あの日以来、名前さんには会っていない。
一週間が過ぎても彼女とは任務も被らず高専ですれ違うことも一度もなかった。
借りていた靴下を返したかったが、いつ会えるかもわからなかったので五条先生に預けた。先生はその靴下を見るなり「やるじゃん」と笑っていた。
多分、五条先生は俺の想いに気付いている。俺が名前さんに惹かれているということを知っている。はっきりそう言われたわけではないが、何となく気づかれているとは思う。
そして五条先生はそれを知っていて、彼女をわざと揶揄ったり俺の前でベタベタ接したりして俺の嫉妬心を煽っている。本当に嫌な大人だ。だからこの靴下を五条先生に渡したのは、俺と彼女の関係性に変化があったことを仄めかす意味もあった。アンタはもう余計なことすんな、という牽制も含めて。
しかし彼女とセックスをしましたなんて大っぴらに言えるわけもない。誤解ですという俺の言葉に「なぁんだ」とつまらなさそうにしていたが、その目はどこか好奇の色を纏っていた。何かあったんだろ、とでも言いたげに。
確かに誤解ではない。何かはあった。でもそういうことにしておかないと、俺から襲ったとは言え彼女の立場が悪くなる。
…つーか五条先生、ちゃんと返してくれたんだろうか。
名前さんの連絡先も知っているけど、別に元々やり取りする間柄ではなかった。あんなことがあってから俺から何か連絡するというのも憚られたし…というか何を連絡すればいいのかもわからないし、結局俺は俺の日常をいつもの様に送るだけだ。
「なあ、伏黒もそう思うよな?」
「…悪い、聞いてなかった。何だ」
「ちょっと最近上の空すぎないー?」
虎杖と釘崎に話しかけられたがぼんやりしていて聞き取れなかった。
らしくねーじゃん、と虎杖にも言われて「考え事だ」と返すとふーん?と不思議そうにされる。
「なんかそう言えば、名前さんて人いるじゃん」
「一回一緒に任務行ったことあるかも、俺!」
「あー多分その人。なんか離婚するらしいわよ」
「……」
またタイムリーな話題を…と思いながら俺は黙ってその話に耳を傾けた。情報源がどこだか知らないが、彼女が離婚するらしい、というのは割と有名な話になってきてるらしい。
そこまでは俺も知ってる。その弱みに漬け込んだから。
「まだ20代前半とかじゃなかった?あの人結婚してたんだ」
「指輪してないからね、私もこの前まで知らなかった。この前誰かも離婚してたし今離婚ラッシュよ」
「イヤなラッシュ来てんな…」
「名前さんとか普通に良い人でもそうなるなんて、呪術師って本当恋愛とか結婚とか向いてない仕事よね」
他愛無い噂話レベルの会話なんて、虎杖と釘崎と三人でいるとよくある。これも二人にとってはその程度の何気ない話題。しかし俺からすれば今正に頭を悩ませている意中の相手の恋愛事情で、気にならないわけがない。
彼女を押し倒して、半ば無理に抱いたあの日のことを思い出してしまう。初めてキスして初めて触れたあの感触が、彼女の蕩けた顔が今もありありと脳に焼き付いている。また意識がそちらに持っていかれそうになり、強く目を閉じて何とか雑念を払った。
当人から話を聞いた俺からしても、釘崎の言葉には概ね同意だった。
恋愛も結婚も向いてない。それはわかる。そのせいで彼女は今破局しかねない状況になっているらしいし。
だから俺があの人に想いを寄せるのも、"向いていない"。俺の立場的にも、俺の生い立ち的にも、諸々含めて何もかも"向いていない"。
そんなことはわかってる。でも俺があの時名前さんにキスしたのも、抱いたのも一時の感情じゃない。好きだから。ずっと好きだったから。結婚していると知っていてもどうしても諦められなかったから。
そうは言っても身体から、なんて自分でも最低だと思う。多分嫌われたし、もう二度と口を聞いてもらえないかもしれない。…馬鹿なことした。本当に。
でもあの時はもうそれしか考えられなかった。あの家で、俺以外の男と暮らして泣いていた名前さんをなかったことにしたいと思った。
何もかも俺で塗り替えてやりたかった。そんなこと出来るはずもないのに、あの瞬間だけは出来るような気がしていた。
でも、名前さんがあの時俺のことをどう思っていたのかわからない。
「あれ、噂をすれば」
そんなことを思いながら虎杖と釘崎と共に高専の校舎を出て昇降口まで来ると、俺は思わず固まった。
…名前さんが誰かと話している。
「うーす!ナナミン!!」
「こんにちは、虎杖くん。挨拶はきちんとしましょう、やり直してください」
「えーと…こんにちは、ナナミン」
「七海さん、でしょう」
はあ、とため息を吐いた長身のサングラスの男性は俺も知ってる。以前虎杖が世話になったという七海さんだ。確か五条先生の後輩。
七海さんと名前さんが二人で何か話していたようで、虎杖が真っ先に七海さんに突進していく。すげぇ懐いてるな、完全に。
「名前さん、こんにちは。任務ですか?」
「うん。七海さんとね。野薔薇ちゃん久しぶり」
釘崎もその後に続き名前さんと何か話している。俺が一番遅れて着いていくと、名前さんは俺から一瞬目を逸らしたが、すぐにいつものように「こんにちは」と俺に挨拶した。
…へえ、そういう感じかよ。
「一週間ぶりですね」
「…うん。あ、えっと…昨日五条さんから荷物受け取ったよ、ありがとう」
「いえ。…あの後大丈夫でしたか」
なるべく平静を装っていつも通りの調子で俺も話すと、釘崎が俺と名前さんを交互に見た。妙な視線を感じて釘崎を睨むと、何とも言えないニヤけた顔で俺を見ている。こいつのこの察しの良さ、今はかなり鬱陶しい。
助け舟を求めるつもりで虎杖を見ると、まだ七海さんと何か話していた。
「…うん、大丈夫」
あの後、が何を指すのか理解したのか、名前さんの目が露骨に泳いで少しだけ顔が赤くなった。だがそれ以上何も言わない。
口も聞いてもらえないくらい避けられるかと思ったが、そうではないらしい。というか悪い反応ではない。少なくとも俺はそう感じる。
「伏黒くん達も今から任務?」
「そうです」
「そっか、頑張って」
それだけ言うと名前さんは俺に目を合わせないようにまた釘崎と何か話し始める。
は?それだけ?…まさか、あの日のことを無かったことにするつもりなのか。
それは嫌だ。そんなことなら嫌われる方がずっとマシだ。
「…ちょっと話、あるんですけど。今少しだけ時間ありますか」
俺が口走ったその言葉に、名前さんが困った顔をした。
「話って…」
話がある、と名前さんを連れ出して虎杖たちから離れた。高専の裏手の寺社まで来ると、名前さんはやはりまだ困ったような顔をしていた。
彼女の手元を見るが、今日も左手の薬指に指輪はない。
「…この前のこと、すみませんでした。多分もう俺のこと嫌いだと思うんですけど」
「あ…」
「言い訳がましいですけど、出来心とか同情じゃないってことだけは言っておきたくて」
俺がそう言うと、名前さんは驚いたように目を見開いた。本当に心底驚いたという顔をしていて、何だか少し腹が立った。
俺のことを何だと思ってるんだ。出来心で既婚女性に自分から手を出す童貞がいるかよ。
「…同情でしょ。…いいの、私が悪いんだよ。私の方こそごめんなさい。お互い、止めるべきだったのに」
名前さんは俺に目を合わせずにそう言うと一歩後ずさる。ざり、と砂が彼女の靴裏と擦れる音がした。違う。同情じゃない。
俺から逃げようとしているのがわかって、迷わず俺はその腕を掴んだ。名前さんが少しだけ怯えたように俺を見上げる。
「だから、俺は名前さんのことが好きなんです」
「…伏黒くん…?」
「ずっと好きでした。すみません、順番めちゃくちゃで」
「…」
「好きだからしました。同情じゃないし出来心でもない。好きだから、ずっと好きだったからアンタの弱みにつけ込みました。…それだけは勘違いしないでください」
やっと名前さんと視線が合う。
信じられない、とでも言いたげに彼女は俺を見上げる。掴んだ腕を握ってそのまま名前さんを抱き止めると、やはり抵抗はされなかった。腕の中の彼女の顔を見れば、悩むように瞳がゆらゆら揺れている。
「でも私、」
「わかってます。歳が少し離れてることも、社会人と学生の立場の違いも、俺が未成年だってことも………名前さんが既婚者ってことも」
「………」
「それでも、好きです」
苦しめている、と思う。
伝えたら迷惑なのかもしれないとずっと思っていた。だから言えなかった。でもこうなれば言わない方が、無かったことにされるほうが問題だ。
本当のことを知りたい。
どうしてあの時俺の腕の中で泣いたんですか?
何で俺とのキスを拒まなかったんですか?
何で俺に抱かれたんですか?
「…伏黒くん、気持ちは嬉しいよ。でも、」
「…」
「でも、私は結婚もしてるし、伏黒くんは学生だし」
「"気持ちは嬉しい"?何ですかそれ。本当に本音?それとも俺に対する同情?」
俺が耳元で敢えて冷たくそう問いかけると名前さんは固まった。何も言わない彼女に、追い打ちをかけるかのように俺の口からつらつらと出てくるのは酷い言葉だった。
「俺は吐きましたよ、全部」
「…伏黒くん」
「名前さんは隠してますよね、自分の気持ち。俺とのセックスを受け入れたくせに言い訳ばっかり考えて、ダメな理由ばっかりでアンタ狡いんだよ。だからちゃんと本音を教えてください。…好きでも嫌いでも何でもいいから、俺に何か貴方の気持ちを言ってください」
俺の言葉に名前さんは呆然としていた。
そっと身体を離して顔を近付ける。名前さんは俺を見つめた後、唇同士が触れそうになっているのに気付いて慌てて俺の口を手で押さえた。
赤くなったその顔を見て期待している自分がいる。もしかして、もしかしたら。俺にも可能性があるのではないかと。
「自分が何を言ってるかわかってる…?」
「俺頭良いんで、それくらいわかってます。名前さんこそ今の状況わかってますか」
べろ、と口に当てられた名前さんの掌を舐めると慌てて引っ込められた。
耳まで赤い名前さん。くそ、可愛い。やっぱり好きだ。…諦められない。
「な、なにして」
「勝手に子ども扱いするのは自由ですけど。…この前の俺、ちゃんと男だったでしょう」
俺が耳元でそう囁くと、名前さんは真っ赤になって俺の胸を押して離れた。
人の物奪うなんて趣味じゃない。
…でも大事にしないなら、俺が貰って良いだろ。
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