っちゃった」
ははは、とぎこちなく笑う名前さん。
よく聞く話ではある。術師と非術師の恋愛は上手くいかない、それは非術師には術師のことを理解出来ないから。
日夜呪いと戦い、命を懸けて挑むハードな仕事の性質上、表立ってその姿をパートナーに見せることはない。非術師は基本的に呪霊や呪力を見えないし感じないから、そんな相手に口で説明しても理解されない。
だから呪術師は結婚しない人が多い。一般人には理解されない仕事だし、いつ死ぬかわからないから。
「名前さん、大丈夫ですか」
「……ごめん、何で話しちゃったんだろう」
ぽた、と名前さんの目から涙が一滴落ちて、慌てて彼女はティッシュを一枚取って拭った。
もう我慢の限界だった。
「伏黒くん…?」
バカな名前さん。何でそんなクソみたいな男と結婚して泣いてんだよ。
アンタにはもっとアンタを大事にできる人間がいるのに。
「名前さんは、悪くないです」
名前さんの背中に腕を回して抱き締めてみる。驚いたような名前さんの声が胸元から聞こえる。
「何も悪くないです」
もう一度、噛み締めるように俺がそう言うと名前さんの肩が震えたのがわかった。
小さな嗚咽と共に、胸の辺りが濡れるのを感じる。名前さんが泣いていた。
何でアンタが泣かなきゃいけないんだ。名前
さんが流す涙のその先にいる男を勝手に想像して苛立ちが募る。俺はそれを誤魔化すように彼女の背中をそっと撫でた。
下心が全くないかと言えばそれは完全に否定する。
ある。寧ろ今の俺は下心しかない。
浮気をした夫には腹が立つし殺したいと思うが、俺にとってこれはまたとないチャンスでもある、はずだ。
この部屋が不自然に簡素なのは、"そういったもの"たちが置かれていたのに、全て失くなっているからなのかもしれない。
「ごめん、なんか…急に」
「ずっと押さえ込んでたんじゃないですか、そういう気持ち。泣いていいですよ」
「伏黒くん…」
そのまましばらく抱き寄せていると、名前さんは涙を拭いながら俺の胸をそっと押した。腕の力を緩めると、目元を腫らして涙目で俺を見上げる名前さんとばっちり視線が合う。
お互いに見つめ合って数秒。
「…」
「……」
いけない、これ以上は。
頭ではわかっているはずだった。
これ以上は、「励ましている」という言い訳では済まされない。夫婦間に問題があるとは言え彼女はまだ既婚者。
…俺がこの人にこれ以上触れるなんて、許されないことだ。そんなのわかってる。でも、
「…んっ」
俺は名前さんの後頭部をおさえて彼女の唇に自分のそれを重ねていた。
名前さんは驚いたように目を見開いたが、抵抗はしなかった。何度も啄むように口付けるが、名前さんは俺にされるがままで、きゅ、と俺の服の胸元を握っていた。
初めてのキスは涙の味だった。
目を開けて名前さんを見ると、顔を赤らめて必死で俺のキスに応えている。…何で抵抗しねぇんだよ、期待するだろ。
俺の胸に置かれた手を掴んで握ると、そのまま弱く握り返される。
…ああ、無理だ。もう止まれない。
振り切れた理性が言うことを聞かない。
← top