幼なじみ/人嫌いな子

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 なんとも思ったことなんてなかった。ただの幼なじみで、ただの腐れ縁で。唯一、わたしを無下にはせず、わたしを認めてくれる存在であったからこそ、なんとも思わなかったといえば語弊になるが。それでも、そこにあったのはただの深い友情で、男女の意味とは異なる愛情であるはずだった。
 ―いつからだろう。彼の言葉や仕草や動作に一喜一憂する自分が現れたのは。幼なじみというのは実に厄介なもので、昔から知っているからこそ自分を繕うことができない。ましてや、普段猫かぶりをしている自分だ。急にしおらしくなったならば、相手は不信感を覚えるというものだろう。別に、彼とどうこうなりたいというわけではない。自分は他人が嫌いだし、他人とともに生きることを拒んだ人間"なのだから。だからこの思いは不要なもので、だからこれは――恋、なのではないのだ。たとえ、彼が違う人と話し、笑っているのを見て、不愉快な思いが渦を巻いたとしても。
 「名前」名を呼ばれ、振り返る。彼は整った眉を少しだけ寄せて、わたしを見ていた。

「何怒ってんだよ」
「…ううん、別に何でもないよ」
「何でもないって顔、全然してねーぞ」

 人前でないのにこうして自分を隠すことを、彼は嫌った。

「―べつにシリウスには関係ない」

 突っぱねるように言い放って、彼に背を向けた。このドロドロとした感情を、知られるわけにはいかなかった。

「…関係ない、か。なら、いいけどな」

 つぶやかれた言葉に、つきん、となぜか心臓が傷んだ。「あんまり無理すんなよ」ぽん、と頭を撫でられた。彼は踵を返した。思わず、その手を掴んだ。

「名前?」
「……」
「……黙ってたらわかんねえぞ」

 頭をゆっくりと撫でられる。その心地よさに、その暖かさに、涙がこぼれそうになった。この感情は――恋ではないはずだった。



 「名前」名を呼ばれ、振り返る。笑顔を浮かべることを忘れず、勝手に名前で呼ぶなと心の中で悪態をつくことも忘れずに。
 「なあに?」わたしは同じ寮であるはずのこの人の名前を知らなかった。興味すらなかった。だから名前を呼べなかった。知らないのだから、呼べるはずもないのだ。けれど笑顔を浮かべれば、誰も疑いもしない。わたしは、他人にとってただのいい子になれた。
 「あのね」なかなか煮え切らず、なかなか先に進まない話に焦れて舌打ちをしそうになったが、それをこの名前がするわけにはいかない。笑顔でその先を待ち続ける。うっすらを頬に赤みが刺したのを見て、冷たい何かが背中を通り過ぎていった。

「名前て、シリウスと仲いいわよね…?」
「…幼なじみ、だから」
「…私、彼のことが――」

 それから先のことは、あまり覚えていなかった。ただ無性に彼の顔が見たくなって、無性に、やるせなくなった――これは恋なのかもしれないと思った。  



「名前」名を呼ばれ、振り返る。その姿を認めたときに、すとんと何かが落ちた気がして、頬を何かが滑り落ちた。涙だった。
 
「リリー、」
「最近、元気ないわね」

 手をぎゅっと握られ、顔を覗き込まれた。全てを見透かすように瞳に、すがりつきたくなった。

「ブラックのこと、避けてるの?」
「……」
「そうやってすぐに黙り込んでしまうの、あなたの悪い癖よ。…ねえ、ブラック、凄く心配してて。ブラックだけじゃなくて、みんなもだけど」

 首を、横に振った。だって。だって。この思いが、明るみになってしまいそうで。「…好き、なの?」びくんと肩が跳ねた。暴かれるのが怖かった。こんな"人間"が誰かを好きになってはいけない。
 だって、わたしは、わたしは。

「…あのね、名前。私凄くは嬉しいわ」
「…うれ、しい?」
「ずっとあなたは全てを拒絶していたように見えたから。私は付き合いは短いけれど、それくらいは分かるのよ。ブラックってのはちょっと頂けないところもあるけれど、まあ彼も良いところもあるし、素敵なことだと思うわ」
「……わたし」
「何も怖いことじゃないのよ。それって、当たり前のことなんですもの」
「リリー…っ」

 抱きしめてくれた彼女の腕の中は暖かくて、思い知った。彼の手が何よりも愛おしくて、何よりも暖かかったことを――そして、それが恋だということも。



 「シリウス、」小さい声で、名を呼んだ。あまり響かない声色だったけど、彼はすぐに私を振り返った。その顔に浮かんだのは、いつもよりもずっと優しい笑顔だった。ドキン、と心臓がたかなった。
 「顔見せねーから病気でもしたんじゃねーかって心配してたんだぞ」駆け寄ったその手が、わたしの頭に触れた。あたたかかった。溢れ出た思いに、反応した何かが頬を滑り落ちた。「なんで泣くんだよ」呆れた声に、でも優しさを含んだ声に、ますます涙腺はゆるくなる。手が頬に触れ、涙を拭った。瞬間、触れられた箇所が熱を帯びた。

「シリウスの、せいだもん…」
「は?俺の?」
「しりうす」
「なんだよ」
「ばか」
「はいはい」
「きらい」
「はいはい」

 ぽすんと肩口に額を預ける。ぐすりと鼻をすすった。相変わらずその大きくて温かい手は私の頭を撫で続ける。

 「シリウス、」「今度はなんだよ?」――( 好き )――声を出す勇気がなくて、心の中で告げる。でもきっと、これは彼にも届いているのだろう。不安が胸を占めて、きゅうと苦しくなる。こんな思い、するなんて予想もしていなかった。触れられていた手が、背中に回る。驚いて身を引こうと体をよじれば、強い力で抱きしめられた。全身が熱くなった。そろりと上目で彼の顔を覗き見る。

彼は、やっぱり、笑っていた。

ほのかに色づいていく恋ゴコロ

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