玉犬の援護と名字先輩がいたことで洋館の呪霊はあっさり祓えた。どうやら玄関に入ってすぐ呪霊の生得領域になっていたらしく、祓い終わるとすぐに室内の様子が変化して家具の色や風合いまで変わったものだから舌を巻いた。
「お待たせ」
洋館の前で待機していた補助監督に名字先輩が声を掛けると、ホッとした様子で俺達を出迎えてくれた。
後部座席に乗り込むとすぐさま車は緩やかに発進する。任務完了、一先ずそれは良かった。そんなことを思いながら黙って座っていると、名字先輩に顔を覗き込まれる。
「恵、大丈夫か?」
「…はい」
「気分悪い?焼肉やめとく?」
「…マジで行く気だったんですか、焼肉」
「うん、だって今めっちゃムラムラしてるし」
名字先輩の言葉に俺は呆れたように深くため息を吐いた。自分の弱点を見せてくる呪霊、そんなのと相対した後に昂っているなんてこの人の性欲は本当にイカれている。この人だって鏡を使って自分のトラウマを見せられたはずなのに。
「……すみません、食えそうにないです」
「あっそ」
津美紀が現れた時、俺は動揺した。ここにいるはずない、これは偽物だ、そうわかっていても身体が動かなかった。
偽物の津美紀が口にした内容は、俺の心の片隅にいつもあった罪悪感のようなものだった。
俺のせいで津美紀が巻き込まれたんじゃないか。俺のせいで、俺が呪術界に足を踏み入れてしまったせいで津美紀は呪われて寝たきりになってしまったんじゃないか。
俺がいるせいで、津美紀が不幸なんじゃないか。
寝たきりの原因が何もわからないから、実際問題俺のせいなのか、そうじゃないのかもわからない。
誰が津美紀を呪ったのか、何故呪われたのか。津美紀が目を覚ましたら俺をどう思うのか。或いはもう目を覚ますことは……。
そんな思考が頭の中を駆け巡った。名字先輩がいたから良かったが、リアルな津美紀の動いている姿を目にして身体が動かなかった。いるわけない。津美紀は今も眠っている。
こんな場所にいるわけない。そんなのわかってるのに。
「……ねえ、ここで止めて」
「いいんですか」
「報告書後で上げに行くから。先戻ってて。君も忙しいだろ」
「わかりました」
「行くぞ、恵」
名字先輩が補助監督にそう言うと、ごく自然に俺の肩をぽんと叩いた。訳がわからずぽかんとする俺に名字先輩はめんどくさそうに頭を掻くと「いいから降りろ」と手で促した。
「どこ行くんですか」
「俺ん家」
「は?」
車を降りてすたすたと歩き出す名字先輩の背中をまたぽかんと見つめる。何?何の話だ?名字先輩の家に行く?俺が?何で?
「…お前さー……」
呆れたように名字先輩が何か言いかけてからため息を吐いた。ポケットに両手を突っ込んでじっと俺を見下ろすと、「…まあいいわ」とだけ言ってまた歩き始めてしまう。俺は何のことかわからず、とりあえず言われるがまま名字先輩の背中を追うことしかできなかった。
「ここですか?」
「そ、ココ」
名字先輩が入ろうとした建物はいわゆるタワーマンションだった。五条先生もタワマンの一室を持っているが名字先輩もそんな場所に住んでいるとは思わずに俺は固まる。まさかこんなところに住んでいたとは、そしてここから高専まで通学しているとは。
「ここ住んでんの、バレたら色々と面倒だから高専の奴らには内緒ね」
名字先輩は悪戯っぽくそう笑って人差し指を唇に当てると、さっさと来いと言わんばかりに俺に付いてくるようにまた促す。言われるがままついていくと、オートロックの玄関が開いて名字先輩は高層階用のエレベーターのボタンを押した。
「…何食いたい?うどんとかお粥とかの方がいいか?」
「俺、別に病人じゃないですけど」
「まあいいじゃん。うどんとお粥、どっちがいい?」
「……うどん」
「OK」
高層階用のエレベーターのドアが開く。
名字先輩は迷いもなく28階を押すと、エレベーターの壁にもたれた。
「さっきから顔色悪すぎ」
「……」
「高専戻っても頼れる同級生もいないだろ。真希は荒いし、棘は今日泊まりで任務。五条先生はあんな感じだしさ。体調完全に崩す前に身体をちゃんと休めろ。俺には甘えていいから」
そこまで言われて俺は黙った。気にかけてもらっているのだとようやく俺は気付いて、何とも言えないむず痒い気持ちになり俯く。
確かに、さっきの呪霊に当たってから正直言って気分が悪い。津美紀云々もそうだが、雨と急な気温低下で身体が少し冷えたせいもある。名字先輩はそんな俺をすぐに見抜いたらしい。
名字先輩はクズだが、優しい。…人を甘やかすのが上手い。
「…すみません」
「謝んなくていいよ、術師って化け物じみた体力の奴らが多いからさ。まあ入学してすぐそうなんのは普通、胸糞悪いもん見たんだろうし」
エレベーターが28階に着いたらしい。扉が開くと名字先輩は身体を起こしてエレベーターから降りた。それに続いて俺も一緒に降りる。
しんと静まり返った内廊下の突き当たりを曲がると、名字先輩がポケットから鍵を取り出してロック盤に翳した。ぴ、と電子音がして玄関扉が開く。
「良かったな恵。この部屋来るの、男はお前が初めてだよ」
靴を脱ぎながらそう言う名字先輩に固まる。
そこまで言われてやっと気付いた。もしかして、俺は今この人のとんでもないプライベート空間に足を踏み入れてしまったのではないか。頑なに寮に住まない名字先輩の、頑なに誰にも明かさなかった自宅に、俺は今招かれているのではないのか。
「あの……良いんですか、お邪魔して」
「……ここまで来て今更それ言う?」
その部屋はおよそ一般的な高校生が住むような部屋ではない、ということだけは俺でもわかった。
そもそもタワーマンションの28階だ。寮のワンルームの間取りと違い、リビング以外にも部屋がいくつかあるらしいが全て扉は閉め切られている。男の一人暮らしとは思えないくらい清潔でシンプルで、それでいて上質な空間。ソファは何故か革張りで、テレビは大型のもの、ダイニングテーブルは一人暮らしにしては随分しっかりとしたモダンなデザインのもの。そしていつも先輩のつけている香水の匂いが仄かに部屋全体から香っていて眩暈がしそうだった。……ここはこの人そのものだ。
とりあえず「適当に座っとけ」と言われるがままソファに腰掛けて部屋を見渡す。キッチンカウンターに置かれた一つの香水瓶が目に入る。初めて目にするそれがこの人の匂いなのかと目を細めた。シンプルな透明のガラス瓶の中には半分ほど残量がある。香水ブランドはよく知らないが、白いラベルには英語で詳細が表記されており、ラベルの一番上に"REPLICA"と書かれているのだけは読み取れた。……どこのブランドなのだろう。
「食える?」
部屋に俺がお邪魔してすぐに先輩は手洗いうがいを済ませると、制服の上着を脱いでワイシャツ姿になり、カウンターキッチンの冷蔵庫を開けた。腕まくりをしている手首にすらドキドキするなんて、俺はとうとうおかしくなってしまったのかもしれない。
そんなことを考えながらひとり悶々とした気持ちで考え込んでいると、声をかけられて顔を上げる。見ると名字先輩が小鍋にうどんを作ってくれていたらしい。出汁のいい香りに俺が頷くと、「じゃあ食うか」と先輩はキッチンボードを開けて箸と蓮華を二つ取り出した。
「料理できるんですね」
「まあな。恵も出来るだろ?」
「一応」
だが俺よりも手際が良いし、随分と慣れている感じがする。いつもこうして自炊してるんだろうか。……広い家だ、もしかしたら誰かと住んでいるのかもしれない。…誰と?玄関に女物の靴は無かった。先輩のいつも履いてるスニーカーと、簡素なサンダルがあっただけだ。
「何突っ立ってんの、来いよ」
ぼんやりそんなことを考えていると、先輩に急かされてダイニングの席に着く。しっかりとした作りの四人掛けのそれ。先輩が座った席の向かいに箸が置かれたので、そこが俺の席なのだと理解して座る。
鍋焼きうどんだった。ネギと卵と椎茸と細く切った鶏もも肉、それから少しだけ擦りおろしたであろう生姜が入っている。お世辞抜きで美味そうだった。
「めちゃくちゃ腹減ってたからうどん3玉も入れちゃった〜♪」
「……」
「俺が2玉食うから恵は1玉頑張って食えよ」
「……頑張らなくてもそれくらい食えます」
「はいはい、じゃあ手を合わせて。いただきます」
名字先輩は丁寧に手を合わせると取り皿に慣れた手つきでうどんを取り分け、俺に「ん」と突き出した。……食欲なんてちっともなかったはずなのに、この香りと実際のうどんを目にすると腹が減ってきていた。俺は黙って受け取り、小さく「いただきます」と呟いて手を合わせる。
「……美味い」
「だろ?」
「マジで美味いです」
「恵が素直に俺を褒めるのって初めてだよな」
そんなことない、とも言い切れずに黙って俺はもう一口うどんを啜った。本当に美味い。出汁も美味いし、麺の茹で具合も良い。俺はそこまでグルメとか舌が肥えているわけでもないが、美味いと思う。
「すぐに美味いうどん作れる男ってモテるかなぁ」
「……モテてるんでしょ」
「いや、最近はそうでも。本腰入れて任務行って授業も出てたらそんな余裕ないな。良い感じだった女にもつい最近フラれたし」
「名字先輩でもフラれることあるんですね」
「フラれてばっかだよ。俺っていつもヤり捨てられんだよね、可哀想だろ?」
フラれたんじゃなくて、アンタがフラれるようにけしかけたんじゃないのか。身体の関係はあるのに付き合うとか恋人になるところまでいかないのがこの人の不思議なところだ。いろいろ思うことはあるがそこには言及せずに綺麗に切られた椎茸を一口で食べる。美味い。
「だから、ずっとフリーだよ」
その言葉に俺が思わず名字先輩を見上げると、先輩も俺を黙って見つめ返してくる。気恥ずかしくなって目を逸らすも先輩は何も言わずに自分の取り皿に分けた鶏もも肉を口に放り込んだ。
「で、恵は?彼女作れよ。……つっても高専にまともな女いないな。終わり終わり、ドンマイ」
「女性なら真希さんがいますけど」
「あれはゴリラだから」
「殺されますよ」
「いやでも事実じゃん?東京校マジで女いねーんだよな。1年も恵しかいないし。京都は真依以外にも女いるのにさ、3年の西宮さんとか。でも西宮さん俺のことめっちゃ嫌いなんだよね」
「嫌われるようなことしたんですか?」
「してない。指一本触れてない。初めて会った時に目測でおっぱいのカップ数当てただけ」
「……してるじゃないですか、嫌われるようなこと」
「そう?あ、そういや京都の2年の三輪って子がすげー可愛いらしいよ、俺は会ったことないけど」
「…そうですか」
「……なんで不機嫌モードなんだよ」
別に、そういうわけじゃない。ただ名字先輩が女の話をする度に、この人はやっぱり女が好きなんだと思い返して心底がっかりしてしまう。目の前の可愛がってる後輩の俺より、顔も知らない京都の三輪とかいう女が気になっているんだ。家に呼ばれて勝手に浮かれていた今の自分に現実を突きつけられて気持ちが下がる。
「恵って意外とわかりやすいよな」
「何が」
「お前俺のことめっちゃ好きじゃん」
「……」
箸と皿を机に置いて名字先輩は余裕の笑みを浮かべながら頬杖を付いた。俺は何と返せばいいかわからず、箸を持ったまま固まってしまう。
「俺にめちゃくちゃ懐いてるし。俺のこと見かけたら絶対話しかけてくるし。この前なんか財布のコンドームの数までチェックしてるくらい、女にまで妬いてる」
「何でそれ、」
「……あれ、図星?さすがに最後のはカマかけただけだったんだけど」
「は…?」
手から箸が滑り落ちる。カタン、と軽い音を立ててダイニングテーブルに散らばるそれを名字先輩は目で追いながらまだ微笑んでいた。
「そんなに俺のこと気になる?最初から俺の顔ガン見だったもんな」
そう言って名字先輩は立ち上がると鼻歌混じりにまたキッチンへ向かった。
先輩の言葉の意味を計りかねて俺が何も言えないでいると「そういや貰い物のみかんあるけど食う?」と呑気な声で聞かれて、俺はまた「はい」と返事をするしかなかった。
「ま、それはさておき。…ちょっとは気分晴れた?」
小ぶりなみかんを頂いているとそう問われて俺は小さく頷いた。ほっとしたように名字先輩が微笑むのを見て俺も自分の表情筋が僅かに緩むのがわかる。
名字先輩はまた俺の向かいに腰掛けると、長い足を組んで頬杖をつきながらどこから持ってきたのか本に目を落としていた。
「なら良かったよ。お前のプライベートとかよく知らないし言いたくないだろうから別に言わなくていいけどさ。あんまり自分を追い込むなよ。どうせなら気楽に、楽しく行こう。…人生なんて所詮は死ぬまでの暇つぶしさ」
「……」
「わかった?」
目線だけ俺に投げかけてきた名字先輩に、俺はまた頷いた。
先輩のパスカル的死生観に完全同意は出来ないが、それでもこの人は俺を励まそうとしてくれているのだと思うと、また腹の底に燻っていた熱がぶり返してくる。どうしてこの人はこんなに俺に優しいんだろう。
「……はい」
ああ、やっぱり好きだな。
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