私は狡い。
伏黒くんとの関係を考えた時に、真っ先に思うのが彼に対する私の態度の曖昧さだった。私は狡い。はっきりしない態度で、伏黒くんの気持ちに甘えている。私は酷い人間だ。だからせめて、彼が犯した罪を自分になすりつけ己を完全な悪とすることで、罪滅ぼしをしようとしていた。
多分きっとそうしなければ、今後の人生で自分が耐えられなくなると思ったから。
「っ………恵くん」
彼は自分のことを名前で呼んでほしいと言った。
望み通り名前を呼んでみる。それは初めての響きだった。恵くん。恵くん。
私を好きになってくれてありがとう。ごめんね。こんな狡い大人でごめんね。君の気持ちに甘えて、弄んでごめんね。
好きでも嫌いでもいいから何か言って、と懇願する君に、それでもなお何も言わない私を君はどう思う?卑怯で狡いでしょ?君の好きになった私はこんな女なんだよ。
だからどうかもう私のことは嫌いになって、こんな女のどこが良かったんだと後で笑って、もっとまともな歳の近い女の子と結ばれてね。
「名前さん、好きです」
私の思いとは裏腹に恵くん…いや、伏黒くんは縋るように何度も私に口付ける。彼はまだ大人の狡さというものを知らない。擦れたような態度や、大人ぶったことを言うけれど、やっぱり根はまだ子どもだ。
今私を好きだと言うのも、きっとそう言うことで自分を納得させてこの行為を正当化させたいからに過ぎないと思う。
こんなのは愛じゃない。恋愛にすらなっていない。
「好きです。…俺名前さんのこと諦めません、好きです」
諦めて欲しい。でなければ私はただ君に酷いことをした大人になる。それはそれでいいんだけど、伏黒くんが先に進んでくれなければ意味がないのに。
伏黒くんが必死に好きだと私に囁く度に、私の心臓がちくりと痛む。もうそれ以上言わないでと思いながらも、これで最後だからと伏黒くんの言葉を受け入れる。何もかもを受け入れて、彼が満たされるまで。どんな酷いことをされても、痛くされても、彼との二度目のセックスで蹴りをつけて、それで時間が来たらこの関係はおしまい。私なりのけじめ。彼からお見舞いに家に来たい、と連絡があった時からそうしようと決めていた。
そう思っていたのに、伏黒くんはキスするばかりで一向に私の身体に触れてこない。胸元にキスマークを付けられたり首筋にキスされたりちょっと舐められたりはしているけれど、その先に全く進まない。焦ったく思って伏黒くんを見上げると、彼も情欲に塗れた瞳をしているのに、まるで我慢を重ねて耐えているかのようだった。
一思いに乱暴に抱かれるのだろうと勝手に想像していた私は今、戸惑っている。腰に当たる彼のそれははっきりと勃っているのに、何故。
「伏黒くん…あの」
「…名前で呼んでください」
「あ…えっと…恵くん」
「何ですか」
シーツの皺になった部分を何となく指先で撫でながら、伏黒くんを見つめる。彼は苦しそうだった。精神的にも、多分身体も。
「…しないの…?」
生理現象だと割り切ったとしても絶対にヤりたいはずなのに、私の上で我慢をしている姿は見ていてかなり痛々しい。酷く抱いてくれたらいいのに、と思いながら問いかけると、伏黒くんはごくりと唾を飲んだあとに小さく息を吐いた。
「…しません。したらもう二度と俺と会わないつもりでしょ」
「……」
「名前さんが俺のこと好きになるまで、しません。…合意じゃないと本気って伝わらないらしいんで」
伏黒くんの言葉に私は面食らった。まるで私の考えていることが全てわかっているかのようだった。この前は半ば無理矢理だったのに、今度はどうあっても抱かないつもりらしい。
お互いほぼ裸に近い状況で、伏黒くんも勃っていて、私も少なからず濡れているのに。こんなことがあり得るの?
「…私、抱いてって言ったよ」
「それって名前さんが俺のことを好きだから?俺のことが好きで、俺の女になる気があって抱いて欲しいって意味ですか?…それなら今すぐ続きしますけど」
「……」
「そうじゃないならしません」
俺の女、と言う言葉に私が黙ると伏黒くんは「ほら、やっぱりそうでしょう」と言って私に覆い被さるのをやめて上半身を起こした。
彼は脱ぎ捨てられたスタンドカラーのワイシャツを拾い上げると、袖を通してボタンを留め始める。嘘でしょ、そんなこと、と私が固まっていると伏黒くんは制服の上着と私のスウェットも拾い上げてベッドに置いた。
「…何で」
「本気だから」
彷徨う私の疑問に、伏黒くんは迷わずに即答する。彼のこの真っ直ぐなところが、私には苦しい。
「俺は本気なんで。今さっき俺の好きにしていいって言ったの名前さんですよ」
確かに言ったけどそういう意味じゃない。伏黒くんはボタンを全て留め終えるとベッドから降りてスラックスを履いて立ち上がった。手首のカフスボタンも留めながら私に視線を合わせる。
「今日貴方との関係を終わりにする気はありません。キスしまくったのはごめんなさい、でもキスだけは前ここでした時に名前さんからもしてくれたから良いかと思って」
「……」
「さっきも言ったでしょう。俺のことは置いておいて、自分がどうしたいかを大事にして欲しい、って」
…本当に彼は15歳なんだろうか。
私よりも下手したら大人なんじゃないかと思うような対応だ。彼の誠実かつ大人過ぎる対応に、私は不覚にも自分の心臓が早鐘を打つのを感じた。違う、違う違う。好きじゃない。私は伏黒くんを好きになんかなっちゃいけない。
「伏黒くん、」
「だから俺の名前、恵だって言ってるでしょ」
「……」
伏黒くんは深くため息を吐くとベッドに膝をついてのし掛かり、私に服を着せる。させれるがまま、さっき着ていたスウェットに腕を通した。自分の顔が赤いのが自分でもわかる。
ダメだ、こんなことはダメだ。ダメ、なのに。
「きちんと全部整理して、落ち着いたら返事してください。…俺、ずっと待ってますから」
伏黒くんはそう言って少し微笑むと何も言えない私の頭を撫でてぎゅう、と抱き締めてくれた。私は腕を回せずに固まってしまう。
どうしよう。…私、このままだと本当に伏黒くんのこと、好きになってしまう。
「五条さん……」
「名前じゃーん」
あれから数日。
実家に帰ってからも任務を続けていた私はとうとう頭の中がこんがらがってきて五条さんに助けを求めた。
別にこの人に何か解決策を見出してもらえるとは思えない。軽薄で自分勝手で気分屋で節操のない狡い大人の代表とも言える五条さんだが、彼は伏黒くんの師匠であり保護者であり担任だ。訳のわかった誰かと話をして頭を整理する必要がある。そう考えた時に共通の知人で適任なのがこの人しかいなかった。それだけ。
「寝不足?」
「寝不足です。考え過ぎて」
「…僕に相談に乗って欲しい感じ?」
「相談というか、ただ取り留めのない話をして客観的意見を取り入れたいというか」
「それを相談って言うんだよ」
「そうでしたっけ」
五条さんが任務から帰ってきたタイミングでちょうど鉢合わせたので声をかけると、彼は「ココア奢って♡」と言うので言われた通りに自販機で買ってきたココアを渡した。
休憩室のベンチに並んで座りながら私は壁に背中を預ける。そう言えばこの人前もココア飲んでたな。
「恵のことだろ」
「……………はい」
もう認めざるを得ない。五条さんはそれでなくても察しが良いし、最初から何か気付いている様子だった。だからオブラートに包んでそれとなく彼のことを五条さんと話せば、何か頭の中の靄が晴れてくれるのではないか。そんな気がしていた。
「伏黒くんが誠実すぎて眩しいです」
「告白された?」
「……まあそんな感じです」
「え、マジ?名前ってまだ離婚してないよね」
「してないです」
「…ガチじゃん」
「ガチです」
だから困ってるんだよ、と頭の中で呟いた。けして声には出さずに。
「…で、君は恵のことどう思ってるの」
「……」
「好きなの?」
「……嫌いでは、ない…です」
「好きってこと?」
…くっ、何故五条さんと恋バナをしなければいけないんだろう。一番恋バナするのに向いていない相手なのに。自分から持ちかけた話題とは言えニヤニヤする五条さんに若干苛立ちを感じる。
「好きならさっさと離婚して恵と付き合えば良いじゃん」
「簡単に言わないでください…」
「何で?名前今年で23とかだよね?恵と8…いや7歳差か。別に良いんじゃない?昨今じゃ珍しい年齢差じゃないよ」
「いや、伏黒くんは未成年ですし」
「んー、でも恵が20になる時君は27でしょ?全然問題ないよ。僕のセフレにもハタチの子いるし」
「……」
五条さん、そうじゃないんです。今の論点は貴方のそのガバガバの貞操観念の話ではないんです。
私が危惧しているのは伏黒くんを取り巻く環境と私の立場の違いであって…。
「難しく考え過ぎなんじゃないの?もっと素直になればいいと思うよ」
「……素直」
「そ。大人だから子どもだからって言うけどさ、別に人はいずれ大人になるし?立場や環境を引き合いに出すなら、じゃあ名前はどんな女の子が恵とくっついたら満足なワケ?」
「……」
「ほら見ろ、答えられない」
言い淀む私を嘲笑いながら五条さんはいつかみたいにごくごくとココアを飲み干した。逞しい首筋、服から覗く喉仏。五条さんのそれを見ても何もときめかない。なのに伏黒くんのあの熱っぽい視線とごくりと生唾を飲んだ瞬間の彼の首筋を思い出すだけで、私の心臓はやかましく鼓動を速める。
「いい加減認めなよ」
「…五条さんは、伏黒くんの保護者ですよね」
「うん」
「…いいんですか」
「自由恋愛のこのご時世に何言ってんの?」
ホント時代錯誤だね、と笑いながら五条さんは長い脚を組み替える。そして悪い顔で笑いながら目隠しをずらすと、態とらしく私を見つめてキメ顔で肩を抱いた。
「それとも、都合の良い関係のほうをご所望なら僕が志願しようか?…気持ち良くしてあげられる自信はあるよ」
「…それヤれそうな女に言いまくってるでしょ」
「言ってない。名前だけ」
絶対嘘じゃん。私の顎を長い指先で掬い上げて視線を合わせながら五条さんは私に顔を近付ける。
この人めちゃくちゃ嘘ついてるんですけど。
「結構です」
わざと低い声で囁く五条さんの腕をすぐに振り解いて、そのキラキラした美しいお顔から少しだけ距離を空けて座り直す。本当に節操ないなこの人。伏黒くんに教えてあげたい。"大人"とはこういう人のことを言うの。
五条さんは私の反応に唇を尖らせながら目隠しを元に戻した。そんな顔しても無理です。
「即答?まあまあ傷付くんだけど」
「五条さんだけはないです」
「そうやって自分の気持ちはっきり言えるんだから、恵のこともはっきり言えるようになるといいね」
五条さんの言葉に私がまた黙る。なーんて、ちょっと意地悪だったかな、なんて戯けて五条さんはベンチから立ち上がった。
「まあでも、一応恵は僕の大事な教え子だからさ。…名前も大事にしてよ?」
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