運が悪いとしか言いようがない。
ここ最近、夫との離婚話やいざこざ、そして伏黒くんとのあれやこれが重なって任務に集中出来ずに支障が出ている。
けして強くも弱くもない私にとって、集中力に欠けるというのは致命的な問題だった。そこに追い打ちをかけるように、今回の任務は悲惨なものだった。
「あーあ、めっちゃ血出てるね」
「すみません…」
「大丈夫、頭の怪我って出血量多いしインパクトあるけど意外と大したことないことも多いから。そこに寝て」
任務終わりに補助監督さんに肩を貸してもらい、医務室を訪ねると家入さんがいつもの調子で私をベッドに上げてくれた。
簡単に言うなら等級ミス案件だった。派遣された先にいたのは1級相当の呪霊。何とか祓えたものの、額の辺りを切られて怪我を負った私は出血がなかなか止まらず、家入さんにすぐに診てもらうことになった。
今回ばかりは仕方ないものの、ここ数日の任務では私はミスが多く、家入さんにお世話になりっぱなしだ。
「手を煩わせてすみません…」
「何言ってんの。1級相当なら名前よく頑張ったんじゃない?怪我もするさ。…触るよ」
髪を纏められて持ち上げられて傷口に家入さんが触れた。
「……」
いつの間に意識を飛ばしていたのか、目を開けると医務室には誰もいなかった。
ゆっくり起き上がって時間を確認すると既に夕刻。何時間か寝ていたみたい。
ベッドの脇の小さなテーブルには報告書数枚と家入さんの走り書きのメモと塗り薬、そしてコップに一杯の水が置かれていた。
メモには「席外す。鍵そのままで良いから目覚めたら帰りな」とだけ書かれていた。この分だと大事ないらしい。
頭に巻かれた包帯を撫でて水を一口飲むと、ようやく頭が覚醒してきた。
…帰ろう。
帰っても多分夫はいない。この怪我を見ても、きっと何も言わない。もう私に興味なんてないんだと思う。
そんなことを考えてずきんと胸が痛む。と同時にこの前の伏黒くんの言葉を思い出していた。
『本音?それとも俺に対する同情?』
同情、なんかじゃない。
これ以上伏黒くんに甘えたら、私はもう本当にダメになる。伏黒くんのことが好きかどうかと聞かれると、わからない。…嫌いではない。でも伏黒くんのことを簡単に好きだと言えるほど、それを認められるほど私は単純な人間ではないし、"大人"だった。
『名前さんは隠してますよね、自分の気持ち』
…伏黒くんは何故何もかもわかってしまうんだろう。
私はいつも他者に対して言い訳ばかり考えている。
自分が悪いから浮気されても仕方ない、術師を続けていく限りこうなっても仕方がない。でもそうやって"仕方がない"を積み重ねていくうちに、自分だけでなく他人も回りくどく傷付けている。そんなの自分が一番わかっている。…でもどうしていいかわからないんだもん。
ぽろ、また涙が一粒溢れて慌てて拭った。泣いちゃダメだ。泣いたって何も変わらないのに。
とにかく起きて、今は自分がすべきことをしなくちゃ。そう思ってベッドから降りて書類を持つと医療用のカーテンを開ける。
「……え」
しゃ、とカーテンを開けた先に人影があった。医務室の椅子に座り、壁にもたれるようにして伏黒くんが腕を組んで眠っていた。本当に疲れて寝ているのか、ぴくりとも動かない。…何で君はまた私の前に現れるの?
どうしよう、見ないふりする…?
でも起きるかな…。いつから…?何でここに?
もしかして怪我したのかな、なんて少し心配になって伏黒くんに近づく。男の子だけど長いまつ毛。白い肌に影を落としている。
綺麗な顔。少しだけあどけなさの残る表情。こうして寝ていると、本当にまだ子どもみたい。
「……見過ぎです」
「うわっ」
そんなことを思いながら見惚れていると、急に伏黒くんが目を閉じたまま喋ったので私は後ずさった。
はあ、と深いため息をつきながら伏黒くんがゆっくり目を開ける。
嘘でしょう、狸寝入り?いつから?
「お、起きてたの」
「…今起きました」
「ご、ごめんね」
「何に対する謝罪ですか、それ」
「えっと…見過ぎたことかな……」
てか、めちゃくちゃ気まずい…。会うのって、この前伏黒くんに告白されて以来なんだよね。どんな顔すればいいの。
「…怪我、大丈夫ですか」
「え?ああ…うん、ちょっと切り傷。私がヘマしちゃって」
「…等級ミス案件だったって聞きました。1級呪霊、一人で祓ったんですよね。生きてて良かったです」
頭の包帯を撫でながら苦笑いすると伏黒くんはぼそりとそんなことを言うので、私は目を逸らした。
誰から聞いたんだろう。生きてて良かったです、と言われたのが不覚にも嬉しくて、何と返せば良いかわからず「うん」とだけ返して黙り込む。伏黒くんもそれ以上何も言わないので沈黙が訪れた。
何だ、この沈黙は。気まずい、気まず過ぎる。
「えっと……伏黒くんも、怪我?大丈夫?」
「いや、名前さんが心配で来ました」
「え?」
「安心してください、俺は指一本触れてません。気になって落ち着かなくて勝手に居座ってただけです」
そこまで言われてぶわ、と自分の顔が熱くなるのがわかった。
伏黒くんは私の為にここでずっと待ってたの?
「顔、真っ赤ですよ」
「言わないで…」
「…もうさっさと別れて俺と付き合えば良くないですか」
伏黒くんは座ったまま、そう言って目を伏せた。
何簡単に言ってくれてるんだろう。そんなの、ダメに決まってるのに。私が何も言えずにいると、まるで追い打ちをかけるかのように伏黒くんは言葉を繋ぐ。
「だって、名前さんのこと心配して今ここにいるのってアンタの旦那じゃなくて俺ですよ」
頭を殴られたような衝撃。
言い返せない。…だってそれは私がいつも思っていたことだから。どんなに術師として頑張ってやりがいを感じていても、夫の心は離れていく。私が怪我をして帰ってくると、仕事を辞めろと言うだけ。心配、はしてくれているのかもだけど、そういうことに慣れ過ぎて、多分私のことを強い人間だと勘違いしている。私は本当に、強くなんかないのに。
「…名前さん?」
「伏黒くんは、どうして私なの」
「…え」
「どうして私なんか。…私なんか、何も…何もないのに」
卑屈になっている、と自分でもわかった。伏黒くんが驚いたように私を見上げる。
自分が今どんな顔をしてるかわからない。でも酷い顔をしてると思う。
「…名前さん」
ふら、と足がもつれて倒れそうになる。やばい貧血かも、と思ったところを伏黒くんがすぐに立ち上がって抱き止めてくれた。だめだ、また私伏黒くんの優しさに甘えようとしてる。前もこうやって甘えてしまった。その結果がこれだ。これ以上は甘えられない。離れなくちゃ。
「ごめん、大丈夫、離して」
伏黒くんは何も言わなかった。
ただ黙ってきつくきつく抱き締めてくれるだけだった。
「伏黒くん、本当に離して…」
「…もう見てられないんですよ」
「…」
「好きな人が傷ついてボロボロになっていくの、見てられないんです。…本当に勘弁してください」
伏黒くんは苦しそうにそう言うと、少しだけ腕の力を緩めた。
私は伏黒くんの顔が見れなかった。情けなくて。惨めで。…目が合うとまた縋ってしまいそうで。
「こっち向いて」
なのに伏黒くんは恐ろしく優しい。残酷なくらい優しくて、私の弱い心はすぐにその酷い優しさを求めてしまう。伏黒くんは私の顎を掬うと視線を合わせた。
逸らせない。もう私この子から逃げられない、と思った。
「名前さん」
あの日ぶりに、互いの唇が触れ合う。伏黒くんの唇に触れた瞬間、あの日自宅で抱かれたことを思い出して私の頭が彼のことでいっぱいになっていく。
だめ、だめ。こんなことはだめ。頭ではわかっているはずなのに、私の弱い部分を何でもわかってるみたいに伏黒くんは私を絆してしまう。このままでは、本当に、
「…早く俺のとこに来てください」
触れるだけのキスを何度も繰り返されて、舌が絡め取られる。膝の力が抜けて立てなくなると、伏黒くんも一緒に屈んで抱き合いながらまた深く口付けられた。
誤魔化せないくらい、私は彼の優しさを求めていた。私のやってることは最低だ。どんな事情があっても許されることじゃない。なのにどうしても、伏黒くんを求めてしまう。
助けて、という声にならない叫びが口の中で伏黒くんの舌に絡め取られて消えた。伏黒くんの腕が背中に回る。彼の肩に手を置いて目を閉じると、そのまま抱き抱えられてさっきまで寝ていたベッドに連れて行かれる。しゃ、と再び医療用のカーテンを閉められて思わず身体を強張らせた。私の様子を察した伏黒くんは安心させるように私の背中撫でる。
「こんなところでさすがにしませんよ。でも誰かに見られたらまずいでしょ」
「…っ」
「まあ、していいならしますけど」
私が慌てて首を横に振ると、ほらな、と言いながら伏黒くんは私の唇にまたキスを落とした。また唇の隙間から舌が絡んでくる。
伏黒くんの腕の中で、私は甘んじてそれら全てを受け入れていた。
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