「じゃあ、各自部屋に荷物置いたらロビーに集合でよろぴく〜!今からトレイルランニングだよ♡」

五条先生は旅館につくなり意気揚々とそう言ってのけると、俺達に各部屋の鍵を渡して自分もさっさと部屋へと行ってしまった。
ババ抜きで釘崎をコテンパンにした名字先輩は小さめのスーツケースを引きながら「部屋どこ?」と俺の手元を覗き込んでくる。そうだ、よく考えたら俺は名字先輩と同じ部屋だった。今日から2泊3日、この人と同じ部屋で過ごすわけだ。……大丈夫か、俺。

「302号室らしいです」
「んーじゃあめんどいし階段で行くか」

小規模な旅館なのか、多分五条先生のマネーパワーで貸切にしたせいもあって宿泊客は俺たちしか居ない。というかパンダ先輩がいる時点で貸切にせざるを得ない。だってパンダだし。
名字先輩はバックパックを背負うとスーツケースを軽々持ち上げて、エレベーターではなく階段へ向かうので俺もその後に続いた。

部屋は和洋室というやつで、琉球畳に低めのベッドが二つ並んでいて、それなりに広さもある。ご丁寧に部屋風呂付きで、どうやら源泉掛け流しらしい。……無駄に設備が豪華だ。
冷蔵庫には自由に飲んでいい水やお茶が入っていて、名字先輩は早速それに口をつけていた。

「恵ベッドどっちがいい」
「どっちでも」
「じゃあ一緒に寝る?」
「……は?」
「冗談。窓際譲ってやるよ、俺こっちね」

俺の返事も聞かずに名字先輩は部屋側のベッドに腰掛けて長い足を組むと、スマホをいじり始めた。

「気温24度だって。涼しい〜さすが箱根。午後の天気は曇りか。雨降らないといいけど」

アプリで天気を確認しているらしい。ぼふ、と音を立ててベッドに仰向けに寝そべる姿を横目に、俺は黙ったまま自分の荷物を軽く整理して、窓際のベッドにこれから使うであろうタオルや着替えを準備する。先生の口ぶりからしてすぐにロビーに向かった方が良さそうだった。とりあえず動きやすいジャージに着替えるか、と服を脱ごうとした時だった。

「うわ、タオル忘れた。恵予備持ってる?」

呼ばれて顔を上げると上裸の名字先輩が俺を背後から覗き込んでいた。っ……だから何で気配消すんだよ。つーかもう服脱いでんのかよ早いな。思ったよりも随分近い距離にいる名字先輩にどきどきしながら「一応あります」と素直に応えると「助かるー」と軽く返されて俯いた。意識してるのってやっぱ俺だけか……?

「ありがと」
「……いえ」

名前さんは俺が投げたタオルをキャッチすると、動きやすいジャージの袖に腕を通していた。する、と割れた腹筋が隠れてホッとする。まだ心臓がうるさい。落ち着くんだ、落ち着けって。
自分でも自分自身の様子が少しおかしいという自覚はある。耳が熱くなるのを感じて名字先輩に背を向けて着替えようと服を脱ぐ。

「あのさぁ、お前がどう思ってるかは知んないけど、俺は本当に怒ってないよ」
「……!」
「それより恵と普通に話せないのがつまんないってずっと思ってる」

そんなことを言われると思わず固まってしまう。
何と返せばいいか分からずに俺もジャージに袖を通してから黙ったまま振り向くと、名字先輩は困ったように笑って「待って、その顔かわいー」と言った。意味わかんねぇ、この自己中男。つーか俺は別に可愛くない。何なんだ急に。

「バスの話の続き。えーと……つまり、俺が悪かった。ごめんな」
「……」
「だから恵ももう怒んないで。仲直りしよ」

そう言って名字先輩はぽんぽんと俺の頭を撫でた。そのまま自然な流れで抱き寄せられて名字先輩の肩に顔を埋める。いや待て、今俺……ハグされてる、よな。……何で?
混乱して頭の中がぐるぐるした。普通に話せないのがつまんない、ごめんな、仲直りしよ、というワードが頭の中を駆け巡る。仲直り、そうだ。ギクシャクするのが嫌だから仲直りしようって、そういう、意味だ。……多分。つまりそれは以前の先輩と後輩に戻ろうって、そういうことだ。だからその、やっぱりそれは俺の気持ちには応えられないっていうこと。
そう解釈して、ずきんとまた胸が痛んだ。だけど名字先輩に腕を回しそうになるのだけは何とか耐えた。

「……は、い」
「……恵はもう俺にぎゅってしてくんないんだね」

名字先輩は少し寂しそうに笑ってそう言うと、もう一度俺の頭を撫でて身体を離した。触れていた箇所が熱い。まだ心の奥では名字先輩を強く求めてるのに、手を伸ばすのに躊躇してしまう。仲直り、なんて。そんなことしたって俺の気持ちに救いはないのに。
――いや、でも名字先輩は俺とまだ普通に話したいと思ってくれているのか。それは嬉しいけど、胸の奥がじくじくと痛む。何も言えなくて俺は黙りこくった。

「まいいや、この続きは後で話そう」
「……」

名字先輩はそう言うと俺が貸したタオルを手に持ってチラリとドアの方を見た。……続き?この話に続きなんかあるのか?そう疑問を抱いたところで、名字先輩が後ろのドアを指差すので釣られてそちらを見る。

「そろそろ五条先生くるぜ」
「え」
「俺たちがヤラシいことしてないか見にくるに100円」

コンコンコンコン!!!!と勢いよくノックされて俺は思わず肩を震わせた。まるで示し合わせていたかのようなタイミングにゾッとする。

「名前ー!恵ー!遅いよー!!エッチなことしてる?!ちょっと先生に見せなさーい!」
「してるしてるー、ほら恵100円寄越せ」
「してません!」

俺が慌てて部屋のドアを開けると、サングラスを掛けた五条先生がニヤニヤしながら立っていた。
振り向くと名字先輩がベッドに座ってそんな俺を見上げて可笑しそうに笑っている。――やっぱり最悪だ、この二人。










トレイルランニングは控えめに言っても地獄だった。
いきなりプロの走るコースを夕方までに走り終えて帰って来いという五条先生の鬼のような指示に、釘崎は序盤からブチギレ、狗巻先輩はしょんぼりして、名字先輩は「これよりセックスした方が運動効率が〜」と独自の解説を下ネタまじりに始めてスタート前に真希さんに思い切り殴られていた。
俺はパンダ先輩にそもそもトレイルランニングとは何ぞやと聞かれて説明をしていると、陸上競技用のピストルを天に向けた五条先生からスタートの合図が出されてしまった。そのせいでパンダ先輩は多分トレイルランニングが何なのか知らないまま走っている。

「恵もうバテてんの?」
「…っいや、別に……」
「まだ序盤も序盤だぜ?おんぶしてやろうか?抱っこの方がいい?」
「…っ…結構です」
「そ?息乱れてっけど」

"恵と普通に話せないのがつまんない"と言ってから、名字先輩は以前のように普通に話しかけてくる。やっぱり告白する以前の、仲の良い先輩と後輩に戻りたいということなのだろうか。戻れるなら戻りたい、俺だってそう思ってるけど……。

ぐずぐず悩みながら走っていると名字先輩は余裕の様子で俺に並んで声を掛けてくる。全然息が乱れていない。何でだよクソ、少しくらい余裕なくなれよ。つーか走ってる時に話しかけてくるな。
ニコニコして笑いながら名字先輩は「じゃあ俺先行くわー」と手を振ると、スピードを上げてさっさと先に進んで行ってしまう。その時初めて名字先輩は手を抜いて俺と一緒に走ってくれていたんだと気付いて、イラっとしてしまった。

「待て名前!」
「待たねーよ、ついてきてみなー」

決められたコースを走っていると2年の先輩達との体力差が明らかになり、俺は勿論釘崎が辛そうだった。特に真希さんと名字先輩のスピードと体力は凄まじい。真希さんにあっかんべーとおどけて見せる名字先輩と、その名字先輩を意地で追いかける真希さん。二人の姿はあっという間に見えなくなり、トップ二人についていくことを俺は早々に諦めた。とりあえず五条先生に言われた通り、夕方までになるべく早くこのコースを走り切ることに目標を切り替えよう。
あとは体力を温存しながら走る狗巻先輩、パンダ先輩、俺、釘崎、という順で走っていたのだが。

「おー、恵が3番か」
「……他に来てないんですか?」
「俺が1位で真希が2位、で、今来た恵が3位」
「狗巻先輩が先に行ったと思ってたんですけど…?パンダ先輩は多分迷子です」
「じゃあ棘も迷子じゃね?あーあ、後輩に2年鈍臭いと思われてんぞ真希」
「私は鈍臭くねぇ」
「俺も鈍臭くねぇし」
「憂太はちょっと鈍臭いとこあるけどな」
「じゃあやっぱ2年は3対2で鈍臭いじゃん」
「私は鈍臭くねぇ」
「いやだから俺も鈍臭くないし」

どれくらい走っていたか分からないが、日が暮れる前には俺もどうにかゴール地点に到着。先に着いていた名字先輩と真希さんが胡座をかいて何故か二人で大富豪をしていて俺は何とも言えない気持ちになりながら「お疲れ様サマンサ!」と手書きで書かれたメモのそばにあるスポーツドリンクを一本貰った。

「五条先生は?」
「何か任務行ってくるって」
「……今ですか?」
「うん。大変だよな、合宿の引率中に。まあでもあの人瞬間移動出来るから。恵疲れてるなら先部屋戻って休んでてもいいよ。日没までに帰って来ない奴いたら俺と真希でピックアップしてこいって五条先生に言われてるから、そんで俺らは待機してるだけ」
「…じゃあ俺も、待っときます」
「あっそう。はい次真希、ジョーカー持ってるだろお前」
「ん」
「はいスペ3返しー!からの革命〜!」
「うぜー!!!!」

妙に盛り上がる二人を他所目に俺がもう一口スポーツドリンクを飲むと、へとへとの様子の釘崎と狗巻先輩がこちらに走ってくるのが見えた。パンダ先輩はやはり迷子になっているらしい。











「確かに妙なモン入れるなっつったけど、皆ヒヨって肉入れすぎだろ」
「鍋ってか肉煮込になってましたね」
「肉しか入ってなかったもんな。最後の雑炊が最高に美味かったからいいけどさ」

トレイルランニングで迷子になったパンダ先輩は無事名字先輩におぶられて帰還した。山の中で迷子になった挙句、鹿の群れに囲まれてしまい怖くて泣いていたらしい。
その間、他の生徒と五条先生で闇鍋の準備をしていたのだが、参加者全員が保身に入ったおかげもあって和風出汁と肉しか入っていない謎の肉煮込み料理が出来てしまった始末だ。
おかげで覚悟していたよりもむしろ出来は良く、最後の雑炊まで先輩の言う通り美味かったので俺も腹がいっぱいだった。

「明日何時起きだっけ」
「6時半集合なんで、6時とかっすか」
「早すぎん?」

頭の後ろで手を組みながらめんどくさそうに先輩は小さく欠伸をした。闇鍋を終えて各自解散、就寝は一応22時だが明日の朝までは実質自由時間だ。釘崎は真希さんと2人で女子会を始めるらしくさっさと部屋に戻ってしまった。パンダ先輩は部屋で狗巻先輩とゲームをするらしい。名字先輩はそういえばどうするのか、と思いながらも何となく聞けず、同部屋ということもあって2人で並んで廊下を歩きながらとりあえず自室に向かっている。まあこの分だとこの人も部屋には戻るんだろう。後でパンダ先輩達に合流するのかもしれない。なら俺は部屋で読書でもしながらゆっくり休むか。

「恵この後どうすんの」
「どうって、部屋戻って休みますけど」
「……」
「何すか」

ポケットに入れていた部屋の鍵を取り出しながら先輩の言葉にそう返す。名字先輩は何か考えるような素振りを見せて「ふーん」と言うと俺について来た。……何だ?今の。
部屋に着いて鍵を開けてドアを開こうとすると、背後から先輩の手が伸びて来て固まる。ドアノブを握る俺の手に名字先輩の手が重ねられていてどくんと心臓が跳ねた。触れた箇所が熱い。

「……あ、の」
「……今から大事な話していい?」

ぴったり背中にくっつくように名字先輩が身体を寄せてきて、どくどくどくと喧しく脈打つ俺の心臓の音が聞こえてしまいそうだった。近い。近すぎる。……ここは廊下だ。こんな状況、誰かに見られたら。
ドアノブを捻ってドアを開けようにも、先輩に手を握られていて動かない。痛みはないけど力で押さえつけられていた。腕が、捻れない。何でこんなことをするんだ。

「……いいよな?」

耳元で小さくそう囁かれて俺は自分の耳が一気に熱くなるのを感じた。先輩の匂い。あの、いつもの香水の匂いが鼻腔をくすぐる。

「いいから……手、離してください」
「ん」

俺の言葉に先輩の手があっさり離される。軽くなった手は簡単にドアノブを捻ってドアを開けた。大事な話って何だ、っていうか何で今更こんなことを……とぐるぐると頭の中で回る疑問に思考が囚われる。名字先輩と相部屋になってから俺はずっとおかしい。
一歩室内に足を踏み入れた瞬間、軽く背中を押されて名字先輩も部屋に入ってきた。がちゃん、とドアを閉める音の後、すぐにかちりと内鍵を閉める音がやけに響いた。
大事な話って何ですか、と振り返って俺が口を開こうとした瞬間だった。

「恵」

ぎゅう、とまた背後から先輩の腕が回ってくる。部屋は薄暗く、ドレープカーテンを閉め忘れているせいで部屋の奥の窓のレースカーテンは真っ暗な夜の闇を映しているだけだ。
俺の腰に腕を回して肩に顎を乗せる名字先輩。また何かの悪ふざけかと思ったが、先輩が俺の名前を呼んだ声が少し掠れて震えていたような気さえして、俺は何も言えなかった。

「……ごめん、大事な話しなきゃ」

先輩は意を決したように小さく息を吐くと、そっと俺から離れた。ぽんぽんと俺の頭を撫でてそのまま照明のスイッチを押すと、名字先輩は部屋の中へと入っていく。……背中の温もりが名残惜しい。

「大事な話って、何ですか」

備え付けの冷蔵庫に入れていたミネラルウォーターを手に取る名字先輩。そのままベッドに腰掛けて一口飲むのを見て、俺はそばのソファに座った。

「まずは俺の出自の話からいこうか」
「…?」
「何から話すかな。……結論からいくか。俺の名字って名字は、実は通名なんだよね」
「通名?」
「そう。名字ってのは俺の母親の方の名字なの。でも俺は父親の方の戸籍に入ってるから本当の名字は違う」
「……」
「俺の本名は、禪院名前って言うんだ」





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