名字先輩の家にお邪魔した日以来、以前よりも先輩が俺に親しげに接するようになったのは気のせいではないと思う。
あの日家にあげてもらったはいいが、正直な話自分の挙動をあまりよく覚えていない。タイミングよく近くを別の補助監督が通るところだったらしく、最寄りの駅まで送ってもらい、すぐに高専に戻ったことだけは覚えている。
俺は兎にも角にも先輩の「お前俺のことめっちゃ好きじゃん」発言に動揺していた。
俺の好意がバレていたのか、もしバレていたのならあの人が俺をどう思っているのか。可愛い後輩だと言ってくれたけど、あれは本心なのか。女に口説くみたいに俺のことも揶揄っただけなのか。そんなことが気にかかって頭の中でいろんな感情が駆け巡り、その日は布団に入っても眠れなかったほどだ。
しかし名字先輩本人はどこ吹く風、次の日もいつも通りに俺に接してきた。良かった。俺の好意は多分バレていない。先輩に懐いている後輩、程度にしか思われていない。それで良い。……それで良いんだ。これ以上を望んではいけない。
ただ耳元で「俺の家に上がった話、誰にもすんなよ」と小声で囁かれた時は心臓が爆発するかと思ったが。
「なー、まだ1年の女の子は入学しねぇの?」
「知りません、五条先生何も言わないんで」
「つまんねー」
自販機のボタンをぴ、と押してエナジードリンクを買う名字先輩を何となく横で眺めていると「お前もなんか飲む?」と聞かれたので「…じゃあ麦茶」と応えると、全く違うスポーツドリンクを選ばれて渡された。
「俺麦茶って言ったんですけど」
「スポーツドリンクは麦茶だよ」
「意味わからないです」
「でも飲むだろ?」
奢ってもらった手前それ以上何も言えず受け取ると、名字先輩はエナジードリンクのプルタブを片手で開栓してごく、と一口飲んだ。
「午前の体術訓練、サボろうぜ。真希今日めちゃくちゃ機嫌悪いから絶対八つ当たりされるぞ、俺が」
「真希さん何かあったんですか」
「…知らん。俺は関係ない」
名字先輩の髪が風に揺れた。僅かに湿気を踏む風に眉を顰める。暑さのせいで先輩は制服の上着を脱いでこの前のようにシャツを腕まくりしていた。なのに襟足まで伸びた髪は切らずに、今日は髪ゴムで一つにまとめている。髪で隠れていることも多い耳がはっきり見えて、その耳たぶについているピアスやイヤーカフがちらりと光る。
「関係ある時の言い方ですよね」
「いやマジで知らない。生理だ、多分」
「……そういうところですよ」
「でも優しくしてもアイツ俺にはキレるんだもん。憂太早く帰って来ねーかなー、憂太がいたら真希機嫌良くなるのに」
確かに、真希さんは名字先輩に当たりが強い。それが何故なのかは知らない。本人達も深く言及しない。
真希さんに「俺とお前の仲」と名字先輩が以前言っていたことが気になるが、それと関係あるのかないのか。もしかして過去に付き合っていたとか……そういうことだったりするのだろうか。
「ま、いいわ。そういうわけで俺はサボるから。医務室で寝てるけど俺のこと聞かれても知らんふりしとけよー」
エナジードリンクを飲み干すと、名字先輩は手をひらひらさせてどこかへ行ってしまった。後で真希さんにどやされるの、アンタの方だろ。
体術訓練には宣言通り名字先輩は現れず、俺とパンダ先輩と真希さんと狗巻先輩といういつものメンバーで組手や呪具の扱いの練習だった。
名字先輩のサボりについてパンダ先輩に聞かれたが、一応あの人のことが好きな俺はどうしても名字先輩を裏切ることができず、「知りません」で押し通した。我ながら都合の良い後輩だと思う。
名字先輩の言う通り、その日の真希さんはすこぶる機嫌が悪く、俺には当たらないものの代わりにパンダ先輩があたられまくって殴られまくっていたので気の毒だった。確かにあの場に名字先輩がいたら、おそらく投げ飛ばされていたのは名字先輩なのだろう。
そういった悲惨な体術訓練をなんとか終えて、着替えて職員室に向かおうとした時だ。午後から単独任務を言い渡されていた俺は、医務室でサボっているという名字先輩がどうにも気になり、時間もあったので何となく様子を見てから向かおうと決めた。
もういないかもしれないが、時間があるなら少しでも話したい。顔を見たい。そんな気持ちで。
医務室の戸をノックしようとして、聞こえてきた声に俺は思わず息を顰めた。それは名字先輩と女性の声だったから。
「君は本当に節操がないな。サボりは性欲解消のための口実?」
「…硝子さんが綺麗だから仕方ないよ」
「それ誰にでも言ってるだろ」
「言ってないし。硝子さん今彼氏いないじゃん、そろそろ俺と遊んでよ」
「いても遊んでよって言うのが君だろ」
名字先輩と家入さんが、何か話していた。他には誰もいないようで、二人きりらしい。名字先輩が椅子に座る家入さんを背後から抱き止めるような形でハグして手を回していて、そして特にそれを抵抗もせずに家入さんが慣れた様子で受け入れつつも書類に目を通している姿を見て俺は固まってしまう。
「…だってずっと飴舐めてる。口寂しいなら俺とキスしよ」
そう言って家入さんの顔を覗き込んでするすると顎を撫でる名字先輩は、年齢が一つしか違うと言われてもピンとこないほど色っぽくて、男の俺から見てもいやらしかった。
「飴を舐めてるのは糖分補給のためだ、反転術式は糖分を使うんだよ」
「そんなの知ってて口説いてるんだけど?で、キスしていい?」
「ダメ」
まるで恋人同士のような二人の姿に思考が停止した。
わかっている。名前さんは女にだらしのない男だ。でもまさか家入さんとまでそういう関係だとは思っていなかったし、こういう場面に遭遇するのは初めてだった。
「君は相手が女なら誰でもいいの、知ってるから」
「…硝子さんがいい」
「嘘つけ」
「嘘じゃない。俺は硝子さんがいい。硝子さんのことが好きだよ」
名字先輩の好きだよ、という言葉に自分の手が震える。……息が苦しい。きっと本気で好きなわけじゃない。家入さんと寝たいから、そのための口説き文句だ。
わかってる。この人はこういう人なんだ。
でも、聞きたくない。見たくない。やめてくれ。
それ以上、聞きたくない。
「ねえ、本当にダメ?」
見たくないのに、聞きたくないのに。名字先輩が家入さんの頬を愛おしそうに撫でる。以前、「大丈夫か」と俺の額に触れた指で、俺ではない女の人に触れている。
目にするだけで気が狂いそうだった。
「………まったく」
家入さんが名字先輩を呆れ顔で見つめた。家入さんが書類をデスクに置いて振り向いたのを見て、名字先輩は少しだけ目を細めて笑う。その時だった。廊下に立ち尽くす俺を名字先輩がほんの一瞬だけ見た気がした。視線が合ったような、合っていないような。
「……そんな顔すんなよ」
名字先輩が発したその言葉が誰に向かって投げられたものなのかはわからない。家入さんなのか、俺なのか。家入さんがどんな顔をしていて、俺がどんな顔をしていたのか、それもわからない。わからないけれど、胸に走る痛みが俺の心を蝕んでいることだけはわかる。
名字先輩は少しだけ首を傾げて家入さんにキスをしていた。家入さんは抵抗もしない。寧ろ、控えめに名前さんの腕を掴んで互いに唇を啄むように口付けを始める。
それだけでこの二人の"関係"が今に始まったわけではないということは容易に察せられた。そして多分、別にこれが恋愛とか恋人とか、そういう関係性から来るものでもないということも。
名字先輩はキスの合間に舌なめずりをすると家入さんの耳元で小声で何か囁いた。家入さんは黙って小さく頷く。その瞬間、座っていた家入さんを名字先輩が横抱きで抱きあげて、部屋の奥へと姿を消した。……そっちには医療用のベッドがある。今から何が始まるのかなんて簡単に想像がついた。
何故だかわからないが、俺は親に捨てられたあの日を思い出していた。名字先輩に俺は何を求めていたんだろう。あの人は、ただの1学年上の先輩だ。それ以上でもそれ以下でもない、のに。
俺はあの人に何を期待していたんだろう。
どうやって職員室まで行ったかは覚えていない。動揺していたのに、足は行くべき場所へ自然と向かったらしい。補助監督と共に車に乗り、田舎で2級呪霊の祓除。
俺がいろいろ考えるまでもなく、玉犬に呪霊を食わせて全て終わり。
全てがいつも通り。何も問題は起きていない。
名字先輩が家入さんと寝ていた。
別に驚くことでもないはずだ。大体あの人が誰とどこで何をしようとあの人の自由だし、別に家入さんも嫌がっていなかったのなら第三者の俺がどうこう言う筋合いもない。
俺には関係のないことだ。
そう、俺には何も関係ない。
俺はいつも、蚊帳の外。
でも、それなら、どうしてあの人はあの時俺を家に上げたんだろう。
家の場所や広さも誰にも知られたくない、と言いたげだったのに俺をあっさりあのマンションにあげて、飯まで作ってくれたのは何だったんだろう。家入さんや他の女にも同じことをしているんだろうか。別に俺だけが特別じゃないのなら、どうして男の俺を初めて家に上げたんだ。
……苦しい。
苦しい。
苦しい、苦しい、苦しい。
「…伏黒くん」
「……」
「伏黒くん」
「…あ、はい」
「大丈夫ですか?着きましたが」
「……すみません、ボーッとしてました」
運転席から心配そうな顔を覗かせる伊地知さんに慌てて返事をした。何度も声をかけてくれていたらしい。窓の外を見ると既に高専の結界内で、自分がいかにぼんやりしていたのかを理解して伊地知さんに頭を下げた。
車から降りると既に外は暗い。書き上げていた報告書を手に昇降口に向かう。
まだ頭がぼんやりしている。気分が悪い。……考えるな、これ以上。自分に言い聞かせて靴を履き替える。2年の下駄箱を見ると、名字さんの外履がまだ置いてあったのでどうやら高専内にいるらしかった。……考えるなっつってんのに、何で俺はあの人のことばかりいちいち考えてしまうんだろう。もう考えたくないのに。早くこの気持ちにケジメをつけて、忘れたいのに。
「お、恵じゃん」
なのに、どうしてこの人はまた、
「何、どした?顔超怖いんだけど」
俺の前に現れるんだよ。
「……お疲れ様です」
「うん、お疲れ。任務終わったのか」
「はい」
ポケットに手を突っ込んで棒付きキャンディを咥える名前さんが、俺の顔を見て少し驚いた表情を浮かべていた。本当にタイミングが悪い。
「俺もちょうど終わったとこ。帰るわ。恵もお疲れ、ゆっくり休めよ」
だがすぐにいつもの微笑に戻り、手をひらひらとさせる名字先輩に俺は仏頂面のまま小さく頷いた。
何も言えなかったし、何を言えばいいかもわからない。心のどこかで名字先輩のことを軽蔑したいと責めるような思いがあるのに、顔を見て本人に優しく笑いかけられるとそんな気持ちはどこかへ行ってしまう。
好きだ。苦しいくらいに。どんなことをしていても、どんなに女にだらしなくても。
この人のことを好きになってしまった。
「あ、そうだ」
「……」
「昼間の、みんなには内緒な」
名字先輩は何か思い出したように振り向くと、何でもないとでも言うような軽い声のトーンでそう言って俺の肩をとんと叩いた。
…わかっている。この人はこういう人なんだ。そんなの最初からわかっていた。
……だったら俺だって、
「……俺のこと、信用しすぎじゃないですか」
「え?」
「意外と口軽いですよ、俺」
「それは困るな。何、お前…この俺に口止め料求めてんの?」
「…そうだって言ったら?」
「生意気だね」
黙って名字先輩を見上げる。どうしても睨みつけるような視線を向けてしまう。…だって俺は貴方が好きだから。惚れた男が他の女と寝ているところなんて見せられたら、こっちだってたまったものではない。
名字先輩は俺の言葉に再び目を丸くしたが、すぐに不遜な笑みを浮かべて俺を見下ろす。
「いいよ。……で、恵は俺に何してほしいの」
廊下の窓から入る月明かりが俺と先輩を照らしている。
先輩は困ってる素振りなんて全く見せずに、余裕たっぷりといったふうに首を傾げた。男にしては長い先輩の髪が少し肩にかかる。それがまた妖しくて、これ以上近付いてはいけないとわかっていても、触れてみたいと思ってしまう。これ以上を望むのはやめた方がいいとわかっているのに。
「…今から、俺の晩飯作ってください。先輩の家で。…そんで、今日は泊めてください」
「……そんなんで良いの?」
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