「おいーす」
「…おはようございます」
亜麻色のまつ毛に縁取られた目が、真っ直ぐ俺を見上げる。胸のざわめきを敢えて無視してその亜麻色に会釈して挨拶をすると、その人も片手を上げて返してくれた。
名字先輩は片目を閉じて少し笑って、読んでいた文庫本サイズの書籍に栞を挟んで閉じた。組んでいた長い足を組み替えて「座れよ」と隣に座るよう促される。
4月も末になると暖かくなってくるものだが、ゴールデンウィークを目前にした高専は山の中にあるせいか埼玉にいた頃よりもまだ随分涼しく感じる。
「で、メシ食ってるー?」
「食ってます」
二言目がそれかよ、と思いながら俺は促されるまま黙って名字先輩の隣に座った。
任務で1級術師に同行、待機室で待つように。五条先生から指示があり到着すると名字先輩が珍しく静かに読書などをしているものだから、少し驚いた。確かにこの前、さり気なく本の話を振ったら乗ってきてくれたし、知識もあるようだったがこの人が本を読んでいる姿など初めて見たものだから。
ブックカバーで隠れた表紙を見ても本のタイトルはわからない。ただ小説であることに間違いはなさそうだった。俺と先輩の細やかな共通点。……何だかむず痒い。
それより、と五条先生の人の悪さをやや恨んだ。1級術師の任務に同行とは聞いていたが、相手が名字先輩とは聞いていない。しかし名字先輩は俺が来ることを知っていたらしく、特に驚くでも何か尋ねるでもない。
名字先輩は担任の日下部先生に注意を受けてから渋々高専に任務以外でも登校しているらしく、俺が入学した当初よりも校内で見かけることが増えた。と言っても寮には住んでいないらしいので、寮で顔を合わせることは一度もなかった。
どこに住んでいるのか尋ねると「内緒♡恋人にしか教えない主義」と言われたので結局この人がどこに住んでいるのかは知らないし、俺がその主義の外側にいることは理解していたのでそれ以上聞けなかった。
そんなことわかっているのに、数日ぶりの名字先輩の姿に内心喜んでいる俺がいるのも事実だ。俺は名字先輩を見かけると自ら声をかけるようになり、他愛もない話や雑談、愚痴などをするようになった。
名字先輩も名字先輩で、以前よりも角が取れたような接し方をしてくれるし、ジュースや食事を奢ってくれるし、俺を見るといつも笑いかけてくれるし、多分それなりに可愛い後輩だと思って接してくれているのではないかと思う。
俺が手放しで尊敬している先輩は乙骨先輩ただ一人だが、名字先輩はその乙骨先輩とは別に同性で接しやすく、そして居心地の良い人だった。尊敬できないのは女癖の悪さを耳にするからだが。
そんな名字先輩の何に居心地の良さを感じるのかと言われると言葉にするのは難しいが、この人と話すととにかく安心する。
そして本人に面と向かってはとても言えないが……かっこいい、んだよな、この人。
「その割にはまだ細いな。任務終わったら肉食いに行こうぜ、肉」
突然腕を掴まれて固まる。俺の腕の細さを確かめるみたいに何度かぎゅっと触ると、あっさりとその手は離れた。俺より大きい掌を自然と目で追ってしまう。……もう一度触れてほしい。先輩の掌の温もりがもっと欲しい。
自分でも薄々だが理解している。この感情が何なのか。
「…肉ですか」
「五条先生は高級な焼肉連れてってくれるけどさぁ、高級な店って良い肉をちょっとずつしか出してくれないんだよな。まあそういう暗黙のルールがあるのはわかるよ?でも俺としては食い放題でたらふく食いたいね」
「腹減ってるなら今何か食っておいたらどうですか」
「バッカ、そういうんじゃねぇよ。任務の後って昂るじゃん、飯食って発散するならそういのがいいって話」
昂る、という言葉に無意識に反応してしまう自分に苛立った。この人がどんなふうに昂って、どんなふうに女を抱くのか、そんなことを一瞬でも考えた自分を恥じて、そして後ろ暗い気持ちで唇を引き結んだ。
今までの人生、生い立ちや親の都合諸々含め孤独に生きてきたが、俺だって女性に全くモテなかったわけではない。俺には好きとか、恋とか、そういう感情がイマイチよくわからなかった。だから女性と付き合ったことはない。せっかくの相手の真摯な想いをはっきりしない気持ちのまま交際して無碍にする方が失礼だと思っていたから。
……だが、今の俺はどうだ。
俺は男だ。名字先輩も男だ。
まさか自分の恋愛の対象が男だとは思っていなかった。別にジェンダーマイノリティに対して特に偏見はない。恋愛は個人の自由だ。が、まさか自分がその当事者になるなんて。それとも、男とか女とか以前にこの人だから好きなんだろうか。…いや、そんなことは今はいい。
「え、何その顔。恵は任務の後ってムラムラしねえ?」
そんな俺の気持ちも知らずにデリカシー皆無の猥談を繰り広げる名字先輩。わかってる、俺が勝手に好きになっただけだ。…この人は女が好きだ。恋愛の対象も女だ。俺のことなんて後輩としか思っていない。
何ならつい先週、自販機で飲み物を奢ってもらった時に財布の中の薄さ0.01mmのコンドームがなくなっているのも見てしまった。この前2個入っていたはずなのに、その時は一つも入っていなかった。彼女はいないと言っていたし、いる素振りも本当にないので適当に遊んでる相手がいることも知っている。そしてその相手は女だ、わかってる、わかってるけど。
「しません」
「えー、それは逆に不健全だろ。そもそも恵は性欲とかちゃんとあんの?俺任務の後なら棘ちょっと抱けるかなと思う時あるもん。パンダは無理だけど、パンダだし」
アンタの性欲が異常なんだよ、と思うが口には出さない。
「狗巻先輩は男ですよ」
「でも可愛い顔してんじゃん」
……冗談も大概にしてほしい。狗巻先輩は悪ノリが好きなので、名字先輩がこうしてふざけると必ずノッて「しゃけしゃけ〜♡」と名字先輩に抱きついてイチャつきだすのだが、俺としては毎度それを見ると何とも言えない気持ちになる。二人とも悪ふざけの延長だとはわかっているが、俺はマジで名字先輩に惚れてしまっている。全くジェラシーを感じないかと言うとそんなわけもない。
名字先輩はそういう冗談だけは俺に吹っ掛けない。俺が本気で嫌がるだろうと感じているのかもしれないが、それはそれとして狗巻先輩とばかりベタベタされるのもこちらとしては大きなストレスだった。
「男も抱くんですか」
「……どうだろうな?試したことないけど気持ち良いのかな。でも俺突っ込まれるのはヤダ」
マジで真昼間から何なんだこの人。イライラしながら俺がそっぽを向くと「何だよ童貞、照れんなよ」と言われてまた黙る。照れてねぇよ。
「でもそんな物好きな男なんてそういないだろ」
意外な返答に俺はそっぽを向いたまま動けなかった。「男?絶対ヤダ、気色悪いこと言うな」と言われるであろうと勝手に想像して絶望していた自分に、僅かな期待の種が植え付けられたのがわかる。なくはない、のだろうか。
いやこの人の場合ただセックスがしたいだけでぶっちゃけ突っ込めて気持ち良くなれるなら男でも女でもいい、くらいのノリな気がする。…最低だ。そう考えると最悪の野郎だ。…何でこんな男を好きになったんだ、俺…。
「だから何でお前が照れてんの?お前から聞いたんじゃん」
「別に照れてないです」
「本当に?」
肩を掴まれて無理矢理振り向かされる。思ったよりもずっと近くに名字先輩の顔があり、やや覗き込まれるような角度で見下ろされて自分の耳が熱くなるのがわかった。そしてそれを見逃さない名字先輩は「ほら照れてんじゃん」と可笑しそうに笑うのだ。
人との距離感バグってんのかよ。まじで勘弁してくれ。
「お前ら……男同士で何イチャついてんだ」
「あ、篤也だ。よっす!」
「俺とお前は友達か?日下部先生と言え日下部先生と。何回目だと思ってるこの馬鹿たれ」
「36回目」
「違う87回目」
「細かいことをよく覚えてるな」
「知らん俺もテキトーだ」
「テキトーかよ」
俺の肩から手を離すと名字先輩は呆れたように薄ら笑いながらだらりと背もたれに肘を引っ掛けた。二年の担任の日下部先生、名字先輩と同じ1級術師だ。俺も一応会釈をすると日下部先生も「おう」と会釈した。
「伏黒、悪いなこのちゃらんぽらんの面倒見させて」
「逆だよ篤也、俺が五条先生に放置され気味の恵の面倒を見てやってるんだよ」
「だから日下部先生だっつってんだろ。……毎度報告書を丸投げされる同行者の身にもなれ」
「……報告書の上げ方練習させてやってるんだよ」
「本音は?」
「字書くのって面倒くさいじゃーん?」
「それを言い出すならもう人間辞めたほうが早いぞ」
「うざー」
日下部先生の嫌味っぽいお説教にとうとう名字先輩は項垂れた。絵に描いたような問題児的態度も、この人がやると様になってしまう。
見兼ねた日下部先生は一度深い深いため息を吐くと、名字先輩ではなく俺に小ぶりのタブレットを手渡した。
「俺の担当案件だ。名字と伏黒、お前らに引き継ぐ。詳細はここに、少々厄介だから気を抜くなよ」
「なあ恵、厄介な案件を途中放棄して教え子に振ってる大人と報告書の上げ方教えてくれる爆イケの先輩、どっちがマシ?」
「…その爆イケっていうのバカっぽいのでやめた方がいいですよ」
「え、そうなの?」
俺がわざとじとっと名字先輩を見つめてそう言うと、先輩は目を丸くして俺の手からタブレットを掻っ攫った。
「このご時世に古びた洋館なんて本当にあるんだな」
「所有者不明の物件は全国にゴロゴロありますがこの規模は珍しいですね」
「ホラーゲームでももうちっとマシな設定だろ。恵、今度青鬼一緒にやろうぜ」
「何ですかそれ」
「追いかけられる系のパニックホラーゲーム。たけしがタンスから出てくる」
「……」
ホラーゲームにもタンスから出てくるたけしにも興味はないが、名字先輩に誘われたことに内心ぬか喜びしてしまった。今から任務だぞ、気を引き締めろ。ぎゅっと一度目を閉じて深呼吸すると名字先輩から再度手渡されたタブレットに俺は目をやった。
目の前にある鉄格子の向こうの洋館は、20年以上前に所有者である70代の男性が亡くなったことで廃墟と化した。亡くなった所有者には子どもが一応いたらしく、その人物に相続されたそうだが、辺鄙な場所に建てられたこともあり管理が行き届かずに放置されているらしい。相続人の電話番号にかけても繋がらず、どうやら携帯の番号をかえており現住所も不明、こちらは手がかり完全になし。
その見た目と規模から廃墟マニアや都市伝説オタクの間で人気らしく、関係ない一般人が写真撮影や肝試しに訪れるオカルトスポットと化していると。そこで時たま怪奇現象が話題になることがあるらしいが、それは呪霊の仕業であると容易に俺でも推測できた。
以上の日下部先生の報告書の情報にある通り、定期的にな見回りと祓除対象の建物になっているが、前回も前々回も日下部先生が見回った際には祓除後も違和感の残る物件だと記載されている。
「日下部先生が違和感あるって言うんなら、雑魚呪霊以外に何かいるんだろうな。本丸はビビってあの人が来ると姿眩ませるか逃げるかすんだろ。学生然とした俺らが行った方がナメて出てくるんじゃないかっていうムカつく任務の振り方だ」
腕を組んで車の座席シートに保たれながら名字先輩はフロントガラスの向こうを俺と同じように見つめていた。天気は生憎の雨だ。
…そう言えばこの人、日下部先生本人の前では「篤也」と舐めた様子で接するのに、本人がいないとちゃんと「日下部先生」って呼ぶんだよな。俺の思考を読み取ったかのように名字先輩と目が合う。亜麻色のまつ毛の影から、刺すような視線が俺を見つめた。
「…まあ、担任への最低限の敬意だよ」
名字先輩はそう言うと、運転席に座る若い補助監督に「行きますわ。帳はこっちで降ろすから終わるまで待っててね」と声をかけて俺にも車から降りるように促した。
「帳、いいんですか」
「いらんでしょ、人いないし。もしもデカいの出て来たらその時に降ろせばいいよ」
「わかりました」
ビニール傘をさしながら洋館の鉄格子を開けようと名字先輩が押すとすんなり開いた。鍵も何もないらしい。確かにこれなら廃墟マニアも自由に敷地内に出入り出来るわけだ。
「まあ確かに妙な呪力は感じるな。何種類かいる」
俺も先輩の言葉に頷くと、後に続いた。先輩はいつもと変わらぬテンポで歩みを進める。外庭を抜けて洋館の正面玄関の戸に先輩が触れた。キイと錆びついた独特の音がしてドアが開く。
名字先輩のスニーカーのつま先が濡れている。
「不用心だねぇ。悪い虫が入るよ」
「鍵、破壊されてるとかですか」
「そもそも施錠されてない感じ」
それは確かに不用心すぎる。俺が掌印を結んで玉犬を出すと、名字先輩はちらりと二体を一瞥した。
「索敵には向いてるね」
「はい」
「じゃあ恵は1階、玉犬と回って。俺は2階と3階回るから何かあったら連絡取り合おう。15分後にこの玄関に集合で」
「15分で回れますか?玉犬一体連れて行ってもらってもいいですが…」
「はあ?煽ってんのかお前。先輩を舐めるなよ」
煽ってるわけではなく本当に心配してそう言っただけなのだが。名字先輩は目を細めながら玉犬の白をひと撫ですると、「じゃあ俺行くから」と言って吹き抜けになっている木製の螺旋階段をさっさと上っていってしまった。
← top