幼い頃に見ていた淡く儚い夢だった


 はじめて会った日のことは今でもよく覚えている。春の日差しが暖かい日だった。太陽のように明るいわけでなくて、花のように愛らしいというわけではないけれど、印象に残る柔らかい笑みを浮かべる女の子だと思った。そう、例えるなら春の日差しのような暖かいもの。それは俺の中で色濃く残り続けた。
 次にあった時は、あの日の面影など見る影もなく、何かに怯えたようにただ兄の背中の後ろに隠れていた。本当に同じ子なのか、疑うほどに。これからいっしょに暮らすのよ、仲良くねなんていう母親の声に幼いながらに戸惑う。前にいっしょに暮らしていた人とはもういっしょに暮らせないのだと軽く説明されたくらいじゃぜんぜん納得できなくて、でもそれで納得せざるを得なかったのは俺自身まだ幼かったからだ。よろしくな、そう言って手を差し出してきたのは兄の方だった。こくりと頷いてその手をとれば、兄の方は俺の頭を撫でてくれた。相変わらずその後ろで女の子は怯えていた。
 志貴兄ちゃんがいなくなって、栞はますます何かに怯えるようになった。だけど逆にどこか諦めたような瞳が、俺の中の焦燥感を駆り立てた。「俺がにいちゃんになってやるよ」毎晩静かにすすり泣く栞を覗き込んで、そういったのはただ単純に哀れだと思ったからだ。理由は解らないにしろ、年を重ねるにつれ、彼女が全てを無くしてきたのだということだけは理解できるようになった。「俺が、守ってやるから」―ただ、見たいと思ったのかもしれない。もう一度、はじめて会った日のような、あの笑顔を、見たかったのかもしれない。栞は笑う。そのときはそれで満足していた。でも返り咲いたソレは、俺の望んでいたものと違っていた。


「一馬…」

 俺の名を呼ぶおまえは、相変わらず何かに怯えたように、何かを捨てたような笑顔を浮かべる。―ちげえよ。そんなもんが見たいわけじゃない。そう言いたくて、でも言えなくて、もどかしい。

「…どこにも、いかないで…」

 誰にも本音なんか甘えなんか言えないおまえが、俺にだけはひっそりと縋るように手をのばしてくる。その手をつかんだその時、栞は他の誰でもない、俺が守ってやらなきゃって決意した。そう、決めたんだ。弱い栞を守れるのは、栞が頼れるのは俺しかいないって。だから、俺は。




「一馬、起きてる?」
「……ん」
「隣、寝てもいい……?」
「は?」

 栞からキャンプに行った後の話を聞いた夜、いまいち話の内容を把握しきれなくて、なかなか寝付くことができなかった。何度も寝返りをうって、とりあえず眠気がくるように羊を数えてみたりしたけど全然効果はなくて、どうしようかと思っていた、その時だった。遠慮がちにひっそりとした声がかけられ、起き上がると、梯子をのぼっている栞が持っている枕を抱きしめて眉をさげた。

「隣、って」
「…ごめん、最近、向こうで誰かしらが隣で寝ていたから、一人だと、その…なんか…さみしくて……」

段々と声が尻すぼみになっていく栞は、再び枕をぎゅっと抱きしめて、うかがうように俺を見た。そうなってしまえば、俺の負けなんだ。仕方ない、と大袈裟にため息をつけば、栞はその意図が分かったようにやがて笑った。それはあの日見た春の日のような微笑みとは程遠いけれど。
 けど、こうやって一歩一歩前に進んでいくと思う。いつかまた、あの日のように笑ってくれるって。だから、俺は、仕方ないなって言うんだ。

 仕方ないな、俺がお前の兄ちゃんになってやるよ。

 そう言った時、栞が笑ってくれたから。俺が仕方ないって言う度に、何かを期待するように、俺を見るから。

「……あんまり近寄んなよ、あついから」
「…照れているの?」
「ばっ!」
「顔、真っ赤だよ、一馬」
「うるせぇ!」
「あ、声…。イヴモン、寝てるから…しー…」
「あ……ごめん…」

 それから他愛もない話を繰り返すうちに、段々と眠気が襲いかかってきた。本当なら誰かがそばにいたら暑くて寝苦しいはずだろうに、心地良い眠りに誘われていくのは、隣の栞という存在が暖かかったからかもしれない。
 ふあ、とあくびをかみしめれば、「おやすみ、一馬」と声がかかる。「ん」と返事をした。

「……ねえ、一馬……」
「…ん、」
「ありがとう」
「……」

 かろうじて、ありがとう、といった声が聞こえた。それはもちろん、一緒に寝てくれての意味だろうと解釈した。その後の言葉を、寝てしまった俺はもちろん知らない。

「大好きだよ、一馬」
「……」
「……あなたのことは、私が守るから」

 その声は、深い微睡みの中に消えていった。



  
「一馬、見て。私、こんなに友達ができたの」


 するり、とその手が抜けて行ったのは、あの夏の日。俺と、そして栞の間には、見えない境界線がひかれていた。引っ張って、こっち側に連れてきてやりたいのに、決して交わることができなくなっていたことに直ぐに気づけた。それだけ、俺は栞の傍にいたのだ。気づかないわけ、なかったんだ。

 栞は笑った。周囲を見渡して、笑ったんだ。その笑顔は、初めて見た時となんら変わらない、春の陽だまりのような温かさがあった。

 ああ。俺がひとつひとつ積み重ねていったものは、いとも簡単に、奪い取られたんだ。そいつらは、栞の笑顔を戻してくれた。認めるのが癪で、顔を背けた。
 
 “でも。弱いのは、泣き虫なのは前のままなんだから。無茶だけはすんなよ。”

 初めて会った時のことを、俺は今でもよく覚えている。
 だって、その日から、俺は―――。

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