会うのをやめよう、と言われたのが心底恐ろしかった。
身体だけでも俺のものになって、何もかも全部お互いの気持ちがわかればいいのに。そんな風に思って彼女に何度も口付けを落とすうちに、俺の中の一つの予感が何度も警告した。これ以上触れるのは止せ。俺はそれに従った。

抱いてと言ったのに抱かなかった俺を彼女はどう思っただろう。でもあれ以上は触れられなかった。
あの人が考える贖罪に、俺は同意出来ない。その先に俺たちの未来がある様には到底思えなかったから。

名前さんとは一ヶ月会っていない。ただの一度も。
俺が避けているのではなく探しても見かけないレベルなので可能性として挙げられるのは向こうが俺を避けている、或いはそもそも高専に顔を出していない、のいずれかだった。
どちらにせよ彼女の行動が気になる俺は、一度伊地知さんにそれとなく名前さんについて尋ねたが、しばらく仕事を休むことになったらしいという情報がすんなりと得られて、すぐに腹落ちした。一時的に休職して家族の問題に向き合うことにした、と。場合によってはこのまま術師を辞めるかもしれないという話まで出ていたらしく、伊地知さんは「そうなったら残念ですね。せっかくまともで真面目な術師なのに」と言っていた。

それを聞いて彼女が漸く自分の道を一歩進み始めたことに安堵したと同時に、妙な焦燥感に駆られた。…正直に言うと、強がって"ずっと待ってる"なんて言ったことを少し後悔していた。1ヶ月会えないだけでもこんなに苦しいのに。

そんな俺の後悔とは別に時は進む。俺は変わらず毎日の任務をこなしながら座学を受けたり日々の鍛錬を先輩達と行ったりと、学生としての日々を送るだけ。
そんな日々を過ごせば過ごすほど、彼女の存在がどんどん薄れていくような気がした。もう二度と名前さんに会うことはないかもしれない、という諦めに近い気持ちすら頭を過ぎる。
胸の奥がずきんと痛んだ。…そもそも、俺があの雨の日にあんなことをしたせいでこうなったんだ。自分が悪い、それはわかってる。

浮気だなんだはそもそも夫婦の問題で、俺が首を突っ込むべきじゃなかった。
でも腹が立って、浮かれて、もしかして、と心のどこかで名前さんとの関係に期待している自分がいた。それが彼女に俺の気持ちを押し付ける理由になって良いわけではなかったのに。

「はー…」

少しでも時間が空くとそのことばかり考えてしまう。
たった一回の大きな過ち。まあその後の未遂も併せたら二回か。
過ちなのに俺にとっては忘れられない思い出で、俺の腕の中で泣いて良がっていた名前さんのことが頭から離れない。
…好きだった。いや、今も好きだ。

「なんか伏黒、ここのところ元気なくね?腹壊した?」
「…いや、壊してない」
「なんかあったん?話聞くよ俺」
「……」

俺の様子そんなにおかしいか?
座学の後、席についたまま少し考え事をしていると、隣に座っていたはずの虎杖が近づいて来て前の座席に座った。
椅子に跨るようにして俺の方を向く。…近ぇ。

「…どうにもならない悩みが頭にずっと残って、そればかり考えてる」
「おお…なんか重そうな…」

まあ確かに重い内容だ。虎杖が露骨に「俺にはどうにもできなさそうだ」と白旗を上げている。話すだけ無駄だろう。
こいつ彼女いたことないらしいし、そういう苦い経験とかないだろ、多分。

「それって何系の話?」
「…人だ」
「はー…人ね。人は難しいもんな…」

虎杖はうーんと頭を掻いて腕を組むとじっと俺を見上げてくる。…何だよ。

「…恋?」
「…っはあ?」
「うわ、マジで?」

まさか虎杖に言い当てられるとは思わず動揺して一瞬言葉に詰まる。何でわかるんだよコイツ。お前にそんな話したことないし。

「いやぁ、多分そうかなーと思って?…ほら、名前さんと前二人で喋ってたから伏黒もしかして名前さんのこと、」
「それ以上言ったら殺す」
「ゴメンナサイ……」

反射的に虎杖に言い放つとビビった虎杖が慌てて手を合わせて俺に頭を下げた。コイツに悟られてるのはヤバい。マズ過ぎる。ってことは釘崎も気付いてるか?最悪だ。しくった。

「言うなよ」
「え」
「このこと誰にも言うな」
「言わねぇけど…そんなに?何で?」
「名前さんの立場が悪くなる。…迷惑かけたくない」
「…名前さんと何かあったん?」
「あった」

そこまで俺が言うと流石の虎杖も何か察したのか黙った。そうだ、何かはあった。名前さんは既婚者だ。俺は未成年の学生。その二人に"何かあった"、という時点で男ならある程度何かは察せられるだろ。

「…でも名前さん、離婚するって話じゃなかったっけ?」
「表向きはな。だが本当にそうなるかわからない。今も仕事休んでるだろ」
「……」
「復縁、してるかも、しれないし」

自分で言って勝手に想像して唇を噛んだ。
嫌だ。…嫌だ、嫌だ。別れろ。別れてくれ。復縁なんかすんな。名前さんを何度も泣かした奴が、今更改まって名前さんを大事に出来るわけない。俺の方が大事にする。絶対俺の方があの人のことを好きだし大事に出来る。

あの人が怪我をして一番に駆け付けたのは俺だ。
あの人が雨の日に弱みを見せてくれたのは俺だ。
あの人がキスしてくれたのは、俺だろ。

「伏黒、お前」
「悪い、喋り過ぎた。この話は終わりにしよう。次体術訓練だな、着替えねーと」

…何を虎杖にベラベラ話してるんだ俺は。どうかしてる。
虎杖が何か言いかけたのを遮って席を立つと、持ってきていた着替えを手に更衣室へ向かった。









「君がこの程度の任務でそんなにボロボロになるなんて珍しい」
「……」
「浮かない顔」

家入さんからの嫌味にも近い言葉に俺は黙る。黙ることしか出来ないくらい、悲惨な状況だった。
等級としては2級呪霊といったところだろう。複数体いたとは言え、難しい祓除任務ではなかった。だが俺は負傷した。あの日の名前さんと同じように、頭を。
いつもの俺なら絶対にしないようなミスだった。

「…すみません」
「謝らなくていいよ」

家入さんはそれ以上何も言わなかった。一言で言うならば、配慮だろう。不甲斐ない俺への配慮。
ベッドに横になったまま、家入さんに巻かれた包帯を確認する。傍に座って足を組みながら家入さんは持っていたボールペンをくるくると回した。

「…出血は多いけど大した傷じゃない……ふふ、少し前に誰かにも同じことを言ったな」
「……」
「彼女、しばらく休職してるらしいね。家の都合がどうとかで」
「…そう、らしいですね」

ゆっくり起き上がってみると、僅かに傷口が傷むだけで他に大きな問題はなさそうだった。家入さんはマグカップに水を入れて渡してくれた。一口飲んで頭の中を整理する。
つーか何でこの人までそんな話を、と思いながら過去の自分の行いを振り返る。…そういえば以前、名前さんが怪我をしたと人伝に聞いた時に医務室へ駆け込んだのを思い出した。
あの時の俺の様子を家入さんが見逃すわけもない。つまり家入さんにも多分気付かれている。

「あの時、血相を変えて君がここに駆け込んできたことをふと思い出したよ。…彼女は元気にしてるの?」
「さあ、知りません。別にそんな深い関係でもないんで」
「へえ?じゃあ君の片想いなんだね」

片想いなんだね、という家入さんの言葉に黙る。…ああそうだよ、どうせ片想いだ。俺の独りよがりな片想いだよ。実る確率の低さなんてはなから承知してたはずだった。

「…」
「否定しないんだ」
「…否定しても、家入さんにはバレてそうなんで」
「ははは、確かに」

家入さんは棒付きキャンディを咥えながら少しだけ笑うと「君、意外とわかりやすいからね」と言いながら持っていたバインダーに俺の処置内容を記入し始めた。この書類と報告書を提出して今日の任務は終了。
後は今日の俺の反省点を頭の中で復唱して次に役立てるだけ。

「でも既婚者だからやめた方がいいよ。あの子は特に」
「…何でですか」
「真面目だから」

家入さんはそう言いながら書類を書き上げて「ん」と俺に付き出した。黙ってそれを一瞥して受け取ると、彼女は椅子から立ち上がって自分のデスクへと戻って行く。もう帰っていいということらしい。

「…名前も君も五条みたいなクズだったら遊びの範囲で楽しむ分には良いと思うよ。でもあの子真面目だし良い子だし、君も根は真面目で良い子だ。そういう付き合い方、おすすめしない」
「…だったら、真面目にお互い付き合えば……」
「それが出来ないでしょ。あの子はもう別の男のものなんだから」

家入さんはわざと軽くそう言って振り向いた。俺がどんな顔をしているのか気になるらしい。…この人も五条先生に劣らず、大概性格悪い。

「出来ますよ」
「…名前が離婚したら?」
「はい」
「それは違うかな」

家入さんがこの件にやけに食い付いてくる。
こんなに家入さんと話をするのは初めてだった。
つーか何でこの人は名前さんのことをそんなによく知ってるんだ。そんなに仲良かったか?

「…名前が離婚すれば何でも解決するわけじゃないよ。名前がどんなに君を好きだったとしても」
「…」
「君は今年でやっと16歳で、彼女は23歳。君は御三家の一角を担う禪院の血と相伝の術式を継ぐ五条悟の庇護下にある正統な後継者候補。片や彼女は一般家庭出身で呪術界に不信感を持つ両親と夫を持つ既婚者。しかも7個も歳上。立場が釣り合わないでしょ」

家入さんが吐き捨てるようにそう言ったのを聞いて、俺は手に持っていたマグカップを落とした。ガシャンと派手な音がしてベッドの足元でそれが割れる。
家入さんは驚くでもなく黙ってそれを見ていた。

「…それ以上言うな」
「言わないよ」

自分でも驚くほどに低い声が出た。家入さん相手に、だ。掌印を無意識に結んでいた俺を家入さんは静かに見つめると、呆れたように頭を掻いてゆっくり立ち上がった。

「じゃ、そこんところ今から二人でよく話すことだな」

家入さんはそう言うと「マグカップ、自分で掃除してよ」と言って医務室の鍵を持ってドアを開けた。ドアの外の人影に思わず口がぽかんと開いてしまう。
1ヶ月と数日ぶりのその姿に手が微かに震えた。そして彼女の気配に気付かないくらい、家入さんの言葉に自分が動揺していたことにも気付いて息を呑んだ。

「名前、鍵預けとく。話終わったら返しに来て。…それとここで"不純"、しないでね」

家入さんはそう言うとドアの外に立っていた名前さんに鍵を手渡して去って行く。ひらひらと片手を上げながら白衣を翻す姿を目で追うが、その前に名前さんの姿が視線に入り、俺は何も言えなくなった。
名前さんは鍵を握ると困り顔で家入さんを見つめる。

「…しませんよ」






top