「「あ」」
2年と合同で体術訓練、と事前に五条先生から言われた俺は、指示通り学生用のグラウンドに足を運んでいた。合同と言っても1年は俺しかいない。もう一名入学予定の女子は家のゴタゴタで入学が遅れているらしいが、それを合わせたとてたった二人だ。
既に真希さんと狗巻先輩がアップを始めており、パンダ先輩は砂場をレーキで丁寧に整えている。そんな様子をヤンキー座りで伏目がちに眺める男に、俺は眉を顰めた。棒付きキャンディを咥えながらやる気なさげな態度。一応今は授業中なんだが。
「名字……先輩」
「今呼び捨てにしようとしたろ」
「してないです」
「別にいいよ。あ、名前くんて呼んでくれてもいいぜ。呼んでみ、名前く〜ん♡って。今日もかっこいい〜♡きゃー♡名前くん抱いて〜♡好き〜♡」
「誰も言ってないですよ、そんなこと」
「冷たっ」
女たらしの不登校1級術師であるその男に、俺は口を噤む。この前は散々弱いだのめんどくせーだの罵ってきたくせに、馴れ馴れしいその態度に面食らう。…が、要するに揶揄われているんだろう。やっと入ってきた後輩の男をイジりたいとかどうせそういう低レベルな冗談だ。
この前の一件で俺の顔をすっかり覚えたらしい名字先輩はニヤニヤと笑みを浮かべながら俺の横に親しげに立つとまた肩を抱いてきた。マジで馴れ馴れしい、つーか重…と思う反面、またあの香水の香りがふわりと意識を逸らして俺は黙ってされるがままになる。……良い匂いだ。
「不登校はもうやめたんですか」
「ん?日下部先生に今からこのままのノリで行くつもりなら出席日数足りなくて留年するぞって言われたからな。嫌じゃん、お前と同じ学年とか。楽そうな授業だけ出られる日は出ることにした」
どうやらスポーツメーカーの上下ジャージに海外有名バンドのTシャツを着用しているらしい。腕まくりをしているせいでしっかりと見える腕。筋肉を見る限りそれなりに鍛えているということは伺える。俺よりも全然太いし、がっしりしている。飄々とした態度と軽口の裏腹に、この人がいかに日々努力を重ねているのかもわかって何とも言えない気持ちになった。
「体術訓練は別に楽じゃないでしょう」
「楽だよ。俺身体動かすの好きだし。あとはお前をしばき回すだけでいいんだから」
「座学も出ろよ」
俺の問いかけに名字先輩はまためんどくさそうに頭を掻くと、さらに声をかけてきた真希さんに首を振る。
「やだやだ、めんどくせぇ。真希がノート見せてくれたらいいじゃん」
「何でサボりのお前にノート見せなきゃなんねぇんだよ」
「俺とお前の仲じゃん」
「…意味わかんねぇ」
俺とお前の仲、が何を意味するのかは俺にもわからなかった。でも真希さんが一瞬だけ動揺したように見えたので、なるほどこの二人には何かあるなと確信を得た。自分はこう見えて鋭い方だ。人の感情や機微にもそれなりに敏感に反応できる。
そんな風に思っていると真希さんは呆れ顔でさっさとパンダ先輩の元へ。そこで「ねえ、」と名字先輩にまた話しかけられて俺は先輩を見上げた。
「そういや、お前出身どこだっけ」
「……埼玉っす」
「へえ。だから全然訛りないんだ。京都じゃねぇの?」
「何でそう思うんですか」
「前言ってたじゃん、真希の親戚なんだろ」
ああ、と俺が曖昧に頷くと名字先輩は不思議そうな顔で俺の顔を覗き込んでくる。禪院の血縁だから、ということだろう。
それよりも随分と距離が近い。香水の香りがよりしっかりと香って俺は目を背ける。……なんか、暑い。
「……そういや真希と顔似てんな」
「…俺の父親と真希さんがいとこ同士らしいので」
「え、そうなの?」
「まあ、会ったことないらしいですけど」
驚いたように目を丸くしながら、がりっと棒付きキャンディを齧る姿はこの前の感じの悪さとは違って何だか可愛げがある。…顔がいい人間はタチが悪い。顔だけで人の心を揺さぶることができるのだから。五条先生のお陰でその辺りは自分でも慣れている自信があったのに、この人はどうにも……。
とは言え、これはせいぜいテレビで二枚目俳優や大衆向けアイドルが視聴者やファンにサービスで甘い表情を見せるのと同じだ。この人は多分、そういうタイプの人間だし。
「…へー……そうなんだ」
名字先輩はもう一度噛み締めるようにぼそりとそう言うと、俺の肩から腕を外した。途端に軽くなる身体。
「俺、あっち方面とは疎遠だからさ。そういうの全然知らねーんだわ」
「……あっち方面?」
「御三家。だるいじゃん、あそこの人達。お前も大変だね」
「まあそうですね。……でも俺はたまたま術式が発現しただけで、別にそもそも禪院の人間ではないんで」
「あ、そう。じゃあ俺と一緒だ」
名字先輩はにんまり笑いながらそう言うと、気だるげにパンダ先輩の元へ歩いていく。「俺と一緒だ」の意味がよくわからないが、それを問い詰める間も無く名字先輩はパンダ先輩に「お前また背伸びた?」と尋ねていた。
「成長期なもんでな」
「羨ましいね。俺もお前くらいタッパ欲しいところだよ」
「名前は人間の中ではデカい方だろ?それ以上伸びると棘が悔しがる」
「おかか、こんぶ!」
「棘もまだまだ成長期じゃーん、こっから伸びる伸びる…つっても今のままでも可愛くていいと思うけど」
「…す・じ・こ?」
「えー、いいよ♡そこまで言うなら彼女になってくれよ。棘可愛いからイケる気がする。なあ今度真希の制服のスカート履いてみろよ、多分似合うぜ」
「しゃけ」
「あ、それは良いんだ」
親しげに同級生と話しているところ見るに、名字先輩は別に嫌われたりしているわけでもないらしい。不思議な人だなんて思う反面、真希さんとの距離感が微妙なのは俺の気のせいではない、と思う。
「恵、名前に気に入られてんな」
「えっ」
遠巻きに二人と一匹の様子を眺めていると、真希さんが薙刀を背負いながら俺の隣にやって来た。
気に入られている?俺が?完全に馬鹿にされているとしか思えないが、名字先輩と付き合いの長い真希さんにはそういうふうに見えるらしい。
「アイツ、見ての通り女ったらしだからさ。恵みたいなタイプは苦手そうだと勝手に思ってたんだけど。…そういやこの前任務一緒になったんだろ?」
「まあ、一緒にっつーか…」
助けられたというか。歯切れの悪い俺の答えに真希さんは「ああ、あいつ1級だから」とまるで俺の頭の中を読むように返してくる。その言葉にはどこか嫉妬が入り混じっているようなピリついた緊張感もあって、俺は黙った。
真希さんは家の都合と本人の体質の影響でまだ4級止まりだ。2級の俺を上回る体術センス、呪具の扱いの才能は誰が見てもわかるほどなのに。
「身体ってどうやったらデカくなるんですかね」
「……いっぱい食っていっぱい動いていっぱい寝ることだろ」
名字先輩を見つめながら何となく真希さんにそう問いかけると、真希さんは呆れたように息を吐いた。それはわかってる。でも食ってても体重はあまり増えないし、背は伸びているが筋肉は毎日鍛えててもあんなにつかない。お互いあの男に何かしらコンプレックスがあるのは同じようだった。
真希さんはもう一度ため息を吐くと、「おい、そろそろ始めるぞ」と二人と一匹に声をかけた。
「身長の割に体重軽すぎ。体重何キロだよ」
「60kgはあります」
「いや軽すぎるって。お前ちゃんとメシ食ってる?」
「……食ってます」
「この前もラーメン並盛りだったじゃん。大盛り食えよ」
「胃がもたれてあんなに食えないです」
「え、胃弱いの?」
呆れ顔で名字先輩は屈み込んで俺を見下ろしている。大の字に寝転んだまま俺は乱れた息を何とか整えた。名字先輩は息一つ乱れていない。たった1年しか年変わらないのに何故こんなにも体力差があるんだ?
「動きはそんなに悪くないんだけどな。なんつーか軽いんだよ、全部」
体術訓練は控えめに言っても地獄だった。真希さんの立ち回り力と違い、純粋なパワーと力技で殴ってくる名字先輩に俺が敵うはずもなく、ほぼされるがままだった。五条先生との修行を思い出してイライラ来る。
「プロテインとか飲んでる?筋肉付けたいなら鶏胸肉も食えよ。あとブロッコリー。んで牛乳飲んで、毎日風呂上がりにストレッチしろ」
「はあ…」
「動けるしなやかな筋肉つけようと思うと、身体が柔らかくないといけないわけ。だからジムで重量上げる前にお前みたいなモヤシは柔軟しっかりやること。あとメシ食うこと。以上、終わり。お疲れ様」
「……ありがとうございました」
それだけ言い放つと名字さんはポケットに突っ込んでいた手を俺に差し出したので、礼を言いながら俺も手を伸ばした。
悔しい、でも何だかんだで微妙に的確なアドバイスをされている気がする。俺に足りないのは柔軟と食事の量なのか。…弱い自分が嫌だ。くそ、と思いながら先輩の手を取ると、またすごい力で引っ張られて一気に起こされる。その場に胡座をかいて座ると、名字先輩はちらりと背後に目をやった。
パンダ先輩が真希さんと組み手をしているところだった。
「ま、もっと動きを見習うなら俺よか真希の方がいいよ。よく見てな」
俺の横に名字先輩は並んで、同じように胡座をかくと、膝に肘をついて頬杖で真希さんを見つめる。髪色と同じ亜麻色の長いまつ毛と男の割に大きくて黒目がちな瞳の横顔は絵になる。
その目が何とも言えない色を含んでいて、やはりどこか妖艶で。隣に並ぶとまた胸元からふわりとあの柔らかい香水の匂いが漂ってきて、俺の意識がそちらに持っていかれる。香水の匂いなんてクサイとしか思ったことがないのに、この人の匂いは頭がふわふわとするほどに良い香りだ。
「……恵さぁ、俺の顔そんなに好き?」
何の香りなんだろう、どこのブランドの香水なのだろうかと思案に耽っていると、名字先輩は少しだけ困ったように微笑んだ。長いまつ毛が揺れて目線だけ俺に移しているのがわかる。
「俺は真希の動きを見とけって言ったんだけど。さっきから俺の顔ばっか見過ぎだよ」
「……すみません」
そう言われて慌てて視線を逸らした。名字先輩にそう言われて自分が無意識に名字先輩の顔をずっとまじまじと眺めていたことに気付いた。……何、やってんだ俺。マジでこの人といると調子狂う。
何より、恵、と突然呼び捨てにされたことで何故か心臓が大きく跳ねた。何だこれ。別に下の名前で呼ばれることなんて珍しくないのに、何でこの人に名前を呼ばれただけで、俺は動揺しているんだ。
「ほら、今の見たろ。フェイントの入れ方が天才的だよなぁ、真希は」
「…はい」
「ああいう動きってハリウッドのアクション映画でよく見るけど、実際やると実戦向きじゃないというか、まあほぼ不可能に近いんだよね。俺みたいに図体デカいのは特にムリ」
「……はい」
「でも恵ならギリ出来るんじゃねぇかなぁ。あそこまでやれとは言わないけど、お前はデカくなることよりも棘や真希くらい動ける俊敏性のある身体を目指した方が……って聞いてる?」
「……聞いてます」
「顔赤いよ。大丈夫?疲れた?」
熱でもあんのか?なんて呑気な声で言うと名字先輩は俺の額にその大きな手で触れた。びく、と肩を震わせてしまう。「あ?」と不思議そうに名字先輩は俺の顔をまた覗き込むと、俺よりも無骨で大きな手が額を撫でてややあって離れた。
どくんどくんどくん、と心臓の音がまた喧しい。何だこれ。何なんだこの気持ちは。俺は、男に、何を、
「熱はねーな。水分補給しろよ」
くあ、と眠そうに一つ欠伸をすると、名字先輩は立ち上がって真希さんとパンダ先輩の元へポケットに手を突っ込んで歩いていく。俺は座り込んだまま、しばらくその場を動けずにいた。
おかしい。何かがおかしい。あの人に触れられるとその箇所が熱くなる。あの人の目を見ると離せなくなる。あの人の香水の香りを嗅ぐと、
「……水」
そばに転がっていた水の入ったペットボトルを手に取った。
いいや、もうやめだ。考えるな。何かの間違い、きっと勘違いだ。そうに決まっている。だって俺は男で、あの人も男で、そして何よりあの人は女が好きなんだから。
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