「お邪魔します」
「ん」

生姜焼きが良いと言ったのは口実で、本当は何でも良かった。名字先輩と過ごせるのなら。

虎杖が高専に入学してから、名字先輩と俺が二人で顔を合わせる機会はめっきり減った。同期がいれば同期と一緒に授業を受けるし、休憩時間や任務も必然的に虎杖と過ごすことが多くなる。今まで1年で1人きりだった俺を構ってくれていた名字先輩は、虎杖という存在を理解した瞬間、俺を気にかけて会いに来ることがなくなった。

虎杖は善人だ。
明るくて良い奴だし、他人の為に自分を犠牲にして身体を張れる。そんな奴だからこそ死なせたくなかった。虎杖みたいな何も知らない善人が、何も知らないまま理不尽に殺されるのが俺には耐えられなかった。だから助けて欲しいと五条先生に懇願した。
事実、虎杖と過ごす時間は楽しいし、呪術師としての素養もあるし、同い年である虎杖とは話も合う。

それと同時に、名字先輩との距離を俺はどうももどかしく感じていた。最近、あの人は少し近づき難いオーラを出しているというか、俺や虎杖を見る時の視線が少し冷たいような気がする。話すと普通だし、別に怒っているわけでもないらしいが、今までの接し方と違う。何より、避けられているような気がした。

俺は何かしたんだろうか。嫌われるようなことをした記憶はない。でも最近は以前のように不意打ちでキスをされることはないし、あの甘やかすみたいな意地悪で優しい先輩のおふざけすらなくて、何だかそれが……その、少し、寂しい。

「どうかした?」

任務を終えて先輩のバイクの後ろに跨って例のタワマンの部屋にお邪魔する。名字先輩はいつも通り、慣れた様子で靴を脱ぐと俺には見向きもせずにすたすたと部屋へ入っていってしまう。……やっぱり変だ。なんか素っ気ない。
俺も黙って続くと、手を洗い終えた名字先輩が制服を脱いでハンガーにかけながら、洗面所で思案に耽る俺に声をかけてきた。

「…俺、何かしました?」
「何かって?」
「最近、素っ気ないってか……なんか俺に当たりきつい感じがして…その、何かしたなら謝りたいんですけど」
「……別に、なんも」
「じゃあ何なんですかその感じ」

俺が詰め寄ると名字先輩は一瞬目を丸くして俺を見下ろした。脱ぎかけのスタンドカラーのシャツの隙間から鍛えられた腹筋と胸筋が覗いてどくんと心臓が跳ねる。

「普通だろ」
「……もう俺には興味ないってことですか」
「…………はあ?」
「やっぱり俺が男だから?……名字先輩は女が好きですもんね」
「何言ってんの?」

言うつもりのなかった負の感情が口から溢れ出て思わず唇を噛む。泣く気なんか全然ないのに、目の奥が少し熱くなってきて俯いて堪える。ああクソ、マジでめんどくせぇ、何やってんだ俺。

「おい、恵……」
「だったらちゃんと振ってください。別に俺、それならちゃんと諦めますから。付き合えるかわかんないとか言う癖にキスして……なのに急に冷たくして……期待させて振り回して苦しめないでください」
「……ばか」

名字先輩の顔が怖くて見られない。俯いたままそう言い放つと、ふわりとすぐに身体が温もりに包まれて思わず固まる。それは、その匂いは間違いなく名字先輩のもので、肩に顔を埋めるような形で抱き寄せられていた。反射的に背中に腕を回して、俺も名字先輩に抱きついて目を閉じる。ずるい。なのに離れたくない。離したくない。離さないでほしい。許されるならこのままぴったりくっついていたい。

「それさー……お前が言う?」
「……?」
「俺に興味ないのは恵の方だろ」

狭くはない洗面所とは言え大の男2人で並ぶと圧迫感はある。肩に顔を押し付けてゆっくり息をすると、まるで小さな子どもをあやすようにとんとんと背中を何度か撫でられた。良かった、嫌われていない……そう安心したのも束の間、洗面所の壁にどんと身体を押し付けられる。名字先輩は俺の頭上の壁に手をついて、俺のことをじっと見下ろしている。閉じ込められているみたいで少し怖いのに、名字先輩の香水の匂いが仄かに香って安心する。

「悠仁が来た瞬間、俺より悠仁悠仁じゃん、お前。つーか悠仁を助けたのも死なせたくないって五条先生に泣きついたのも恵だったんだっけ」
「それは、」
「結局お前はさ、俺のことが好きなんじゃなくて独りが寂しかっただけなんだよ。……今は悠仁が隣にいるから寂しくない。悠仁がいるから俺がいなくても平気。……俺のことを本気で好きだったわけじゃない。そうやって俺を好きだと思い込んで、自分に優しくしてくれる名字名前って人間の特別になることで自分の居場所を作ろうとしてただけじゃねぇの」
「……」
「だからご機嫌取りに今日は俺に甘えに来たんだろ。俺は悠仁のいなくなった時の保険ってこと。別に俺怒ってないよ、恵のそういうとこ人間臭くてむしろ安心した」
「……違…」
「違うの?」

そう言って名字先輩は俺に顔を近づけて冷たい視線を投げかけた。光を通さない名字先輩の目の奥の色は真っ暗で怖い。先輩のこんな顔、見たことない。

「違うなら今ここで証明してよ。悠仁より俺の方が大事だって、俺が欲しいって、俺になら何されてもいいって言えよ」
「……」
「言えねぇだろ?だからお前は俺のことなんか好きじゃ、」

名字先輩の言葉が怖い。聞きたくない。何で虎杖の話が出てくるんだ?俺が好きなのは名字先輩で、虎杖はただの同期で、友達で、なのに、何で、

「っ……名前さんは俺にそう言って欲しいんですか?」

売り言葉に買い言葉だ。俺が反抗するようにそう言ってわざと先輩の名前を呼ぶと、一瞬名字先輩はたじろいだ。
その隙を見計らって自分の唇を先輩のそれに押し付ける。触れるだけのキスをすると、名字先輩は驚いたように目を見開いた後、何か言いたげに目を細めて眉間に皺を寄せた。
でも何も言わずに、まるでそれがきっかけだったかのように名字先輩が唇に噛み付いてくる。

「…ふ…っ……ん……んっん……んん」

今までされたことのないような荒々しいキスに眩暈がする。うまく立てなくて先輩にしがみつくと、名字先輩も俺の腰を抱いてそのまま壁に押し付けて舌を絡めてくる。

「……恵」

逃げようと顔を背けようとすると顎を押さえられてそのまま半ば無理矢理舌を絡め取られる。ぢゅううと激しく吸われて、ごくんと先輩が俺の唾液を飲み下したのがわかってぞくんとする。飲み込みきれなかった唾液は俺の口の端から垂れ落ちて、でもそれを拭う隙すら与えられず、上顎を舌でまたなぞられる。

「恵」
「…〜っ……ん……っ……」
「恵」

食い尽くされる、と思った。そんなキスだった。
逃がさないとでも言われているみたいで、苦しいのに気持ち良くて。キスの合間に何度も何度も名前を呼ばれてくらくらする。まるで恋人を呼ぶような甘く優しい声が頭の中で何度も木霊して、勘違いをしてしまいそうだった。

「も、……やめ……」
「恵」

やめてくれ。もっと欲しくなる。名字先輩の全部が欲しくなってしまう。
このまま流されてはいけないとわかっているのに、先輩の身体を押し退けることができない。……だって今日、俺はこうされたくてここに来たんだ。

「……っはっ……っなん……で……」
「だからこっちのセリフだって、ばか」

意味わかんねえ、ふざけんな。だんだん腹が立ってきて名字先輩を睨む。いつもみたいな余裕の笑みを浮かべてるに違いないと思ったのに、名字先輩は見たこともないような悲しそうな顔をしていた。初めて見る表情に俺は何も言えなくなる。
何でアンタの方がそんな顔してるんだよ。泣きたいのは、悲しいのはいつも俺の方なのに。

「もうさ、俺とじゃなくて悠仁とこうすればいいじゃん。アイツ優しいし、お前がしたいって言えばさせてくれるかもしれな…」
「……うるせえんだよ」

また名字先輩の口から出た"悠仁"という名前に苛立つ。自分の口からいつもより低い声が出て、自分でも驚いた。
何で虎杖のことを引き合いに出してくるんだよ。俺と虎杖が一緒にいても何も思わないって言ったのはアンタの方だろ?

「あ?」
「……さっきから虎杖虎杖うるせえ」
「……」
「好きじゃないとか勝手にアンタが俺の気持ちを決めんな。……アンタこそ、自分の居場所が欲しくて、誰かに求められたくてたまらないんでしょ。だから節操なく女抱いてんだろ。人を本気で好きになるのが怖いだけのくせに……!」

勢い任せにそう言うと名字先輩は黙った。
しまった、言い過ぎたと思ったが口から出た言葉は今更引っ込めることなどできない。先輩は呆然とした様子で固まっていた。……俺はもしかしたら言ってはいけないことを言ってしまったのかもしれない。でもずっと思っていたことだ。

このまま流されて、俺が好きなのは名字先輩で、名字先輩以外いらないと言えば良かったのかもしれない。でも、そしたらこの人はまた……。

「そんなアンタが、俺と虎杖のことを喧しく口出すなんて変だ」

もし、仮に先輩が俺と虎杖の関係に嫉妬しているのだとしても、そんなのお門違いだ。俺とアイツはただの友達。俺が好きなのは名字先輩。それは揺らがない。
でも先輩はそうじゃない。俺が名字先輩を好きだと知っていて、自分は他の女と寝てる。なのに俺と虎杖に嫉妬するなんて、そんなのおかしいだろ。……そんなの、ずるい。また、俺だけが辛い。

「帰ります。……すみませんでした、もう来ません」

だったらアンタだって苦しめばいいんだ。俺はいつも胸が張り裂けそうなくらい苦しんでそれでも名字先輩のことを好きでいるんだから、アンタも苦しんで苦しんで俺を好きになればいい。
それにこれ以上、一緒にいても多分ぶつかるだけだ。俺は先輩の顔も見ずに靴を履いて部屋を出た。何度も来たことがあるから、出入りの仕方は覚えてる。高層階向けのエレベーターが28階まで来るのを待っていても、エントランスに出ても、先輩は俺を追いかけてこなかった。

追いかけて来てほしかったわけじゃない。……じゃあ俺はどうして欲しかったのか。
ただ一言、好きって言って欲しかった。俺のことが好きだって。
そう言ってくれたらどんなに救われたか。それだけで先輩のこと、俺は何でも……本当に何をしていても、何をされても許せるのに。

「……クソ」

唇を何度も手の甲で拭ってエントランスを出た。さっきのキスの感触が消えない。クソ、クソ、俺はなんであんな男のことがこんなにも好きなんだろう。





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