「で?合意なの?」
「何がですか」
「名前のこと」

突然五条先生から切り出された言葉に俺は黙った。

五条先生に「荷物運ぶの手伝って」と急に言われて昇降口から台車に乗せられた大量のダンボールを運ばされた。肝心の五条先生は手ぶらで俺の横を歩いているから、アンタがコレ押せよと思うが何か理由があるようなので従っていたらこれだ。

全部資料室に運ぶから、と言われて五条先生に従って資料室に着くなり、こう言われてどう返すべきか考えあぐねた。

「…何の話ですか」
「とぼけなーい。……恵、名前に手出したんだろ」

何でそこまでこの人が知ってるんだ。
五条先生は悪戯っ子のような笑みを浮かべて目隠しをずらして俺を見る。
先生が荷台のダンボールを手に取った。重そうなそれを五条先生が軽々と持ち上げて運ぶのを俺は黙って見つめながら、この状況をどう回避すべきか考えることに集中する。

「見てたらわかるから、何でとか野暮なこと聞かないように」
「……」
「多分僕以外気付いてないから、それも安心して。ただ最近名前怪我多いからちょっと心配でさ。本人に言うとまた焦って自分追い込むだろ?僕は恵の担任の先生だし、恵に聞くのが早いと思ったんだよ」
「資料室の手伝いは口実ですか」
「まあそうだね」

五条先生はそう言う割に、軽い口調で笑顔だった。この人が女性に対して真摯なタイプじゃないのは知ってる。女を取っ替え引っ替えしているアンタに説教されたくない、と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。それは俺と彼女の関係を暗に認めることになるからだ。

「どこまでしたの?」
「……」
「あれ、もしかして最後までしたの?童貞卒業おめでとう!気持ち良かった?」
「何が言いたいんですか?」

流石にイライラしてきて俺が五条先生の声に重ねるように問いかけると、五条先生は「んー?」と言いながら壁にもたれた。

「生徒が悪いことしてたら叱るのが、先生の仕事だからね」

なんだ、結局説教かよ。
五条先生を見上げると、さっきの笑顔は形を潜めて珍しく真面目な顔をしていた。

「俺を叱りにきたんですか」
「…場合によるよね。最初に聞いたでしょ、"合意なの?"って」

俺は黙った。
合意かと問われると微妙だ。
俺は無理矢理触れているつもりはないけど、名前さんから好きと言われたことは一度もない。寧ろ流れでそうなってる。まあいけそうな時に俺が畳みかけてるからそうなってるだけとも言える。
はっきり抵抗されたらそれ以上はしないと決めているが、抵抗らしい抵抗はされていない。何なら初めてセックスした時、最後の方は名前さんからめちゃくちゃキスされた。あれを合意というなら合意か?

「明確に拒否されたことはないです」
「ふーん」

まあ恵のことだからそうだろうね、と五条先生がわかったようなことを言うので俺は舌打ちをした。アンタにわかったようなことを言われたくない。

「…女を泣かせるのが趣味の五条先生に説教されても、俺には響きませんよ」
「別に趣味じゃないけど?結果としてそうなっちゃうだけで」
「…それが大人ってことですか?」

俺の問いに五条先生は何も答えない。
アンタだって後ろめたい、生徒に言えないような性生活を送っているくせに。俺の名前を呼ぶ時にセフレの名前と間違えて呼んだ回数を覚えてんのかこの人は。俺はサヤカでもアヤでもナツミでもねーんだよ。

「都合の良い関係なの?恵は本気なの?」
「俺は本気です」

"都合の良い関係"という言葉にイラッときて、俺が即答すると五条先生はまたふーんと言いながら目隠しを付けた。都合の良い関係でしか女と付き合ってないこの人に何か言われる筋合いはマジでない。
そんなの俺があの人に望むわけないだろ。俺はあの人が欲しい。早く離婚して俺と付き合え、いつもそう思ってる。

「…本気かぁ。良いね、色々と前途多難だと思うけど」

五条先生はそう言うと台車を手にして資料室の鍵をポケットから取り出した。この話はこれで終わりらしい。

「叱る必要、無さそうだね」










俺が子どもだからなのか、名前さんが大人だからなのか。
五条先生と話しても俺の中にある気持ちに変化はなかった。五条先生が俺を叱らなかったのは、あの男にはない俺の誠実さを一応は信用してくれているからなのだと思う。
つまり俺が出来るのはあの人を諦めないことだけだった。

今日は単独任務が思ったよりも早く終わり、都心で時間を持て余していた俺は一か八かで名前さんに連絡を取った。医務室での一件から、何となく押せばいけるのではないかという俺の読みは外れてはいなかったらしい。
何度かこちらから連絡をすれば、彼女から返事がある。けして良い雰囲気とは言えないが、望みがないわけでもない。

『電話なんて珍しいね。どうしたの』
「…今任務終わって、新宿なんです」
『そう』
「怪我の具合どうですか。…行ってもいいなら、お見舞いに行きたいんですが」

我ながら無理のある誘いだ。
素直に会いたいと言えばいいのに、と自分でも思いながら口をついて出る言葉はそんな言い訳じみた誘いだった。
怪我が原因で、ここ数日彼女には任務を振られていないのを知ってる。だから多分、今日も家にいるはず。

『…うん、じゃあ待ってるね』

それだけ言うと電話は切られてしまったが、了承は得られた。…これって合意だよな?つーかこの人の態度がいつも曖昧過ぎて合意が何なのかわからなくなってきた。
だが、『待ってるね』と言われたのは事実だ。駅構内で適当な手土産を買って、彼女の最寄駅へと向かうことにした。
浮き足立っている自分を頭の中では制すが、いつもより広い歩幅は指摘されると誤魔化せそうにない。

「いらっしゃい」

名前さんの自宅マンションのオートロックを抜けて玄関に立つと、彼女はすぐに玄関ドアを開けて俺を出迎えた。
スウェット姿の彼女にあの雨の日のことを思い出すが、なるべく考えないように「お邪魔します」と挨拶する。

「急にすみません」
「…ううん、大丈夫」

靴を脱いで以前案内された洗面所で手を洗うと、名前さんがいるであろうリビングに向かう。部屋に入ると、以前来た時よりもさらに部屋がこざっぱりしている。

名前さんはキッチンにいた。ケトルでお湯を沸かしながら、マグカップを二つ出している。

「伏黒くん、時間は大丈夫なの」
「…高専の寮って、門限とかあってないようなもんなんで」
「そっか」

何か飲み物淹れるね。そう言うと彼女は冷蔵庫からお茶っ葉を取り出したので、隣に並んで手土産を渡すと名前さんはありがとうと俺を見上げた。ただの洋菓子だが、彼女はそれを見るなり少し嬉しそうに微笑む。微笑んでいる、ということに安心した。
今日はもう頭に包帯を巻いていない。傷は塞がったらしい。

「部屋、またすっきりしましたね」
「あー、うん。実家に戻ろうかと思ってて。荷物を少し引き上げたの」

俺の言いたいことに気づいたのか、名前さんは俺の顔を見ずに、ケトルを見つめて話し始める。

「…ここから近いんですか?」
「うん。埼玉だから。仕事はこのまま続けるつもり」
「そうですか。…名前さんがそれで落ち着くなら、良かったですね」

率直な気持ちで答えると、名前さんはうん、と頷いた。
…別れるのだろうか。離婚するのだろうか。その為の実家への帰省なのか。聞きたい、知りたい、何でもいいから早く別れてくれ。俺の腹の中の本音がぐるぐる回って、声にはならない。だがそれは明確な期待だった。

「伏黒くん、お見舞いありがとう。傷もう殆ど塞がって、明日から私任務復帰なの」

俺をもう一度見上げて、彼女は額にかかっていた前髪をかき上げる。普段隠れているそこには確かに少しだけ傷が残っていて、赤茶色い瘡蓋のようになっていた。

「良かったです」

反射的にその頬に触れる。驚いたように名前さんが固まるが、無視して額の傷の周りを少し撫でると恥ずかしそうに彼女が目を逸らした。

「だから大丈夫、ありがとう。…心配してくれて」

逃げようとする名前さんの髪を撫でて手を離す。何かされると思ったのか、彼女は沸いた電子ケトルを手に取って少しだけ慌てたようにマグカップに注いだ。
俺も別に取って食おうってわけじゃない。だがまあ、俺がしてきたことを思えば妥当な反応だろう。なら何で俺と二人になるような状況とわかって、今日も自宅に俺を招き入れたのかという問題にもなるが。

「ちょっと話、してもいい?」

マグカップを二つ手に持ってリビングのローテーブルに置くと、俺が持ってきた手土産の洋菓子を開封して更に並べながらそんなことを言うので俺は頷いた。
彼女から何か話がある、というのは初めてだ。

「私、今年で23で、今の夫とは20で結婚したの。ほぼお見合いみたいな感じかな。私の実家は非術師の家系で、私以外の人間はみんな視えないし祓えないから。危ない仕事だと知った瞬間、辞めさせたかったみたい。家庭に入れば仕事もほどほどに、って言われてたんだけどねぇ」
「……そうだったんですか」

知らなかった。確かに彼女が非術師の家系出身であるというバックボーンくらいは知っていたが、恋愛結婚なのだと勝手に思い込んでいた。

「私はね、実を言うとこの仕事を辞めたくなくて。確かにハードだし、危険も多いけど…自分にしか出来ない仕事だと思ってたから結婚しても続けてたんだ。まあそのせいでこういう事態になってるんだけどね」

苦笑いしながらそう言う名前さんに俺は黙って頷いた。
自分にしか出来ない仕事。確かにそうだろう。そもそも才能がなければ出来ない仕事だし、上級の術師になるほど、術師であることを誇りに思っている者も少なくない。
俺だって最近はそう思うように心掛けている。

「だから…どうしても辞めろ辞めろって言われると、辛くて。辞めてもどうせ、私も七海さんみたいに出戻りになりそうだし」

そう言えば七海さんも脱サラして結局術師に戻ったんだったな。
あの人が何故戻ったのか聞いたとき、労働はクソだからより適正のある職場での労働を選んだだけ、と言っていたけど本当は違うと思う。多分この人と同じ、簡単に言ってしまえば"やりがい"ってヤツだろう。

「家庭より仕事を選んだってことかな。多分それが原因」
「…俺も一つ聞いていいですか」

そこまで彼女の話を聞いて、俺は口を開いた。

「…お見合いなら、別に好きで結婚したわけじゃないってことですよね」

しん、と一瞬の沈黙が訪れる。名前さんの瞳が僅かに揺れた気がした。

「俺は名前さんのその仕事のスタンス好きです。別に術師続けたいなら続けていいと思います」
「伏黒くん…」
「ただ、好きじゃないなら、無理してそんな奴と一生添い遂げようとしなくていいんじゃないですか。別れてやりたいことやったらいいと思います。貴方は若いし。…これは俺がどうとかの問題じゃなくて」
「…」
「だから、一回俺のことは置いておいて、自分がどうしたいかを大事にして欲しい、です」

俺の言葉に名前さんは目を丸くしていた。
まさか15歳のガキにこんなことを言われると思っていなかったのだろう。
でも名前さんは少しだけ嬉しそうに顔を綻ばせていた。目を伏せてうん、とまた頷くのが可愛らしい。

「伏黒くんは優しいね」
「……」

そうだろうか。俺は優しくなんかない。優しい人間はこんなやり方をしない。
俺は自分勝手な人間だ。だから、自分勝手に貴方を求めただけだ。そして今も貴方を求めている。早く俺のところに来てほしい。

「あの…伏黒くんの気持ちは本当に嬉しいよ。だから、全部片付いてからちゃんと返事したい。ごめんね」
「いえ、俺こそすみません。…大変な時に、自分勝手なこと言いました」
「いいの、伏黒くんは悪くないよ」

名前さんは首を振ると俺が持ってきた手土産のマドレーヌの包装を切って口に含んだ。
それを眺めながら俺もマグカップに口をつける。
彼女の言い分はわかるし、そうすべきだ。少し落ち着いたら返事もしてくれるだろう。
でも、

「だから伏黒くん、二人で会うの辞めよう」

名前さんの突然の言葉に俺は何も言えなくなる。
まるでそれは二度と会えない、と言われているような重みがあった。それまでの朗らかな雰囲気と打って変わった名前さんの言葉に俺は黙った。ちくたく、と部屋の壁掛け時計の秒針の音だけがやけに響いている。

「…わかりました」

それ以外言えない。
会うの辞めよう、という言葉がこんなに俺の中に重くのしかかると思わず、自分でも動揺している。
"会いたくない"でも無ければ"会えない"でもない。
会うのを辞めよう、というのは残酷な言葉だった。それは暗に俺と二人での時間を過ごすことはないという牽制に近い。
自分が彼女にしたことを棚に上げて、俺は彼女の言葉に勝手に傷付いていた。

…何にせよ、俺がこれ以上ここにいるのは名前さんにとって迷惑だ。もう帰るかと席を立とうとした時だった。

「伏黒くん」

名前さんが俺の腕を掴んだ。初めて名前さんから触れられた事実に動揺する。自分の心音が速まるのを感じながら彼女を見ると、名前さんはほんの一瞬、唇を噛み締めて悩むような仕草を見せた。しかし彼女は俺がそれを指摘する隙を与えないように、意を決した表情で俺を見つめた。
何だ、何が起きて…

「名前さん?」
「私今からずるいこと言うね」
「……何ですか」
「抱いて欲しい」

彼女の一言に心臓が激しく揺さぶられるようだった。…これは、五条先生の言う都合の良い関係?
確かに部屋に俺を招いた時点で、そうなる可能性もあった。でも二人で会うのを辞めようと言ってすぐに抱いて欲しい、とは。…何て卑怯なことを言うんだこの人は。











「…っ」

名前さんは目を伏せて静かに俺の指や唇に感じているように見える。

この人のことがわからない。俺は名前さんが好きで、名前さんも俺と同じ気持ちなら、俺のところに来ればいい。それ以外のことはもうよくわからない。大人だとか子どもだとか、体裁とか立場とかそんなに重要なことなのか?

この人の気持ちがわからない。だけど俺はもうどうしようもなくこの人に惹かれている。後戻りが出来ないところまで、来てしまっている。

と同時に頭に過ったのは彼女のさっきの表情と疑問だった。俺が好きな名前さんは本当にこんな人なのか。中途半端な関係性のまま俺に抱かれることを自ら望むような人なのか?これが本当の彼女の姿なのか?…いや、違う。そうじゃなかった。あの唇を噛み締めた表情。あれはまるで…

「好きです」
「…伏黒くん」
「名前さんのことが好きです」

俺の中の予感はあくまでも予感の域を出なかった。やはり彼女の本心はわからない。だからせめて、彼女への揺るぎない気持ちを出来るだけ伝えておくことにしよう。そうすれば、今こうやって不貞に及んでいる罪悪感を、彼女から少しでも払拭できる気がする。俺が始めたことなんだ。彼女は何も悪くない。責任を感じる必要なんかない。

だけど、俺の言葉に名前さんは何も答えない。

「あ…」

代わりに微かに聞こえる吐息を頼りに、彼女が気持ち良くなれる場所を探す。この前は初めてでいっぱいいっぱいだった。今は何となく要領を得たし、名前さんの弱い場所も覚えているし、俺には少しだけ余裕がある。

彼女の誘いに乗った俺スウェットを脱がせて、俺も着ていた制服を脱いだ。
ベッドに押し倒した名前さんの唇を何度も塞ぐ。互いの舌が行き来して、だらしなく垂れた唾液が名前さんの口から伝って扇情的だった。

これが最後かもしれない、と思うと自然と何度もキスを求める。俺の執拗な口付けを名前さんは抵抗せず受け入れた。

「伏黒くん、」
「名前」
「え…?」
「名前で、呼んでください」

俺の言葉に名前さんは黙った。唇を離して名前さんの下着のホックに手を掛ける。
簡単に緩んだそれを取り払って名前さんの首筋から柔らかな胸へとキスを落とした。小さく身を捩って赤面する彼女の姿を瞳に焼き付ける。

「…恵くん」

初めて名前さんに名前を呼ばれて自分の中の熱が燻るのを感じた。
自分の名前はあまり好きじゃない。
女みたいな名前。俺を置いて女とどこかへ消えた父親がつけた名前だ。父親のことはどうでもいい。二度と会うことはないだろうし、会っても話すことなんて何もない。

ただ、そんな奴から貰った名前でも、名前さんには呼ばれたいと思った。俺のたった一つの名前だったから。
伏黒も禪院も俺じゃない。俺を見て欲しい。
…これが最後かもしれないから。

「恵くん」

もう一度名前を呼ばれて我に帰る。
顔を上げると優しい微笑を浮かべた名前さんが俺の頭を撫でた。その顔に目が離せなくなる。なんて狡い人なんだろう。

「恵くんの好きにしていいよ」

名前さんはそう言うと、また俺の頭を撫でた。
言葉の意味を測りかねて黙る。でも身体は正直で、その言葉を表面通り受け取って熱を帯びた。好きにしていい?本当に?
何でそんなこと言うんだ?…これが本当に、最後だから?

「…じゃあ、好きにします」

以前わざとつけたキスマークは時間の経過と共に薄れてなくなってしまった。俺達のこの曖昧で不安定な関係も、いつかそんな風に時間と共になくなるんだろうか。

考えるのをやめたかった。ただ気持ち良くなれば一時的にでもその思考から解放されるのかもしれない。…でも。でも、その先に俺の求めるものはあるんだろうか。
名前さんの首筋をなぞる。わざと以前と同じ場所にキスマークを一つだけ付けて、また口付けた。

恋愛は一人では出来ない、と頭ではわかっている。
恋は一人では愛になれないらしい。
まだ俺達は愛になってない。何もかも、順番も気持ちも立場もめちゃくちゃで、あまりにも不恰好な恋。恋と呼べるのかすら怪しい曖昧な関係。

だけど俺はいつかこれが愛になるって、信じている。…信じていた。







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