「マグ割れちゃったね。…怪我ない?」
何と声をかけたらいいのかわからず、とりあえずそう言って私は後ろ手で医務室のドアをぴったりと閉めた。
伏黒くんはベッドに座ったまま呆然として私を見ていたけれど、私の言葉に視線を落として同じように割れたマグカップを見詰める。
とりあえず掃除するか、と医務室の掃除用具箱を開けて箒と塵取りを取ってベッドに近づくと伏黒くんからの縋るような視線を感じた。
「…はい」
家入さんの計らいでつい先ほど彼女から連絡があった。『伏黒くんいるけどなんか話す?』とメッセージを受け取ったのがほんの5分ほど前のこと。
諸々の手続きを終えて一先ず落ち着いていた私は、この連絡に一瞬どう返すべきかと躊躇った。しかし伏黒くんとのことにきちんと、今度こそ蹴りをつけるべきだと己を奮い立たせてここまで来たのだ。
そしたらこんなことになっていた。
家入さんが伏黒くんを焚き付けるためにさっきわざとあんなことを言ったのはわかってる。伏黒くんも多分賢いから今それを理解したんだろう。気まずそうに黙りこくる姿が何だかいつもと違って可愛らしい。
「伏黒くんが大きめの怪我って珍しい。…大丈夫?」
こくんと伏黒くんは頷いた。私は黙って箒で割れたマグを塵取りに集める。
「あの、」
「ん?」
「…呪術師、やめるん…ですか」
伏黒くんは迷うように、言葉を選ぶように私にそう尋ねた。顔を上げて見ると悲しそうな顔の伏黒くんと視線が合う。彼のこんな顔を見るのは初めてだ。伏黒くんでもそんな顔するんだね。
「…どう思う?」
「聞いてるの俺です」
「…辞めないよ」
箒と塵取りを掃除用具箱の傍に置く。私は伏黒くんのベッドサイドに置かれた丸椅子に腰掛けた。
1ヶ月ぶりの伏黒くんだった。休職してからというものの色々と忙しく高専にはめっきり顔を出していなかったし、彼からも連絡はなかったから本当に言葉を交わすのは1ヶ月ぶりだ。
辞めないよ、という私の言葉に伏黒くんは小さく息を吐いた。ほっとしたとでも言いたげな様子で。
「家入さんが随分なお膳立てをしてくれたみたいだね。…なんかごめんね、急に現れて」
「別に。…俺はずっと会いたかったです」
伏黒くんはそう言うとじっと私の目を見つめた。1ヶ月前と何も変わらないまっすぐな伏黒くんの瞳。
私には眩し過ぎるくらい、青くて、黒くて、切なくなるくらい綺麗な伏黒くん。
「さっきの家入さんの話、どう思う」
「どうって」
「君と私の立場の違いの話」
私がそう言うと伏黒くんは少しだけ黙った。
黙って唇を引き結んだ後に、意を決したように私をまた真っ直ぐ見つめて口を開いた。
「そんなもん、クソ喰らえだ」
「……はははっ」
予期せぬ言葉に思わず笑ってしまう。もっと小難しいことを言うと思っていたのに。伏黒くんは感情のままといった風にそう勢い良く言ってのけたので、私は吹き出してしまった。
「何笑ってるんですか」
「いや、ちょっと面白くて…伏黒くんらしくないなと」
「らしくない?別にずっと思ってたことですよ」
小さく舌打ちをすると彼は少しだけ頬を染めて頬杖をついて目を逸らした。くしゃ、と掛け布団のシーツが皺になる。
私はと言えばそんな伏黒くんの姿を目で追いながら笑いをどうにか押し込めて微笑に留める。
「どうでもいいですよ、そんなこと。仮に禪院だとか御三家とか、貴方と俺の年齢差とか婚姻歴とかそんなくだらないモンがしがらみになるなら、全部ぶっ潰して俺が貴方を守ります。…それで貴方が手に入るなら、もう他のこととかどうでも良いです」
「……」
「それじゃダメなんですか」
めちゃくちゃなことを言い出す伏黒くんに私は目を丸くした。
確かに、禪院家に関して言えば五条さんの目の黒いうちは問題ないと思う。でも五条さんの庇護から外れたらどうだろうか。あの家は彼の術式に御執心だし、恐らく彼の結婚や交際に関しても何かしら口を出して来るだろう。バツイチの年増の女なんて絶対に認められないはず。
「…良いと思う」
でも、そうか。私の為に何もかもぶっ潰してくれるんだ。それくらいの気でいてくれたんだ。何だかそれが嬉しくて私はまた笑ってしまった。例えそれが15歳の少年の細やかな反抗だとしても、君らしくてとてもそういうの好きだなぁ。
「…名前さん?」
「何だか今の伏黒くんなら本当にぶっ潰しそうだね」
「必要であれば」
そう言うと伏黒くんは膝に置いていた私の手をそっと握った。少しだけ熱い掌に、伏せていた目を上げる。
「名前さんはどうしたいですか。自分がどうしたいか、決めましたか」
伏黒くんはそう言うとまたあの縋るような目で私を見つめる。目は口ほどに物を言うというけれど、それは本当だ。
伏黒くんの目はいつも彼の気持ちを私に訴えかけてくる。言葉にしなくてもわかるくらいに。
私は黙って医療用のカーテンを閉めた。しゃ、と音がした瞬間まるで密室のような空間になるベッドに自分でやってどくんと自分の心臓が跳ねるのがわかる。
この1ヶ月考えてわかったのは、私は伏黒くんのことが好きだということだった。誤魔化しが効かないほどに、彼のことを好きになってしまっていた。
だから私が出来るのは、彼との障害になるしがらみを私が出来る範囲で断つこと。
「…離婚したの」
私の言葉に伏黒くんがぎゅ、と私の手を握り直した。伏黒くんは俯いていた。顔が見えない。でも黙って聞いてくれている。
「私、一応嫁いだ身だからさ。免許とか家の名義とか全部戻すのに凄く手間がかかっちゃって。家の名義とか財産分与とかもすごくややこしくて…」
私の言葉に伏黒くんは黙って頷く。
「家も無くなっちゃって。いや、厳密にはあるんだけどね?でももう住む場所も高専に移そうかなって思ってて、そうなるといろいろ手続きがまた増えてややこしくて…実家にもいろいろ言われるし、それで休み休みしてたらこんなに時間かかっちゃって…」
「名前さん」
そこまでしどろもどろに言うと、伏黒くんは漸く顔を上げた。
名前を呼ばれて私も伏黒くんを見つめる。気のせいではない。伏黒くんの目に少しだけ涙が溜まっているように見えたのは。
「好きです。愛してる。…俺と付き合ってください」
伏黒くんの言葉に私はゆっくり頷いた。
「ありがとう。私も、好きだよ。…恵くん」
恵くん、と敢えて呼んでみる。
伏黒くんは少しだけはにかむと私の肩に腕を回してぎゅっと抱きついてきた。今度こそ、私も彼の背中に腕を回してみる。
「…やっと、言ってくれた」
伏黒くんが小さな声で私の耳元でそう囁くので、私も頷く。伏黒くんの肩に顔を埋めるとツンと包帯と湿布の香りがした。いつか、私がここで立てなくなった時も君は私を抱き締めてくれたね。
抱き締めるだけじゃ終われなくて、たくさんキスをしてくれたね。好きだって、いつも言葉や態度で示してくれたね。なのに私は狡くて、君にずっと甘えていた。
「遅くなってごめん。卑怯な大人でごめんね」
「…いい。名前さんが俺のこと好きだって言ってくれるなら、もう何でもいい」
「…恵くん」
「貴方が俺に甘えてたことも知ってる。貴方が自分も他人も回りくどく許すことで人を傷つけてることも知ってる。全部知ってる。知ってて好きなんです。名前さん、好きです」
そこまで全部気付いてたのに。それでも好きなんて、恵くんは随分なもの好きだ。
「俺と付き合ってください。…絶対幸せにします」
「…何だかプロポーズみたいだよ」
「そのつもりです」
恵くんはそう言うと、私に顔を寄せる。ああ、こんなのバレたら。こんなの誰かに知られたら。そんな思いが一瞬過る。
でもそれ全部、恵くん風に言うと「クソ喰らえ」か。
素直になる、というのは簡単なことだった。自分の気持ちに従う。自分がしたいことをする。
私は自分がしたいこと、例えば呪術師を続けることを押し通したくせに、それに反対されることも受け入れようとしていた。何もかも受け入れて八方美人であろうとした。それが私のいけないところだった。
万人に好かれて理解されることなんて不可能だ。私はこう見えて自分の中にしたいことがしっかりあるタイプなのだから。そしてそれを貫き通す頑固さも、実は持ち合わせているのだから。
「…いいの?もう戻れないよ」
「戻る気なんかない」
五条さんにも恵くんにも素直になれ、と言われた。自分でもそうすべきだと思った。
素直に。私がしたいことを。私がいたい人と、そうすることは悪いことじゃない。
「…これって不純だよ。家入さんに怒られちゃう」
「寧ろ清い行為だと思いますけど」
「どうして」
「俺達を阻むものはもう何もないですし、例えあっても俺が全部壊すから」
恵くんの言葉に私は小さく頷いた。まるで内緒話をするみたいに顔を寄せ合って、次の瞬間には互いの唇が触れる。触れるだけの優しいキスを何度か繰り返してお互いに数秒目を合わせると、恵くんがまた唇を重ねてきた。今度は唇の隙間から彼の舌が入り込んで互いの舌が絡み合う。
されるがまま、恵くんの口付けを受け入れながら私のポケットでちゃり、と医務室の鍵が微かに音を立てたのを感じた。
「"不純"しないでよ」と言った家入さんの言葉が頭を過る。しません。恵くん曰くこれは不純ではないそうですから。だから私達は何も悪くありません。……嘘、ごめんなさい。
心の中で謝りながら、恵くんとのキスに集中する。
「…本当に壊してくれるの?」
正直、擁護出来ない。問題だらけの恋だと思う。
でも今、何もかも手放して自分の行く道を選べる私は、この恋に傾倒することを望んでいる。
「貴方が望むなら」
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