「あーいったいわ……直哉の奴、思いっ切りやりよって……あ、真依」

名前と私は二つの秘密を共有している。彼はもう覚えていないかもしれないけど。

それは14歳になる歳の夏だった。
台所でグラスにお茶を淹れてお盆に乗せていると、見知った声に私は顔を上げた。従兄弟の名前がぼろぼろの姿で現れたから。
名前は道着姿だった。袖から覗く腕はアザだらけで、頬も赤く腫れている。恐らく腹違いの兄である直哉に絞られたのだろう、というのは容易に想像出来て私は肩をすくめた。

「またやられたの?」
「アイツ俺に容赦なさすぎるんやて。真依もそう思うやろ?」

名前はそう言うと浅葱色に蝶の刺繍が入った手拭いで何でもないと言うように額の汗を拭った。……私が、随分前に彼の誕生日に贈ったものだった。使ってくれているなんて思わなくて固まって見ていると「どないしたん?」と返されて首を振る。さらりと揺れる亜麻色に目を奪われぬように、「別に」と適当に返してグラスにお茶を注ぐことになるべく集中する。
「そういや宿題終わった?」と聞かれて「終わったけど名前には見せないわよ」と言うと「ケチ」と唇を尖らせる。真希も私も名前も同じ中学に通っていて、不思議なことに一度も同じクラスになったことがない。でも夏休みの宿題の内容は同じだから、結局8月31日になると名前に宿題を見せてあげることになっていた。毎年宿題をやらない名前に真希はいつも怒っていて、それでも泣きついてくる名前を無視できない私は結局彼の宿題を手伝ってしまう。全部片付けた後、とびきりの笑顔で「ありがとう!真依のおかげで助かったわぁ」と言われるだけで私の気持ちはチャラになってしまうんだもの。

「腹減ったー、食うもんある?」
「知らない」
「あ、プリンあるやん。蘭太って名前書いてるし食ってええかな」
「ダメでしょ、蘭太さんのじゃないの」
「あの人俺に絶対怒らへんから大丈夫やろ。てか直哉が食ったことにしとこうや、ムカつくし」

にやりと笑って「真依も口裏合わせてや」と勝手に私を共犯者に仕立て上げる名前にため息を吐いた。名前はプリンを何の躊躇いもなく開封すると、一緒に置いていたプラスチックのスプーンで掬い上げて私の顔の前に持ってくる。

「ん」
「……何で私に」
「真依も食わな、共犯にならへんやん」

だから勝手なことやめてよ、と言う前に名前の指が私の顎に触れる。

「ほーら、早よぉ」
「ちょっと、」

何するの、と抗議しようとした瞬間、開いた口につるんと柔らかいプリンを押し込まれて私は口を噤んだ。甘ったるいカラメルとプリンの味が口の中に広がって慌てて飲み込む。

「これで真依も蘭太さんのプリン勝手に食べたことになるな。はい、共犯」
「っ〜!」

そう言って名前はケラケラ笑った。私が口をつけたスプーンでそのままプリンを食べ始めるのを見て何とも言えない気持ちになる。
名前は中学に入ってからすぐ声変わりもして、背も随分伸びた。小学生の時は私よりチビで女の子と間違えられることが多かったくせに、身長はあっという間に抜かされて今は見下ろされている。珍しい髪色に整った容姿で目立っていたし、誰とでもすぐ仲良くなってしまうから、とにかく学校ではモテにモテていた。だというのに、中身はいつまでも子どもだ。

「あー……うっまー……♡」

それはさておき、名前はさすが当主の直毘人叔父様の遺伝子を受け継いでいるおかげもあって、私と同じ歳なのにタフで能天気で"強い男"だった。妾の子という事実から幼少期は腫れ物扱いだったのに性格だけは歪んでいないのだから。……ネガティブで陰気な私とは大違いよ。
俺にもお茶ちょーだい、と笑いながら私が用意したお盆のお茶を勝手に飲み始める姿に思わず口をへの字に曲げる。父親に言われてお茶出しをするところだった私はまた新たにもう一つグラスを取り出す羽目になった。

「懲りないのね」
「直哉のこと?まぁ俺のこと目の敵にしとるからなぁ」
「違うわよ、アンタの方」
「俺?」
「そんな目に遭うってわかって、それでも稽古に励むんだから」
「あー」

私には皆目理解出来ない。それは自分が女で、忌子と言われる双子の片割れだから。禪院家で落馬者として始まった私の人生は、同じく双子の片割れである真希によって努力せざるを得ない事態となった。真希は呪霊が見えないしほとんど呪力のない体質にも関わらず、術師としての道を歩むと決めてしまった。真希が頑張るなら私だって頑張らないといけない。だから仕方なく、でも真希と同じように血の滲む努力をしてなんとか構築術式を扱えるようになった。けど。

「名前はそんなことする必要ないでしょ」

そう、必要ない。この男は私と違って、術式を生まれながらに持っていて、そして妾の子とは言え禪院家の当主の血を受け継ぐ"男子"なのだ。既にある程度の立場は用意されているし、家としても名前を無視できないことは大人たちの反応を見ればわかる。――炳の最年少メンバーに抜擢されているのが良い例よ。
躯倶留隊や灯の面々は名前のことを"親父のコネ"だとか"妾の子のくせに"と陰で揶揄するが、それは一重に彼への嫉妬と羨望であるというのは私ですら見ていてわかる。
それら全て理解していて尚この男は、ヘラヘラした態度で毎日稽古に臨み、理不尽な兄の暴力に日々耐えているのだから大したものだとは思う。

「そうなんかな。俺はそうは思わんけど」
「……?」
「兄さん方が俺をどう思ってるとか、親父がどうとか、血筋がどうとか、そんなん関係ない。俺は死ぬまで楽しく、何も縛られずに生きていきたいだけ。そのためには力がいる」
「……」
「だから稽古もするし。直哉はあんなんやけど、実際勉強になる部分もあるしなぁ。ほんまに強いやん、直哉って」

そう言ってにっこり笑う名前に私は何も言えなかった。眩しい。この男は、この陰鬱な禪院家であまりにも眩しすぎる。名前はご馳走さん、とグラスのお茶を飲み干すと、シンクでグラスを丁寧に洗って専用の布巾で拭いて食器棚に仕舞った。
禪院家の男が誰一人やらないその行為をごく自然にやってのけると、「ほな俺行くわ」とまた傷だらけの顔で笑って台所から去っていく。
名前は靴も自分で履くし、袴も自分で着付ける。食事の後は自分で皿も下げるし、洗濯物だって畳む。
禪院家の男が誰一人やらない家事を、それは女の仕事だと見下している男達と違い、名前はごく自然にやる。それが当たり前だとでも言うように。名前がそうする姿を見るたびに、私の胸の奥はいつも少しだけ柔らかく温かくなる。私のことも真希のことも蔑んだりしない、そしてそのことで禪院家の男達にいびられたとしても笑って流す名前を見る度に。

「……」

これが初恋だと言わずして何だと言うんだろう。今日も少しだけ話せた、なんてこんな地獄みたいな家で彼を目で追う私を、真希は笑うかしら。まだ少しだけ速い心臓の鼓動を抑えるために一つ深呼吸をして、新たに取り出したグラスにお茶を注ぎお盆に乗せると私も台所を出た。口の中にはまだカラメルの味が残っている。

その翌日だった。名前の実の母親が亡くなったのは。











葬儀は直葬で執り行われたらしい。火葬と初七日法要が終わり、真っ黒な紋付袴を着た名前が家に戻ってきた時、見たこともない冷たい目をしていて少し怖かった。
その日から数日、一応身内の不幸ということで学校を休むことになったけれど私の過ごし方は休日とさして変わらなかった。葬儀も何もかもごく近い親族――つまりは直毘人叔父様と名前、そして恐らく故人の血筋の方のみで行われたから。

葬儀から戻った当主を迎えるため、手の空いている女達は玄関で待っていて私もそのうちの一人だった。
名前は直毘人叔父様と一緒に送迎の真っ黒なセダンから降りると、一言二言何か言葉を交わしてから唇を一文字に結んだ。いつもの饒舌でヘラヘラした態度とは打って変わって暗い表情の名前は、玄関で自分で雪駄を脱ぐと、黙って回廊を抜ける。

「残念やったなぁ」

何となく気になって、でも声をかける勇気も、そもそも何と声をかけたらいいかもわからなくて。気付けば後をつけるような形で名前の背中を追っていた。しかし曲がり角で聞き覚えのある声がして私は思わず足を止める。

「こないに早よに亡くなるなんて。ちょっと前までピンピンしてはったやろ?」
「……」
「ママが死んで悲しいなぁ、名前。えらい可哀想に」

――直哉だ。
やっぱりコイツは最悪。母親が亡くなってすぐの、歳の離れた腹違いの弟に浴びせる嫌味とは思えない。何か言って加勢したい気持ちとは裏腹に、私の足はそれ以上動かなかった。……そんなことしたって何も変わらない。怖い。力でも口でも、直哉に敵うわけない。私が酷い目に遭うか、名前がもっと悲しい気持ちになるか。いいえ、その両方に決まってる。

「退け」

どうしよう、と固まっていると名前が少し低い声でそう言うのが聞こえて顔を上げる。

「あ?」
「邪魔だから退けっつってんだよ。お前耳聞こえてねーのか」

思えば名前はいつも人懐っこい笑みと柔らかい京都弁で人の懐に入るのが上手かった。だから彼は京都弁しか話せないんだと勝手に思い込んでいた。
だが今の名前は標準語で吐き捨てる。そんな風に話せたなんて私は今の今まで知らなかった。

「……誰にそんな口きいてんねん」
「しっかり聞こえてんじゃねーか」
「お口の悪い子にはちゃんとわからせなあかんな」

やめて、と私の口から出る前に凄まじい衝撃で床が揺れて私はその場に蹲った。何、と顔を上げると名前が回廊の突き当たりで直哉の手首を握って捻っていた。

「退けって言ってんだよ」
「……生意気やるやん、名前」
「お前と話すことなんて何もない。親父とも話はついてる。……退け」

親父、という名前の言葉に直哉は手を離した。直哉が唯一逆らえない相手が、直毘人叔父様だ。喧嘩は終わったのかしら、と半ば怯えながら二人の様子を障子の影から伺う。

名前はもう一度退け、と直哉に吐き捨てると、見向きもせずにその場を立ち去った。ただの兄弟喧嘩だと思えないくらいの殺気だった。怖い、と思った。名前のことを生まれて初めて怖いと思った。私の知っている、ヘラヘラして優しくて、狡い名前はどこに行ってしまったんだろう。

その数日後、名前は荷物をまとめて禪院の家を出たと聞いた。東京に行ったのだという。学校も辞めていた。……私にも真希にもお別れの言葉はなかった。同い年で仲が良いと思っていたから、突然いなくなったことには驚きと、残念さと、少しだけ名前を責めたいような気持ちもあった。
――結局貴方は、この家から逃げるのね。
その日から心の中にぽっかりと穴が空いたようで、私の胸の奥のあの柔らかい温かさはなくなってしまった。










「おう、久しぶりー」

次に名前に会ったのは騒動の翌年だった。
夕方、涼しくなった時間を見計らって掃き掃除をしていると、裏口から入ってきたのであろう名前は「京都やっぱあちーな」と言いながら真っ黒なスーツのジャケットから手を抜いた。背が伸びて一段と男らしくなった姿に私は途端に目を奪われる。

「……え、名前?」
「うん。元気してた?」

あまりの突然のことに私が固まると、名前は少し笑った後「ごめんごめん」と謝ってワイシャツの腕をまくりながら縁側に腰掛ける。一瞬見間違いかと思ったが、間違いなく名前で私は呆然としてしまった。

「連絡何もしなくてごめんな。今日母さんの一回忌でさ」
「……そう、だったの」
「うん。寺で法要してもらった。てか相変わらず陰気臭いねこの家」

――ああ、だから真っ黒なスーツなのか。
東京に行ったとだけ聞いて、家の者は誰も(直哉すらも)彼について言及しなかったから私は彼がどうしているのかなんて本当に知らなかった。

「東京に行ったって聞いたわ」
「うん、今は向こうに住んでるよ」
「いつも急なんだから」
「そう言うなよ。俺は真依に会いたかったんだぜ」

名前の言葉に掃き掃除をしていた手を止める。
くるりと振り向いて縁側に座る名前を見ると首を傾げて微笑んでいた。そう、貴方はいつもそうやって、私が欲しい言葉をくれる。私と二人の時はあまり真希の話をしないの。私だけと向き合って話してくれているから。

「……そう」
「本当は気付いてたんだ、あの時真依が心配して俺の後ついてきてくれてるって。でもなんか……余裕なくてさ。怖いとこ見せちゃってごめんね。あと心配してくれてありがとな」

すっかり標準語でそう話す姿は、私の知ってる名前とは随分違っていて、何だか知らない大人の男の人みたいに思えた。

「それから、何も言わずにいなくなってごめん」
「……」
「俺さ、来年から東京の呪術高専通うんだ。そっちに家も買った。だからもう、用事がない限りここには戻らないと思う」
「……叔父様はそれでいいって?」
「うん。好きにしろだって。なんだっけ?甚爾さんの子ども?見つかってちゃんとご縁続いてるんだろ。そっちにご執心で俺のことはそんなに興味ないんだよ。俺としちゃ助かる」

そう言って笑う名前にぎゅっと胸の奥が締め付けられる。可哀想、なんて思うのも失礼かもしれない。でも名前は可哀想だった。母親を殺されて、父親にも愛されず、それでもすべきことのためであったり、何か言いつけられたら素直にこの家に帰ってくる。出奔、と言うと身勝手な気もするが彼がそうするだけの理由はもうとうに揃っていた。
だから言う気もないのに言ってしまった。こんなの、私のエゴで、ただの傷の舐め合いでしかないのに。

「……プリン、あるわよ」
「え?」
「私の部屋に。食べる?」
「いや別に腹減ってねーし、真依の分だろ」
「食べないなら蘭太さんのプリン食べたこと、本人に言うから」

私がそう言うと名前は少しだけ驚いたような顔でぱちぱちと瞬きした後「それは困る」と眉を下げて笑った。
我ながら酷い誘い文句だったと思う。










「行かないで」
「真依、どしたの」
「……行かないでよ」

自分が一人の男にこんなに執着していたなんて知らなかった。
名前は淡い初恋の相手で、彼は彼の事情で遠くに行く道を選んだ。それだけなのに。

私は自分にあてがわれた部屋に名前を連れて行った。自分の部屋に男の人をいれるなんて初めてだった。プリンは口実だ。部屋にない。あの日、彼と共犯で食べたカラメルの味を今もずっと忘れられずにいただけ。

「置いて行かないで」
「……真依、落ち着いて」

部屋に連れて入るなり、私は駄々っ子のように名前に抱き付いた。どう思われても良かった。名前はもうこの家には帰ってこない。昔みたいに一緒に暮らすことはない。……地獄みたいなここを、明るく照らしてはくれない。そう思うと辛くて、情けなく縋ることしかできなかった。
そんな私を見て彼も何か思ったらしく、私を無理に引き剥がそうとしたりはしなかった。名前はいつも優しい。優しいから、好きなの。

「大丈夫?何かしんどいことあった?」

プリンのことなんか多分すっかり忘れて、名前は私の背中をとんとんと優しく撫でる。どうしていなくなってしまうの?どうして、どうして、どうして?名前と真希がいるから、私は頑張れていたのに。

「真希も、来年から東京の高専に通うって……」
「え、そうなの?」
「だから……」
「じゃあ真依も来ればいいじゃん、一緒に東京で、」
「無理よ」

名前の胸に顔を埋めて首を振る。無理よ、無理よ。真希は私と一緒に行こうって言ってくれなかった。一人で、家出覚悟で叔父様に話をつけに行ってしまった。私と一緒に行く気はないのよ。私は真希にとって足手纏いなのよ。なのに着いていって、真希にも名前にも追い抜かれていくなんて惨めじゃない……!

「……お前さ、」
「無理よ……真希に私は必要ないの。名前にも、私は必要ないでしょ。私は誰にも必要とされてない……!」
「……他人にとって必要かどうかで自分の価値決めてんじゃねーよ」

名前にそこまで言われて黙り込む。けど同意はしない。それは詭弁だ。必要とされる人間、自ら強い意志を持つ人間、才能を持ち得る人間が言う結果論であって、私みたいな甘ったれの半端者には通用しない。――私は何者にもなれないんだから。

「真依は真依らしく生きなよ」

名前はそう言うと私の肩に手を添えてそっと身体を離した。私は俯いたまま何も言えなかった。

そう、この男はきっとどんなに私が迫ったって私に手を出さない。名前は優しいから。名前は私のことを大切だと思ってくれている。でもそれは従姉妹として。女としては、見られていない。

「っとにネガティブっつーか、まあそこが真依の可愛いとこではあるんだけども」
「名前」
「あん?どしたん」
「キスして」

私の言葉に名前はぽかんとしている。
まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのだろうけど、名前の鳩が豆鉄砲を食ったような顔は珍しかった。

「き、きす?」
「してよ。最後、だし」
「何で?」
「……言わせるの?」

いじらしく名前を見つめると、それだけで察しの良い彼は意味を理解したらしかった。自分で自分にゾッとする。男だ女だと役割を求められる禪院家で、自分は心底女だった。私は今、"女"を使って名前に縋りついているのだから。
本当言うと落ちぶれていきたい。頑張りたくない。私には真希がいれば良かった。でもいなくなってしまう。真希がいなくても、名前がいてくれたら耐えられるかもしれない。でも、名前もいなくなってしまう。二人とも私を置いていく。
名前に今彼女がいるのかどうかなんて知らない。居ても居なくてもいい。どうせ私と彼が結ばれることなんてあり得ないんだから。彼にとっての浮気相手でも、気まぐれの遊び相手でもいい。――でも私の初めては、名前が良い。

ヒステリックを起こして抱き付いて縋って挙句キスしてなんて、私って地雷女なのかしら。めんどくさいって思われてるかも、と思ったけど名前は少しだけ黙って何か考えるように私をじっと見つめるだけ。

「そういうのは本当に好きな人とした方がいいよ」
「じゃあ私が名前のこと本当に好きって言ったら、どうするの」

賭けだった。もう私と名前の関係はこれで壊れてしまうかもしれない。でも真希も名前も私を置いて行く。離れていってしまう。それなら、壊れてしまっても同じよ。だってもう、名前も真希も、きっと帰ってきてはくれないんだもの。

「いとこ同士でも、結婚は出来るのよ」

最後の一押しとばかりに私が縋ると、名前はため息を吐いた後に私の身体をぎゅうと抱き寄せてくれた。まさかそうされるとは思っていなくて固まると、名前が慣れた手つきで私の頬を撫でた後に指で顎をくいっと上げさせる。
視線が合う。名前の優しい瞳が私を真っ直ぐ見ていた。

「煽りすぎ。……知らねーぞ、わがまま女」

どうしよう、と考える間も無く名前の唇が近づいてきて、私のに重なる。初めてのキスだった。ちゅ、ちゅう、と音を立てて唇を啄まれる。驚きで動けないでいるとはむ、と下唇を挟んで吸われて頬が熱くなる。

「キスする時は目閉じるんだよ」

そう言われて慌てて目を閉じるとより唇の感触を生々しく感じてしまって、いけないことをしている気分だった。
私は心底女だけど、名前もしっかり男になっていた。1年前最後に見た恐ろしい彼が、こんないやらしい顔で私にキスをするなんて。……こんなの、名前は一体どこで覚えてきたの?

「名前……っ」
「ん」

キスの合間に感じる吐息にドキドキする。私が名前の胸に手をついて必死に応えると、名前も私の頸を撫でた後、頭に手を添えて何度も何度も口付けてくる。柔らかい。温かい。――これが欲しい。
私が薄っすら目を開けて名前の亜麻色の髪に指を絡めると、名前が少しだけ笑った。笑って、私の手に彼の手が重なる。

触れた箇所が熱くて、頭がぼーっとしてくる。
でも名前は触れるだけのキスを繰り返すだけで、舌を入れようとか吸いつこうとかそんな下品なことはしなかった。少し焦れったく思って閉じていた瞼を開けると、視線がかち合う。

「もっとしたい?」
「……」
「……ベッド行く?」

何度も唇を啄まれてくらくらして一人で立っていられなくなった頃、名前は私の腰を支えて顔を覗き込んできた。ベッドですることがどういうことなのか、知らないわけではない。そうなることを考えて妙な高揚感と同時に寒気が背筋を走った。
名前は私を抱くの?そんなことを、彼にさせるの?
彼は私を愛しているわけじゃないのに?

「……私、」
「ごめん、そうは言ったけど真依のことはやっぱり抱けない。……多分、真依が本当に好きなのは俺じゃない」
「……」
「真依は真依らしく生きなよ。自分の人生の意味は自分で決めな」

名前はそう言うと私のおでこにそっと口付けて頭を撫でた後、身体を離した。これが、私が彼と共有した二つ目の秘密。

「あとさ、こういうこと誰にでもすんなよ。俺だからめちゃくちゃ我慢してここでやめれたけど、他の男に迫ったらこんなんじゃ済まねーぞ」
「何よそれ、ヒヨってキスでやめただけのくせに」
「そりゃヒヨるって。……お前綺麗になったんだからさ」
「……!」

名前は少しだけ頬を赤くしてそう言うと、捲り上げていたシャツの袖を戻した。……嘘、何?まさか照れてるの?
呆然とする私をよそに黒いジャケットを羽織り直して「行くわ。またな」と言い残し彼は部屋から出て行く。またな、なんて。いつ会えるかもわからないのに。
でもその後ろ姿はやっぱり私の好きな名前で、追いかけたくなる衝動をグッと抑えて彼のいなくなった部屋で自分の唇をそっと撫でた。胸の奥が柔らかく温かくなる。この1年、ずっと埋まらなかった心の穴が少しだけ満たされた。
綺麗になった、と名前は言った。……それがどうしてこんなにも嬉しいのかしら。

――やっぱりファーストキスの相手が名前で良かった。それだけはずっと後悔してない。






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