アリアと嘘吐き 5


「おはよう!一松くん!」

昨晩あんなやりとりがあったにも関わらず、翌朝通常通り元気に挨拶をする珠音に、一松は目を瞠った。
こいつ…正気か…?と。
あそこまで言われて尚、自分に関わろうとするとは思っていなかった一松は、酷く戸惑う。
挨拶だけすると、彼女は洗面所の方へと消えていった。
彼女は、いつも踏み込んで欲しくない所は踏み込まない。
一松が挨拶を返さなければ、それ以上は深追いしてこないし、しつこく約束を取り付ける事もしない。
しっかりとした距離感は保っていた。
その距離感も、昨晩の事をきっかけに決壊してもおかしくないのだが、彼女はいつもと変わらない。

(馬鹿、なの…?)

傷つかない筈がない。あんな言われ方をされて、腹を立てない筈がない。
しかし今の一松にとって、謝る方法を見付けられないでいた。
今まで散々、突っ撥ねてきてどのツラを下げて謝ればいいのか分からない。
そして、その日はバイトなのか、珠音は朝早くから家を出ていった。
心做しか朝食も箸が進まない一松は、無意識下で珠音を気にしているのだろう。
その様子を、おそ松は横目で盗み見るも一松は気付いていなかった。

今日は珠音が家に居ない為、一松は二階で猫とまったり過ごしていた。
が、猫が一松の腕に擦り寄るも上の空。
そんな中、求人誌を片手にチョロ松が襖を開けて入ってきた。
一松に気にすることもなく、別の場所に座り求人誌をパラパラ捲るチョロ松。
猫を撫でるのをやめた一松が、立ち上がりチョロ松の前に仁王立ちをする。

「え、何…。」
「ちょ、チョロ松兄さんに…相談があるんだけど…」
「一松が、僕に相談事?気持ち悪いんだけど…」
「昨日さ…、友達…と言っても猫だけど…に、酷いことしちゃって…」

相当切羽詰まっているのか、チョロ松の憎まれ口は完全にスルーな一松に、これは結構深刻か?と、チョロ松は求人誌から目を離した。

「一松は、その友達と仲直りしたいんだ?」
「そっ、…うん。まぁ、そうなんだと…思う。」
「僕、猫の事はよくわからないけどさ」

暫し、熟思した後そのへの字口を開く。
一松は、彼から発せられる言葉をひとつとて取りこぼさぬ様に聞き入る。
対人コミュニケーション能力が乏しい彼にとって、他の助言はとても貴重なものだった。

「一松が、仲直りしたいと思うならしなきゃいけないんじゃないの?出来ないなら、その理由を考えなくちゃ」
「出来ない…理由…」
「何をそんなに悩んでるのか知らないけどさ、ちゃんと誠意を見せればその猫も分かってくれるんじゃない?」
「誠意…」

人間に言われた事を繰り返す九官鳥のように、チョロ松の言葉を繰り返す一松。
繰り返していくうちに、自分がどうしたいのかが見えてきた。

「お前はただでさえ不器用なんだから、素直にならなきゃダメでしょ」

そうとだけ言うと、チョロ松はまた求人誌に目を向けた。
これ以上は、会話を続けるつもりは無いようだ。

「俺、ちょっと出掛けてくる。」

一松は部屋を出ていき、入れ替わりでおそ松が入ってくる。
階段を降りる一松の背中を、一瞥してから中に入ったおそ松は、チョロ松に話し掛けた。

「やるじゃん。チョロシコスキー」
「誰がシコスキーだ。やめろそれ。」

目線はそのまま求人誌。
おそ松すら見ずに悪態をつくチョロ松。
しかし、口元は笑っていた。





「お昼のラッシュ凄かった…」
「珠音ちゃん、ありがとう。上がっていいよ。」
「はい!お疲れ様でした!」

元気に挨拶をして、タイムカードを切る。
店内で、猫缶を一つ購入して店を出た。

「猫ちゃん、元気かなぁ」

例の猫の元へ足早に向かう珠音。
心做しか鼻歌まで唄っている。
目的地の路地裏に到着し、段ボール箱を開ける。

「猫ちゃん、元気かな?ご飯持ってきたよ!」

珠音の呼び掛けに、反応する様に子猫はみーと鳴いた。
猫缶のプルトップを曲げて、蓋を開ける。
匂いに釣られ、しゃがむ珠音の足によじ登ろうとする子猫に珠音は頬が緩む。
缶の中身をある程度解してから、地面に置くと猫ははぐはぐ音を立てて中身を食べ出した。

「大きくなってきたね」

子猫の背中を撫ぜながら、膝を使って頬杖を突く。

「本当は飼ってあげたいんだけど、人様の家だから…」

ごめんね…そう言って、頭を撫でると手に顔を擦り付ける子猫。
お腹がいっぱいになったのか、食べるのをやめると顔を洗い出した。

「あぁ、可愛いなぁ…」

珠音は、思い出していた。
“好きでいることに資格なんているわけ”
一松のこの言葉が未だ脳裏に焼き付いて離れない。

「好きだよ」

子猫がみー、と返事をする。
微笑ましいひとときが、ゆっくり過ぎていった。
暫くすると子猫はすんすん鼻を鳴らし、路地裏を飛び出していってしまう。

「だめっ、猫ちゃん危ないから!」

慌てて子猫の後を追いかける珠音。
しかし、珠音の声掛け虚しく猫は道路まで飛び出してしまう。

「危ない!!!!」

珠音も、咄嗟に道路へ飛び出す。
後方から輸送車が迫ってきていたからだ。
瞬間耳を劈く様な音。そして、鈍い音が響いた。

「え…、うそ…だろ…」

家を出た一松は、珠音に一言謝罪する為、路地裏に向かっていた所だった。
が、路地裏から子猫が飛び出して来たと思ったら、次の瞬間珠音が路地から飛び出す。
突然の出来事で頭が追い付かない一松は、立ち竦んでいた。
道路に転がる良く知った人物。
子猫はびっくりしたのか、路地裏に消えていってしまった。
輸送車は、そのまま走り去ってしまった。
遅れて通行人の悲鳴。
中には、倒れる珠音に駆け寄る者も。
しかし、一松は金縛りにあったかのように動けずにいた。

「ちょっと…、冗談よせよ…」

転がる珠音の周りには血溜まりが広がっていた。