ほぼ勢いで名字先輩の家に押し掛けたが、先輩は嫌な顔一つせずに俺を受け入れてくれた。他人がいると眠れない体質であるにも関わらず、だ。……それを知った時は流石にまずいことをしたと焦ったが、本人は慣れっこらしい。今更引くに引けない俺は、その言葉に甘えて今夜は先輩のベッドを独占するつもりでいる。

こうして名字先輩のベッドどころかそのものを独占することを許された俺は、既にさっきの家入さんとのことを忘れてしまえるくらい舞い上がっていた。……自分の単純さに少し嫌気がさす。
バイク登校しているなんてことは知らなかったので、初めて二人乗り(タンデムと言うらしい)をしたし、一緒に先輩の家で料理をして飯を食って過ごすだけでまるで俺が先輩の生活の一部になっているようで、それが何とも言えない多幸感だった。
二人乗りの時に抱きつくような姿勢になったから、心臓の音が聞かれていないかだけが不安だったが。

「風呂上がりました」
「おう」

風呂を出て借りたスウェットを着るとやはり少し大きく、袖を捲らないとずり落ちてきてしまう。それはそれとしてこの匂いが良くない。……めちゃくちゃ、先輩の匂いがする。
いつもの香水とは別の、柔軟剤の香りが仄かに香ってまたドキドキしてしまう。多分香水の邪魔をしないように柔軟剤は控えめにしているのだろう。それが却って先輩の匂いという感じがして、俺をまた意識させた。

「やっぱりちょっとデカかった?」
「はい」
「恵細いもんな」

左の袖を折りながら俺が頷くと、名字先輩が近付いてきて右の俺の袖を折った。親が子どもにするみたいに。されるがまま腕を差し出すと「ん」ともう片方も丁寧に折り直してくれる。なんとなく顔を見上げると、さっきまで一つ結びだったはずなのに、髪が解かれて全て下ろされていた。柔らかい亜麻色が肩にかかっている姿に中性的な雰囲気を感じる。思わずじっと見ていると「何?」と名字先輩が首を傾げて長いまつ毛の奥から刺すような視線が覗いていて、それが綺麗だったから俺は慌てて目を逸らした。

「……もっと食わなきゃですよね」

適当にそれっぽい言葉で誤魔化そうと口をついて出たのは、普段から感じている劣等感だったのも恥ずかしい話だ。

「無理しなくていいけどな。今は身長が伸びる時期だろ。筋肉よりそっちに栄養がいってるだけかもしんないから、あんま気にすんな」

俺が気にしているのを知っている名字先輩は気休めにそう言うとさっきまで座っていたソファに戻り、着替えを取ると「俺も風呂入ってくるわ。ゆっくりしてて」と言って浴室へと行ってしまった。
リビングのローテーブルには新たにレモンサワーの缶が登場している。その横には白いラベルデザインのチューハイが置かれていた。名字先輩は俺が風呂を頂いている間も1人で結構飲んでいたらしい。……酒強いんだな。

ゆっくりしていてと言われてもやることなんてない。ソファに腰掛けてつけっぱなしになっていたテレビを眺めるが、特に気になる番組などあるわけもなく。それでもどうにかしばらく画面を見つめてはみたが結局リモコンを手に取りテレビを消した。
しんと流れる静寂と、少し遠くで聞こえるシャワーの湯が跳ねる音を耳にしながらキッチンカウンターに置かれている香水瓶に目をやる。
ずっと気になっていた。あの人からいつも香る柔らかく優しい香り。洗い立てのシーツみたいな、穏やかで優しくて心地の良い香り。

「……」

知らないブランドのものだが、シンプルなガラス瓶に英語でラベリングされたそれは洗練されたデザインというやつなのか薬品の瓶を思わせるような見た目をしていた。
黙ってそれを手に取る。滑らかな瓶に触れて軽く揺らすと中の液体がちゃぽ、と音を立てて揺れた。先輩の、匂い。あの人の、

「それ気になる?」
「……っ」
「いいよ、つけてみても」

突然声をかけられて思わず香水瓶を落としそうになったが、何とか強く握ってことなきを得る。
振り返ると上裸の名字先輩が頭にフェイスタオルを被って髪を拭きながら壁にもたれて立っていた。……気配消すなよ。
俺が固まっていると、名字先輩は首にタオルをかけ直してずんずんと俺の元へやってくる。背後から手の中にある香水を奪われる。……近、く、ないか。

「香水つけたことある?」
「……ないです」
「じゃ、教えてやろう。大人の男への第一歩だな」

すぐ近く、耳のそばから聴こえる先輩の声にどくどくとまた心臓が喧しく鼓動する。大人の男って、アンタまだ学生だし俺と1つしか歳も変わんねーよ。大人っぽいけど。

「強く香りすぎるから、初心者は足首とかにワンプッシュでいいよ。俺も首とか胸にはつけないようにしてるし」
「…そう、なんですか」
「脈があって体温高いからな。あと香水は服じゃなくて肌に直接つけること。アルコール入っててシミになるから。……ん、貸してみ」
「あ」
「手首につける時はこうやんの」

名字先輩が俺の左手首を取る。優しくシュ、と香水をひと吹きされて手首に冷たい感覚が走った。途端にあの爽やかで優しい香りがふわりと広がる。……だがいつも感じている先輩の匂いとは少し違う気がした。

「…結構強く香るからワンプッシュな。で、よくみんな勘違いしてるけどこの時に手首擦んのはNG。軽くこうやって重ね合わせるくらいでいい」
「……」
「ほい、色男完成」

名字先輩は背後から腕を回すと俺の両手首をとって軽くとんとんと重ねさせて手を離した。
途端に柔らかく香る香水に身体が熱くなるのを感じる。
香水だけじゃない。名字先輩のシャンプーの香りとか触れられたことだとか耳元で聞こえた心地の良い低音だとか、そういう状況と香りが混ざって、何とも言えない気分だった。

「どう?」
「……いい匂いですね」
「だろ?老若男女ウケ抜群。俺もこの匂い大好き」
「……でもなんか、名字先輩がつけてる時と少し違う……ような」

くん、と手首の匂いを嗅いで俺は目を伏せた。良い匂いなのには間違いない、でも何か違う気がする。

「体温とか体臭?とか水分量で匂い多少変わるらしいよ。あと香水ってミドルノートとかラストノートとかあるし」
「そうなんですか?」
「あ。…もしかして俺がつけてる時の方がいい匂いする?」

俺が素直にこくんと頷くと名字先輩は一瞬黙ったが、いつものようにニヤニヤしながら俺の顔を覗き込んできた。

「何それ、俺の身体の匂いが好きってこと?恵ってばエッチ〜♡」
「は……?いやそんなんじゃ、」
「はは、どれ、なんか違うか?」

突然腕を掴まれて引っ張られて思わずよろけそうになるのを耐える。名字先輩の大きな手が俺の左手首を掴んでいた。そのままくんくんと匂いを嗅がれて俺は固まってしまう。

「……まあ、悪くない」
「……」
「?何だよ」
「……」

またも動揺する俺に反して名字先輩は楽しげだ。
繰り返すがこの人は今風呂上がりで上裸だ。そして俺はこの人のことが好きだ。更に、俺の体温で強く香る香水を、この人は「悪くない」と言った。
それはつまり、俺の、

「……恵?」
「何でもないです、もうどっか行ってください」
「ここ俺の家なんだけど」

何とか絞り出した俺の言葉に名字先輩はまた笑うと「はいはいどっか行きますよ〜」といいながらカウンターキッチンの中へと姿を消した。
何となくそれを目で追うと、冷蔵庫を開けて缶のレモンサワーを手にしているのが見える。…また飲むのかよ。

「恵も一緒にどう?お前のために1本、カルピスみたいなやつ買っといたけど」
「……」
「なーあー、飲もうぜ」

先輩はそう言って前髪をかき上げて小首を傾げて俺を見上げた。その顔やめてほしい。……好きなんだよ、アンタのそれ。
俺が耐えかねて黙って頷くと、「お、やっとか」と嬉しそうに笑う名字先輩。
ダメだ、完全にこの人のペースになっている。つーか服を、着てくれ頼むから……。











全く飲んだことがないわけじゃない。だが缶ごとまるまる渡されたのは初めてだ。
プルタブを開けると乾杯、と先輩が勝手に缶を合わせてくる。かちんと渇いた音が鳴って、俺はそれを口元に運んだ。飲んでみればなんてことはない、本当に炭酸ジュースのような味わいのそれ。だったら炭酸ジュースで良くないか、と思うが。

「美味い?それ」
「ジュースみたいです」
「だろうね。一口ちょうだい。俺のも飲んでいいから」

そう言われて、返事をする前にサワーの缶を奪われた。ごく、ごく、と名字先輩が飲む姿に視線が釘付けになる。首太……。

「おえ、甘ー。悪酔いしそう」
「やめといた方がいいんじゃないですか」
「ん、やめとく」

名字先輩は素直に俺にチューハイを返すと、どかっとソファに腰掛けていつの間にか手に持っていた本に視線を戻した。読書が好きと言うのはやはり嘘ではないらしい。この前も本を読んでいたが、今日も先輩は何かしらの小説に目を落としている。流石に上裸は肌寒かったのか、部屋着に使っているのであろうTシャツを着てくれたので俺も目のやり場にはもう困らない。

「何の本ですか」
「1984年」
「……」
「お前がこの前読んでたから、久しぶりに読み返してみてる」
「…そういう思想強めの人?」
「この俺が?」

少し前にしたやり取りを思い返して尋ねると、名字先輩は笑って本を閉じた。半分くらい読んだらしい。

「俺もお前と一緒でさ、名作は読むようにしてるんだ。結構蔵書は多いと思うよ。……見る?」

先輩はレモンサワーの缶を片手に立ち上がると、リビングから続くもう一つの部屋のドアを開けた。不思議と深淵を覗くような気持ちになり、そこに入るのが少しだけ怖かった。だがぱち、と照明のスイッチを点ける音がして明るくなった室内を見ると別に何のことはなかった。

「……すげえ」
「どうも」

入ってすぐ、壁一面が本棚になっていた。そこまで広い部屋ではないが文庫本サイズの本が多く、ぎっしり詰まっている様は書店や図書館を彷彿とさせる。圧巻だ。
埃一つなく掃除されていることからも、この人が日常的に本を愛でて読んでいることは見てとれる。

「ちょっとは見直した?」
「はい」
「気になるのあったら貸してやるよ。まあ全部そこらの本屋に売ってるだろうけどさ」
「これ全部名字先輩が読んだ本ですか?」
「まあな」

レモンサワーの缶を傾けながら、名字先輩は壁にもたれて本棚をじっと見ていた。顔色は変わらない。多分だが酒、めちゃくちゃ強いんだろうなという感じがする。

「頭の中にあるものは誰にも奪えないんだよ。…死んだ母親が俺に教えてくれたこと、二つのうちの一つがそれ」
「……」
「だから俺は勉強も好きなんだよねー。呪術師って仕事も嫌いじゃない。でも1984年の世界観は苦手、頭の中まで覗かれて、何もかも砕かれるから」

俺が黙って話を聞いていると、名字先輩は「……なーんてな♡」といつもの調子で笑って部屋から出ていってしまった。好きに見ていいということらしい。
この人はあまり自分の話をしない。というか、したがらない。多分だが、プライベートに深く踏み込まれることを好んでいないような気がする。だから名字先輩は親しみがあるのにどこか謎に包まれている不思議な人だ。
同期の2年の先輩達とも仲は良いし、ふざけ合ってるのをよく目にするが、ここに彼らを呼んだことはないようだし。
だから今、不謹慎かもしれないが亡くなったという母親の話を俺にしてくれたのがかなり嬉しい。

本棚に目をやってずらりと並ぶ背表紙を眺める。有名作で読んだことがあるものも置いているし、全然知らない作家の作品もあった。国内の作家だけでなく、海外作家の著書も多い。
俺はそれらを目にして、敢えて一つも手に取らずにリビングに戻る。名字先輩は苦手だと言った小説を、それでも眉間に皺を寄せながらソファに腰掛けて読んでいた。
俺はローテーブルに置いてある先ほどの白いサワーを立ったままごくごくと飲む。先輩は顔を上げて俺を見つめるが何も言わなかった。

「今更だけど、お前酒飲んで大丈夫なの?」
「まあそんなに弱くはないです」
「……飲んだことある人間のセリフだな」
「先輩だって今飲んでるでしょ」
「うん。……ねえ、こっち来て」

先輩は本を手に持ったままとんとんと自らの隣をそっと叩いて俺にソファに座るように促した。酒に弱くないというのは本当だ。だが少量でも飲むと気が大きくなるから酒は怖い。ねえ、こっち来て、という先輩の言葉に俺はまた嬉しくなって、でも悟られないようにいつもの仏頂面で言われるがまま隣に座った。

「……硝子さんのこと、他の奴に言うのはマジでやめて。俺はいいけどあの人に変な噂立てたくない」

念押しされるように再度言われた言葉に、また途端に現実に引き戻される。ああ、そうだった。それを口実にこの人の家に押し掛けたんだった。俺は名字先輩が飲んでいたレモンサワーを手に取るとそれにも口をつけた。でなければやってられない。今、家入さんの話なんか聞きたくない。
爽やかなレモンの香りの後にアルコール独特のほろ苦い後味が舌に残る。
そんな俺の様子を黙って見つめながら名字先輩は俺が何を言うのか待っていたらしかった。じっと鋭く、だけどどこか甘ったるい視線で見つめられて俺も何も返さないわけにはいかない。

「……わかってます」
「ん、良い子」

小さく俺が頷くとよしよしと先輩が俺の頭を撫でる。されるがまま少しだけ俯くと先輩はそのまま頭を撫で続けてくれた。気持ち良い。……なんか良い匂い、する。あ、先輩の香水の匂いか。…家入さんとかもうどうでもいい、今は俺がこの人を独占して、頭撫でてくれてるんだから。今のこの人は俺のものだ。

「俺からも、いいですか」
「なに」
「……こういうの、俺だけにして欲しいです」
「……」

俺の言葉に名字先輩はぽかんとする。酔いが回っていると自分でもわかる。今飲んだレモンサワーは度数が高い。何言ってんだ俺、と思った時には既に言葉は音に響きを変えて、名字先輩の鼓膜を震わせていたらしい。

「俺をいちばんに、してほしい」

本当に言いたいことはそんなことじゃない。
でも言えないから、言える範囲でまとめるとそういう言葉になる。
本当は女を取っ替え引っ替えするのをやめて欲しい。本当は俺だけに先輩を独占させて欲しい。アンタの全部俺だけに見せてほしい。知りたい、何もかも。そしたら俺も全部、先輩に見せるから。
……俺のこと一番好きになってほしい。

「何それ、可愛いこと言うじゃん。独占欲?」
「……そうだって、言ったら」
「心配しなくてもお前は俺にとって一番可愛い後輩だよ。っていうか他に後輩いないし」

可笑しそうに先輩が笑う。優しく俺の頭をよしよしとまた撫でる手が愛おしい。俺の我儘を嫌な顔せずに受け入れて、美味い飯作って、誰にも見せないプライベートを見せてくれる。…先輩も、俺のことが好きなんじゃないかなんて期待してしまう。
高専の昇降口で任務帰りに鉢合わせた時はあんなにも絶望的な気持ちだったのに、今の俺はわかりやすく熱に浮かれている。
ああ、好きだな。好きだ。自分が男に産まれたことを心底恨むよ。……俺はもっとこの人の近くにいたい。これ以上を望まないなんて無理だ。

「恵って酔うと甘えるタイプ?」

名字先輩は眉を下げて微笑みながら尚もよしよしと俺の頭を撫で続ける。それが気持ち良くて、他の奴にやられたら絶対嫌なのに先輩にされるのは嬉しくて、勢いで先輩の肩にもたれかかってみる。「やめろよ」と咎められるかもしれないと思ったのに、先輩は黙ったまま犬か猫でも撫でるみたいに俺の頭を撫でながら何でもないといったふうにまた本に目を落とした。
何で嫌がらねぇんだよ。男同士で気持ち悪いとか思わないのか。……何で、俺の何もかもを受け入れてくれるんだよ。

「…お前がもし女だったら、多分もっと前にすぐに食ってる」

ぼそりと呟くように、掠れた声で。
名字先輩は確かにそう言って少しだけまた笑った。俺は先輩の肩にもたれたまま、言葉を繋げなかった。どういう意味なんだ。言葉通りに受け取っていいのか?
ぺらり、と小説のページを先輩が捲る音だけがやけに響く。

「男で良かったな」

ダメ押しにそう言うと名字先輩は黙ってまた一口レモンサワーに口を付けた。
食ってる、という言葉が頭の中でぐるぐると駆け巡る。…食われてたのか。俺が女だったら、俺はこの人に抱かれてたのか?その他大勢の女と同じように?…それとも、

「俺は別に良いですよ。…男でも」
「……は?」
「…名前さんの好きにしてくれる、なら」

勢いで一度も呼んだことのない下の名前を呼んで、その響きのくすぐったさに自分の頬が熱くなる。だが勢いというのは恐ろしく、酒の力というのはもはや神秘的ですらあった。俺はソファに膝立ちになると、その恐ろしい勢いにまかせて先輩の肩に手をついて膝に跨った。名字先輩は一瞬目を丸くしたが、多分手癖なのか反射的に持っていた本をソファに投げ捨てて俺の腰を支えるように撫でる。その手つきがいやらしくて、思わず反応してしまって手が震えた。

「へえ、そうくるんだ」
「……っ」

ここまできて、しまったと我に帰る。
だめだ、俺は今酔っている。一気に飲んだあの度数の高いレモンサワーのせいだ。何やってんだマジで、いい加減にしないと本当に嫌われ…

「じゃあ食っちゃおうかな」

ぐるん、と視界が回った。
頭がぼうっとしてくる。一瞬何が起きたのかわからなかったが、俺にのし掛かるようにして顔を覗き込んでくる名字先輩の顔の後ろに天井の照明が見えた。

「え……?」

途端に喉がひりつく。とんでもないことをやってしまったとわかるのに、身体は動かないし口が渇いて声も出ない。押し倒されている、と理解した時には既に先輩の長い髪が俺の額を擽っていた。顔が、近い。

「ここまで誘われて何もしないってのはさ、寧ろお前に対して失礼だろ」
「……あ……」
「いいよ、目閉じて」

何か言わなければ、何か、と回らない頭で考える間も無く、先輩は薄く笑いながら目を閉じるように俺に促した。
いいよ、と言われた。何がいいのかわからないが、言われるがまま馬鹿正直に目を閉じる。思ってもみなかった先輩からのアクションに思考が追いつかない。キス、される、んじゃ、

「冗談」

怒らせたのだろうか。しまった、と思ったが先輩は別にいつもと変わらない薄い笑みを浮かべている。ただその目の奥に僅かに、熱を感じたのは気のせいだろうか。
何を言えばいいのかわからずに黙ってその顔を見つめると、また先程のようによしよしと頭を撫でられる。怒ってはいないのか。……つーか……まずい、なんか、眠い…。

「おやすみ、恵」

とん、と額を突かれて俺はそのまま意識を落とした。
最後に見えた先輩の顔は笑顔じゃなかった。憐憫とも自責とも取れるような先輩の視線。関係を壊したことを後悔しても、多分、きっともう遅い。





top