二藍に染む



司書室の扉を開く。
それと同時に鼻を突く独特の匂いに、部屋に一歩足を踏み入れたなまえは、思わずその場に立ち止まった。
煙―それも火災などではなく、嗜好品として嗜まれる、煙草の煙の匂い。
それがどこから発されているのか、考えるまでもなく気付いた彼女は、部屋の奥へと視線を向ける。
司書室の部屋の奥―月明かりが射し込む窓の側では、窓も開かずに煙草を燻らせている彼の姿があった。

「…芥川先生」

名前を呼ぶと、そう呼ばれた彼―煙草を吸っていた張本人、芥川はゆっくりと頭をもたげて、緩くなまえへと笑みを向けてくる。

「……おや、どうかしたかな」

悪びれもせずにそう答えた彼は、また煙草へと口を付けると、静かに煙を吐き出す。
その動作はとても様になっていて、街で見かけたならば彼の整った顔立ちと併せて、思わず見惚れてしまうような美しさがあった。
しかし、そんな彼にも慣れきった彼女は表情を変えることもなく、そのまま芥川へと言葉を続ける。

「司書室は禁煙です、と何度もお伝えしている筈ですが」

そう。芥川を助手にする度に、というよりも、彼を部屋に招き入れるたびに、彼は司書室で煙草を吸う。

なまえ本人としてはあまり口うるさく言いたくはないのだが、如何せんこの部屋には彼女にも、そして文豪たちにとっても大切なものが多い。
任務に使う有碍書、有魂書、それから潜書の報告結果等々。文豪たちの著作だって、いくらか置いてある。

それらはもちろん紙だ。芥川も注意はしているはずだが、もし煙草の燃滓でも落ちようものなら被害は免れないだろう。
文豪の中には煙草を吸う者も少なくない。
そのため、図書館内では特に禁止はしていないのだが、この部屋や貴重な本がある部屋では、禁煙だと、なまえは何度もそう言っていた。
だが、何度言ってもこの文豪―芥川だけは、それを全く聞き入れてくれないのだ。

「まあ、いいじゃないか」

―それより君もどうだい?
そんなことを言って、芥川は取り出した煙草をなまえへと差し出す。すると、彼女は呆れたような溜息と共に、視線を芥川へと向ける。
それも当然のことだ。今までいくら言っても、聞き入れていないのは芥川の方なのだ。
いつものように、無碍もなく断られるのだろう。そう思い、彼は煙草を袂へと仕舞おうとしたのだが。

「……では、お言葉に甘えて戴きます」

手袋を嵌めた、彼よりも幾分か小さくて細い手が、彼の持っていた煙草の箱から煙草を一本抜き取っていく。
これには芥川も思わず目を瞬かせた。
いつも粛々とした態度で仕事をこなし、文豪たちが酒を飲みかわしている所に通りかかっても、興味を示すことも無い(誘われれば断りはしないのだが)彼女。
唯一の趣味らしい趣味と言えば、読書だろうか。しかしそれも、文豪たちの事を知る仕事の一環として読んでいるものなのだと、芥川は思っていた。

そんななまえが煙草を吸う姿は―正直、全く想像が出来なかった。恐らく、彼女の助手である島崎でさえ、同じことを言うだろう。
しかし、彼女は表情を特に変えることなく、そのまま司書室の机上にあったランプへと手を伸ばす。
カチ、と音がして部屋が暗闇に包まれた。窓から差し込む月明かりだけになった部屋の中で、なまえのぼんやりとした輪郭だけが芥川の瞳に映る。

静かな部屋に、衣擦れの音が嫌に響く。彼女がいつも肌身離さず被っている帽子を脱いだのだと気付くのに、少し時間がかかった。
そこまでして、顔を見られたくはないのだろうか。芥川は少しだけ苦笑する。
煙が立ち込める部屋の中では、ランプ一つ程度の灯りではほとんど顔も見えないと言うのに。

「…あの、先生、お手数ですが何か…火をつける物を」

暗闇の中、なまえの声が聞こえる。
この部屋は火気厳禁だ。マッチやライターの類などは置いていないのだろう。几帳面な彼女らしいことだ。

その言葉に、芥川はじっと彼女の方へと視線を向ける。
少しだけ暗闇に慣れてきた視界に、薄月に照らされて薄らと、なまえの澄んだ藤色の瞳が光った。

「あぁ、…そのまま動かないでね」

そう言うと、芥川はそのまま身を屈めると、なまえの手首を緩く掴む。
煙草を持った彼女が、芥川が距離を詰めたことに少しだけ身じろぎしたのが分かったが―彼は気にすることなく、彼女が手に持った煙草に自身の煙草を近付けた。
熱を持った煙草の先を、火の灯っていない彼女の煙草の先にそっと押しあてる。
少しすると、なまえが持つ煙草にも小さな朱色が灯る。

それを確認して芥川が彼女の掴んでいた手を放すと、彼女はしばらく戸惑うように自身の手にある煙草へと視線を向けていた。

「…ありがとうございます」

しかし、それも僅かな時間で、いつもと変わらない声色で芥川へと礼を告げると、なまえはゆっくりと煙草に口付ける。
どういたしまして、と呟くように彼も返事をすると、そのまま煙草を自身の口元へと緩慢な動作で持って行った。

二つの紫煙が、静かに立ち上り、消えていく。

司書も、芥川も、暫くの間言葉を発することもなく、その場から動くこともなく。
部屋を満たす紫煙だけが、ゆるりと揺れていた。

その静寂を破ったのは、なまえの方だった。
煙が気管に入ったのか、煙草を持ったままけほけほと小さく咳き込む。
まるで幼子のようなその声に、芥川は思わず声を漏らして笑ってしまった。

「……君にはまだ早かったかな」

そう告げると、彼女は呆れたような拗ねたような声で、芥川へと不満げな返事を返す。

「……いや、…こんなの吸ってたら絶対体壊しますよ先生…」

そうかな?と芥川が首を傾げると、なまえのじっとりとした視線が向くのが分かった。視線で返事を返されているようだ。
確かに一日に何十本も吸うものではないのは、芥川も理解している。
かと言って量を減らせと言うのは、無理な話だ。

「いくら君の頼みでも、禁煙は出来ないなあ」

煙を吐き出しながら彼がそう言うと、少しの沈黙の後、彼女からの返事が返ってくる。

「…止めろ、とはいいませんが…これでも、先生の事は心配しているんです」

その声色は、少しだけ不安に揺れていて。嘘やお世辞ではないことは、すぐに理解できた。
彼女はいつも顔を隠しているせいで感情の変化に乏しいように感じるが、声を聞いていれば意外とわかりやすい人間なのだ。
それこそ、年相応の少女―なのか、女性、なのか。彼女の年齢も知らないのだから、芥川には断定しかねるが、まだ安定しきっていない人間のものなのだと言うことは分かる。
何度注意をされても止めない芥川に諦めることもない彼女の気遣いが心地よくて、つい揶揄してしまうのかもしれない。
そんなことを考えながら、芥川は少しだけ嬉しそうに微笑む。

「ふふ、…ありがとう」

まあ、煙草をやめる気はないけどね。そう言って芥川が薄く笑うと、彼女は呆れたように「存じ上げています」と呟く。
その時、司書室にある置き時計が、音を立てて鳴った。その音に、なまえが顔を上げる。

「…あぁ、そろそろ藤村先生が帰ってきますね」

「もうそんな時間かい?」

今日芥川が助手を務めていたのは、いつも彼女の助手を務めている島崎が、有魂書に潜書をしていたせいだ。
つまり代理で、彼女が彼を迎えに行けば助手はいつも通り彼に戻るのだろう。

なまえは煙草を持っていた手を下すと、文机に置いていた帽子を再び被り、ランプへと手を伸ばす。
部屋の灯りが再び灯り、その明るさに少しだけ目が眩んだ。
芥川がぼんやりと煙を燻らせていると、目の前に灰皿が差し出される。
視線を向ければそこには既にいつも通りの顔を隠したなまえが立っていた。手に持つ灰皿には、彼女が吸っていたのであろう煙草が一本、既に火を消された状態で置かれている。
この灰皿は、何度禁煙だと告げても煙草を吸う芥川を見かねて、数度目かの際に彼女が用意したものだ。

まだ少し残っているのだが。そんなことを思いつつも、まだ吸い続ければ彼女に苦言を呈されるだけだろう。
仕方なく、芥川も手にしていた煙草を灰皿へと押し付け、火を消す。

それを確認したなまえはそのまま灰皿を机上へと移すと、司書室の窓の鍵を外し、窓を開く。
外の空気が一気に部屋の中へと入りこみ、少し肌寒く感じる風が二人の頬を撫でた。
なまえが小さく息を吸い込む。そして、芥川へと顔を向ける。

「先生、今度助手を頼むときは―」

「禁煙、だろう?分かったよ」

「……はい」

明らかに信用されていない声だった。
まあ、自身もその約束を守る気はさらさら無かったので、なまえのこれは正しい反応だと言えるだろう。
そんな彼女を横目に、彼は窓枠に手をつく。

「その代わり、今度僕の部屋においでよ。また君にも、あげるからさ」

目を細めて笑う彼のその表情は、まるで絡め捕られてしまいそうな、危うく、どこか含みのある笑みだった。
思わず言葉が詰まってしまいそうになる。これだからこの人は油断ならないのだ、となまえはそっと自身の服を握りしめた。

「…遠慮しておきます」

そう言って、「藤村先生を迎えに行ってきます」と、彼女はそのまま部屋を後にする。

「…難しいなあ」

誰に向けるでもない呟きが、煙と共に窓の外へと流れてゆく。
彼女も、本質的には自分と同じ人間だと思うのだが。
いや、それとも、同じところまで堕ちてほしい―という、自身の願望だろうか?

煙草の煙がまだ残る、匂いが取り残された部屋で、芥川はそっと、灰皿の縁を指でなぞった。
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