万に一つも実る可能性のない恋。
名前さんとの関係は、俺の中でそういうものだった。彼女と身体の関係を持つまでは。
だが現に、今彼女は離婚して俺を好きだと言って俺の背に腕を回している。抱擁しながら唇を重ねている。奇しくも彼女が頭に怪我を負った日と同様に俺も頭に怪我をしていて、あの日と同じように医務室のベッドの上だった。
何度も名前さんの唇を啄んで舌を絡めて口付けを繰り返していると、名前さんが熱に浮かれた瞳で俺をじっと見つめ返してくる。キスより先を求められているような気がして、俺の腹の奥でも熱が燻った。これ以上のことをここでするのは完全に不純なので家入さんに言い訳出来ない。
「名前さん」
「ん」
「この後、時間は」
「…あー…あの、任務なの…」
…は?
「あと30分くらい…で」
名前さんはバツが悪そうにそう言うと、熱っぽい視線をやめて目を逸らした。
は?…マジかよ。完全にそういう流れだっただろ。燻っている熱が俺を苛つかせる。別に、どうしてもそういうことがしたいわけじゃない。でもやっと離婚してくれて両思いになれたわけだから、俺としては今日はこれでおしまい、なんて言うのはあまりに味気なさ過ぎる。
「…続き、出来ませんね」
「……したかった?」
「はい」
恥ずかしそうに頬を赤らめてちらりと俺を上目遣いで見ながら問いかけてくる名前さん。俺が素直に頷くと、困った様子で俯いてしまったので、また顎を掬って唇を重ねる。名前さんはびくりと肩を震わせたけど、やはり抵抗はしなかった。
暫くそうして執拗に唇を重ねていると、ふと自分の中である考えがひらめく。というかこれはやっておかなければまた名前さんがいろいろ気にしてしまうだろうから、今すぐにやっておくべきだ。
俺が唇を離すと、彼女は物足りなさそうにじっと見つめてくる。何なんだよその顔。ヤりたくなるからやめてください。
「名前さん」
「どうしたの?」
「俺と名前さんの交際を五条先生に伝えていいですか」
「えっ…いいけど何で」
「あの人一応俺の保護者なので。未成年と成人が付き合うのが貴方の中での第一の懸念事項でしょ、保護者が認めていればギリセーフだと思います。というわけで今電話します」
「え」
戸惑う名前さんの手を握ってそう捲し立てると、俺はポケットからスマホを取り出して五条先生の連絡先を探した。
突然の俺の行動に名前さんはぽかんとしているが、俺の手をさり気なく握り返してくるので問題はなさそうだった。
何コールかの着信で五条先生の「もしもしー」という呑気な声が聞こえてくる。
「五条先生、名前さんと付き合うことになりました。名前さんは離婚していて双方合意での真剣交際なので許可してください」
俺がそう言うと、五条先生は一瞬だけ黙った。まさか開口一番に俺がそんなことを言い出すとは思っていなかったらしい。だが多分、名前さんが離婚したことと術師を辞めないということくらいは聞き及んでいたんだろう、そこに驚きの色はなかった。
『いいよ。良かったね恵、おめでとー。避妊はしなよ?』
「わかりました」
五条先生からあっさり許可を得られたのですぐに電話を切る。この人とだらだら話しても良いことなんてない。まあとりあえず懸念事項はこれで潰せたから良しとしよう。
俺のそんな様子を見て名前さんは何とも言えない表情で固まっていた。
「あとは、住む場所を高専に移すって話でしたけど。どこですか」
「…職員寮です」
「何階」
「2階…」
「荷物は?いつから住むんですか」
「えと…次の金曜お休み貰ってるから運び込む感じ…」
「必要であれば手伝います。それと土日どっちか、可能なら両方とも俺にください」
手を握ったまま真っ直ぐ名前さんを見つめてそう言う。少しだけ開いていた窓から風が吹き抜けて医療用のカーテンを静かに揺らした。
俺の言葉に名前さんは頷く。ちらりと壁の時計を見る彼女は任務の時間を気にしているらしかった。…仕方ない。俺がそっと手を離すと彼女はゆっくり立ち上がる。
「えっと…また、連絡するね」
その週の金曜日、職員用の寄宿舎に足を運んだ俺はダンボールが積まれた部屋を訪ねた。あまり足を踏み入れることがないそこは、平日の午前というのもあって静かだ。
「恵くん、本当に来てくれたんだ」
「来ますよ」
「授業は?」
「座学の自習なんで、課題爆速で終わらせて昼までサボりです」
「サボりはダメだよ…」
「午後から任務なんでそれはちゃんと行きます」
俺がそう言うと名前さんは困り顔で少しだけ笑った。
あまり数は多くないが、積まれたダンボールを一つ一つ開けながら、彼女は部屋の収納に片付けを進めていくところだったらしい。
真新しいカーテンが窓にかけられていて、換気のために少しだけ開けられているのであろうそこから風が吹き抜けていく。
名前さんの自宅マンションに行った時の家具とは何もかも違うその室内を何となく見渡していると、彼女も俺の視線に気付いたのかダンボールをカッターナイフで開封しながら口を開いた。
「家具とかカーテンとか一新したんだ。前はシンプル重視だったけど、よく考えたら可愛くしたいなと思って。…ちょっと乙女すぎかな?」
ベッドのシーツはホワイト地にグレーの花柄、枕や掛け布団も統一されている。薄ピンク色の遮光カーテンの奥でレースのカーテンが揺れていて、その傍らには大きなフォトフレームに幾つもの写真が飾られていた。
全て彼女の友人や家族、或いは学生時代の写真や飲み会の写真らしく、どの写真の名前さんも楽しそうに笑っている。
「…良いんじゃないですか、名前さんらしくいられる部屋なら」
俺の言葉に名前さんは微笑むと「そうだね、ありがとう」と言いながらまたダンボールを一つ開封した。
荷物と言っても職員寮にはベッドも収納も備え付けてあり、キッチンや大浴場も共用であるらしく、彼女の荷物はせいぜい衣類や雑貨程度だった。
荷解きはすぐに終わり、室内がある程度片付いたのは12時を回る少し前。
「手伝ってくれてありがとう、恵くん。助かった」
「俺は何も。荷物出しただけなんで」
「そんなことないよ。お礼にお昼奢ってあげる。私お腹空いちゃった、一緒に食堂行かない?」
名前さんはそう言って楽しそうに笑った。
この人がこんなに明るく笑う姿なんて初めて見たかもしれない。
そしてその顔をさせているのが自分なのだと気付いた時に、自然と俺も自分の口角が上がっているのがわかった。
「恵くん、笑ってる」
「…笑いますよ」
「そっか。そうだよね」
「名前さんも」
俺の顔を彼女に指摘されて思わず口をへの字に曲げた。照れ隠しにしかなってないと自分でもわかる。
名前さんはそんな俺を見て楽しげにまたふふふと笑うと「何食べよっかー」と廊下へ俺を手招いた。つられるように部屋を出て彼女の隣に並ぶ。
「名前さんも、ずっとそうやって笑っててください」
名前さんは目を細めて頷いた。
「恵くんもね」
名前さんはそう言うと俺の手を握った。
想いが通じ合ってから、彼女から触れられたのはこれが二度目。俺よりも小さくて細い、頼りない手を見つめる。
何だか吹っ切れた様子の彼女は、新しい素直な自分と人生を歩むことを決めたらしい。
「…これからよろしく、恵くん」
俺が頷くと名前さんは照れたようにパッと手を離してしまったけど俺に不満はなかった。
何故なら俺は新しい一歩を歩み始めた彼女のすぐ隣にいる権利を得たから、だ。
恋愛は一人では出来ない。
恋は一人では愛になれないらしい。
順番も気持ちも立場もめちゃくちゃで、あまりにも不恰好な恋だった。恋と呼べるのかすら怪しい曖昧から始まった関係だった。
でも俺はいつか愛になるって、信じていた。
それは間違っていなかった、ということにしておく。
今こうして俺と彼女は、やっと愛になれたのだから。
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