虎杖が入学して間も無く、俺は名字先輩と喧嘩をした。喧嘩と言えるシロモノかどうかは別として、その日以来名字先輩とは顔も合わせていない。
まるでそれに合わせるかのように釘崎野薔薇というもう1人の同級生が入学。虎杖と共に三人で行動することが増えてここ数週間、2年の先輩方や名字先輩と会うことは殆どなくなった。
そんな中、少年院での等級ミス案件により虎杖が死亡。
宿儺の顕現があったにも関わらず虎杖は息を引き取った。……やるせない。術師として生きる以上、こういうことが起こる可能性はゼロじゃないし、自分の未熟さに嫌になる。仕方のないことだったと自分の中で落とし所見つけて次に進むしかない。だが虎杖のような善人が死ぬのはキツイ。それは釘崎も多分同じで、俺達は口には出さなくても虎杖の死にそれぞれ甚大な精神的ダメージを受けていた。
こういう時、自分の中で折り合いをつけているつもりでも誰かに縋りたくなってしまう。五条先生はそれでも飄々としていて、俺達の気持ちをそこまでケアしてくれるわけではなかった。何よりそれ以降先生はかなり多忙だった。俺達の泣き言に構っている暇などあの人にはない。
もしも普段通りに名字先輩とそれまでと同じ関係を築けていたら、多分俺は先輩に甘えていたと思う。
だがそんな都合のいいこと今更できるわけもない。喧嘩別れのような形で顔を合わせなくなってから数週間、結局"自分は俺にとって虎杖の代わりだ"と言った先輩の言葉通りになってしまうのが嫌で、虎杖が死んでから数日経った今も俺は名字先輩と顔を合わせずにいる。
「おい1年、合宿の話したいんだけどいいか」
座学の自習を言い渡されて釘崎とモメながらプリントの問題を解いていると、教室に真希さんが顔覗かせた。釘崎がぽかんとして見上げるので、「2年の先輩だ」と俺が紹介すると、慌てて挨拶をし始める。
が、真希さんの後ろにいる人物に俺は思わず固まった。
「釘崎野薔薇です」
「ああ、聞いてる。禪院真希だ、よろしく。で、こっちが名字名前」
「ういーす」
「あ、ども」
真希さんの後ろをついて来たのは名字先輩だった。
教室のドアの鴨居の部分に頭をぶつけないよう、ポケットに突っ込んでいた手を出してそっと押さえ、少しだけ身を屈ませて教室に入ってくる。
懐かしさすら感じる名字先輩の顔にどくん、と自分の心臓が少しだけ跳ねたのがわかった。初めて出会った時からそうだった。この立ち居振る舞いといい、純粋な術師としての強さといい、黙っていれば堪らなくかっこいい。
だが先輩は俺を一瞥するとすぐ隣の釘崎に目をやる。何を言われるのだろうと身構え……否、期待してしまっていた俺はやや拍子抜けだった。
そしてやはり、名字先輩は俺ではなく釘崎に向かって口を開いたのだ。
「よろしく、野薔薇ちゃん。やっと真希以外に女の子が増えて嬉しー♡コイツ俺に対して暴力的なんだよね」
「そういうのいいんで。アンタ女たらしでしょ、わかるのよチャラチャラしてるし」
「チャラチャラしてんのだめ?」
「だめ」
人懐っこい笑みで目尻を下げて釘崎に笑いかける名字先輩に、ずきんと胸が痛む。
俺の微妙な反応に釘崎が何を思ったのかはわからないが、ちらりと俺を見た後に呆れた様子で頬を掻いた。
「そう言わずにさ、野薔薇ちゃん東京初めてなんだろ?今度俺とデートしようよ。何でも教えてあげる♡お望みならあんなこともこんなことも……っ痛!!!」
「おいいきなりおっさんみたいなセリフで後輩口説いてんじゃねーよヤリチン」
「…っ………お前……手加減……しろや……」
「んな言葉、私の辞書にねーよ」
そんな名字先輩の向こう脛を思い切り真希さんが蹴り上げて、名字先輩は悶絶してその場に屈み込む。ざまあみろ、なんて内心思っていると、真希さんが教卓まで来てチョークですらすらと何やら書き始めるので俺と釘崎はそれぞれ自分の席に着いた。
名字先輩はと言うと、何故か釘崎ではなく俺の隣の席にどかっと腰掛けて同じように黒板を見つめている。釘崎口説きたいなら釘崎の横に座れよ、バカ、節操なし、ヤリチン、ばか。……俺には何も言ってくれないくせに。
「パンダと棘は昨日から任務だから、今日は俺と真希の2人なの」
それでも、どんなに心の中で悪態をついても、名字先輩から目が離せない。膝に片足を引っ掛けて、ハーフアップにしている亜麻色の髪を結び直す仕草は絵になる。……先輩の髪が以前喧嘩別れした時よりもやや伸びていた。あれから髪、切ってないんだな。
「……そうですか」
「悠仁のこと聞いた。……残念だったな」
俺の心中の悪態に反して、名字先輩は黒板を見つめたままポケットに手を突っ込んでぼそりと俺にそう言った。ぴく、と釘崎の肩が揺れたのがわかる。
「気にすんな、とは言わないけどさ。誰も悪くないよ。術師やってるとそういうこともある。……お前ら二人が生きてて良かった」
「……はい」
「まあでも、本当に残念だ」
名字先輩は本当に残念そうにそう言うとそれ以上虎杖の話はしなかった。生きてて良かったと言われて、嬉しい気持ちと先輩への想いが混ざって何とも言えず俺は俯く。
――勘違いするな俺、別に仲間が死んだから寝覚め悪いとかそういうレベルの話だ。俺はとっくにこの人にフラれてる。喧嘩別れしたあの日、先輩が俺を追いかけて来なかったのがその証拠だ。連絡もなかった。もう俺は相手になんかされてねぇんだよ。諦めろ俺のバカ。
ちらりと隣を見ると、虎杖の話題に釘崎の目には微かに涙が浮かんでいた。――俺はそれをどうすることもできなくて、やはりただ黒板を黙って見つめる。
ややあって真希さんが手に持った冊子を目にしながら合宿の説明を進めていく。
「一日目は移動、午後からトレイルランニング、夕方は悟主催で闇鍋だ」
「はい真希センセー!トレイルランニングって術師に必要っスか?!」
「知らねーよスケジュールは悟が全部決めてんだから。今私らで決めたいのは部屋割りと闇鍋の段取りだ」
「「闇鍋の段取り」」
さっきまでの湿っぽい空気とは打って変わって勢いよく冗談めかして挙手する名字先輩に、真希さんがめんどくさそうにそう返す。確かにトレイルランニングって何だよ、とは俺も思った。山の中走るやつだろ。それ高専にいたらいくらでも出来るんだが。
「五条は私達に箱根駅伝でも目指させるつもりですか?」
「知らんけど五条先生ならあり得る。野薔薇ちゃんネオ山の神目指す?じゃあ5区走ってね」
「何よネオ山の神って。つーか出ないし箱根駅伝」
「とりあえず部屋割りだが、男4で女2だから私と野薔薇は必然的に同部屋。男どうする」
「どうするって?」
「お前と恵と棘とパンダ。部屋割り決めろ」
「は?もしかして2人で一部屋的な感じ?俺1人部屋がいいんだけど」
「1人部屋とかねーよ」
真希さんが鬱陶しそうにこめかみを押さえてわがままを言う名字先輩を睨んだ。そうか、虎杖がいないから俺は必然的に先輩の中の誰かと同部屋になるのか。別に俺は誰でも……と思ったが、以前名字先輩が"人がいると眠れない"と言っていたことを思い出してちらりと先輩の顔を見る。……見てしまった。
その瞬間ばちんと先輩と視線が合って思わず固まる。先輩がほんの数秒、じっと俺を見つめた。無表情と言えばそうだがその瞳に嫌悪の色はないように思う、けれど。
「じゃあ俺、恵と一緒の部屋がいい」
一瞬の沈黙の後、先輩はごく自然に向き直り、机に頬杖をつくとあっさりと真希さんにそう言い放った。俺はと言えば驚きで声も出ない。自分の名前を名字先輩が呼んでくれたことで、あの喧嘩別れの時にした乱暴なキスを思い出してしまう。何度も何度も俺の名前を呼んで、口の中全部食い尽くされるみたいなキスをされたことを。
「……」
「恵は?名前と一緒でいいのか?嫌なら断れよ」
真希さんはチョークを手の中で弄びながら興味なさそうに尋ねてくる。釘崎は俺と名字先輩のいざこざなど勿論知りもしないので、こちらもどうでも良さそうに黙って黒板を見つめていた。
「だめ?」
「……っ」
そこでまるでダメ押しとばかりに頬杖をついた名字先輩に上目遣いでじっと見つめられて、俺は返答に困った。どこかアンニュイな表情の名字先輩は酷く色っぽい。その顔が釘崎には見えないように、頬杖をついて俺だけに向けているのもずるい。……好きな人にそんな顔されて、断れるわけない。
「……別にいいですけど」
「はい決定ー。俺と恵、パンダと棘で部屋割りは終わりー」
俺が何とか声を絞り出してそう言うと、名字先輩は顔を上げて明るい声で真希さんにそう言い放った。
どういうことだ。俺はもうてっきりフラれたと思っていたのに。
「後は闇鍋の段取りだが……」
「段取りもクソもねーだろ、変なもん入れるなよ、以上」
「このバス狭くねー?」
「小型のマイクロバスですから」
そんなこんなであれよあれよという間に時間は過ぎ、五条先生主催の箱根登山合宿の日。
一番後ろの席でパンダ先輩と狗巻先輩がはしゃぐのを尻目に、名字先輩は一人で座っていた俺の隣にやってくる。まさか来ると思っていなくて俺は内心焦ったが、食う?とカップに入ったスナック菓子を差し出されて一本だけ頂戴した。
「パンダ一人で3席分近く使ってて後ろ狭過ぎんだよ」
「それで前来たんですか」
「そ。棘はおっぱい揉んでくるしさ」
ぽりぽりとスナック菓子を齧りながら名字先輩は気怠げに首を鳴らすと俺の隣にごく自然に居座る。ふわ、と香水の香りがして反射的に俺は目を細めた。
合宿とあって私服OKとのことで、名字先輩も普段と違い制服ではなく私服だった。タンクトップにパーカーを羽織り、フラップポケットのついたカーゴパンツというとにかく楽さ重視の装いらしい。パーカーの隙間から覗く鎖骨やら胸筋やらに一瞬目を奪われかけたが、あわてて視線を逸らした。
外の景色を眺めていた俺の隣は空いていた。運転席のすぐ後ろに五条先生と日下部先生、その少し後ろに真希さんと釘崎が座っている。それぞれお菓子を食べたり喋ったりと車内は結構賑やかだ。
「もう俺のこと嫌かと思ってた」
何でもないような普段通りの声のトーンで話す名字先輩に俺は黙る。……嫌、なわけない。だってまだ好きだ。諦めるべきだとわかっていても、そう簡単に人への気持ちは切り替えられない。
それにこうして話すのはあの合宿の話以来で、あの時は普通に接してきたくせにその後の先輩は再び俺のことを避けているようだった。まあそれは俺も同じだったけど。
「いえ……」
「でもまだ怒ってるだろ」
「それは、名字先輩もでしょ」
俺が言い返すと、名字先輩は黙ってもぐもぐとスナック菓子を咀嚼してまた俺に突き出した。俺も黙ってまた一つ貰ってぽりぽりと口に含む。
「俺は別に怒ってはいない。最初から怒ってないし別に今も怒ってない。……それに……」
「……何ですか」
「……いや、やっぱ寝るわ」
「は」
名字先輩が何か言いかけた瞬間、難しい顔をして黙ると俺にスナック菓子のカップを押し付けて目を閉じた。
寝るって、アンタこんな場所で寝られるわけないだろ。そう思ったけど腕を組んで頑なに目をぎゅっと閉じている姿が何だか少し可笑しくて、俺は少しだけ笑ってしまう。俺と何か話したいくせに、何を話せばいいかわからないらしい。……小学生かよ。
黙ってそのまま寝たふりを続ける名字先輩を横目に、俺も黙って外の景色を眺め続けた。
マイクロバスは高速を降りて小田原から箱根山へと綺麗に舗装された道を進んで行く。もう少しで着くか、なんて思いながら今一度隣に座る名字先輩を見つめるとさっきまでの難しい表情は形を潜めて、あどけなさすら感じる力の抜けた顔をしていて拍子抜けした。
「……」
まさか本当に寝てる?
あの名字先輩が?
人の気配があると絶対に眠れないのに?
だが小さな寝息が聞こえる。もし狸寝入りじゃないなら、なんて思って顔を覗き込んだ瞬間だった。
「何」
ぱち、と名字先輩の瞼が上がって視線が合う。
「……あ」
「ん、ここどこ」
「……小田原から、箱根向かってるとこ」
「まじか」
名字先輩は眉間を指で押さえると、数回瞬きして自分でも驚いた様子で腕時計を確認していた。
嘘だろ。まさか、本当に寝てた?俺の隣で?
「やっと起きた?てか男同士で何イチャついてんのよ」
そこで突如として頭上から喧しい声が降って来て俺は顔を上げる。釘崎だった。
「……俺達超仲良しだから。なー?恵」
「……」
「伏黒嫌がってますけど?」
態とらしく名字先輩が戯けて俺の腕に手を回してもたれかかってきた。逃げるように窓の方に俺が身体を逸らすと、「おい逃げんなって」と言われて反射的に舌打ちをすると名字先輩も舌打ちをする。
「暇だからババ抜きしません?私トランプ持ってきてるんです、真希さんも一緒に、ね?」
「でももう着くんじゃねえの?」
「まだ30分くらいかかるでしょ。ババ抜きイヤならジジ抜きでもいいわよ」
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