これは悪い夢だ。現実であるわけがない。―現実であっては、ならない。どうしてみな騒いでいるのだろう。どうしてあの子は泣いているのだろう。呆然と立ち尽くすわたしの手の中で、あの日、ダンスパーティーの夜、彼から渡された手紙がぐしゃりと握りつぶされる。それはまるで、遠いあの場所で地面に伏せて倒れている彼のように。


 これは、悪い、夢なんだ――。




 大丈夫だよ、と柔らかい声色が耳元に届く。拗ねるようにそっぽを向く私に、困ったように苦笑を浮かべ、私の名を呼んだ。それだけでこんなにも胸がざわめく。視線を彼に移すと彼の灰色の澄んだ瞳と目が合う。ほっとしたように微笑むセドリックに、また、胸がざわめいた。


「名前、勝手に決めてごめん。でも僕は試してみたいんだ」
「そんな風に言われたら…何も言えなくなる…」
「うん、そうだね。…ごめん。…そうだな、僕は自信がほしいんだ」
「セドリック、あなたは成績優秀だしクィディッチではシーカーで…それ以上何がほしいっていうの…」
「…それは――」


 彼は何かを言いかけ、そして口を噤んだ。曖昧に笑い、なんでもない、と首を横に振る。


「セドリック?」
「選ばれたからには僕は優勝を目指すよ。…そして優勝できたら、君に伝える」
「え」


 灰色の瞳が、真っ直ぐわたしを見つめる。遠慮なく心の内を暴くような色に、耐え切れなくなって視線を先に逸らした。
 三大魔法学校対抗試合には死すら付きまとう。危険な試合だということは誰もが知っている。その危険を乗り越え優勝できたものは、栄光を手に掴むことができる、と。それでも危険であることには変わりないし、みんなはセドリックが選ばれたことに対して大いに盛り上がっているけれど、わたしはただ怖かった。どうしてセドリックが代表選手に選ばれてしまったんだろう、と。
 


「名前、あの」
「…な、なに…?」
「―――なんでもない。じゃあ、またあとで」


 大きくて優しい掌が頭に乗る。初めて会った時から変わらない体温だった。
 彼とは、ホグワーツに入学して直ぐの魔法薬学の授業で隣の席になった。スネイプ先生の圧や、他の寮生の目が気になり、もたつくわたしに、こうした方がいいよ、と優しく教えてくれたのが、彼だった。今よりも少しばかり幼いが、ハンサムな顔立ちに、今より少しばかり高い、優しい声。恥ずかしさと気まずさから、小さな声でしかお礼を言えなかったわたしに、優しく、温かく微笑んでくれた。それから、何の縁か、彼とはよく隣の席になることが多かった。お世辞にもあまり出来の良くないわたしが、頭のいい彼のお世話になることは自然と多くなっていった。特に魔法薬学はスネイプ先生に対する苦手意識から一番苦手な教科で、いつもミスをしてはスネイプ先生にねちねちお小言を漏らされていた。


「…わたし、本当、だめだね。何一つ自分じゃできない…」
「そんなことないよ」
「いつも迷惑ばかりかけてごめんね…」
「僕がしたくてしてるんだから構わないよ。それに、名前は頑張ってる。前は出来なかったことが、今ではちゃんとできるようになってるじゃないか」


 そう言って、大きな温かい手は頭を撫でる。男の子に触られた経験なんてないわたしは吃驚して身を強張らせる。その様子に、セドリックは声をあげて笑った。


「大丈夫だよ、名前。僕はいつでも君の味方だから」


 誰にでも分け隔てなく優しく接することのできる彼は、直ぐに人気者になった。女子生徒が彼に恋をすることは多かった。わたしが彼に惹かれるのと同じように。
 それでも、一番近い距離にいる女子は自分だと思っていた。はじめて話したあの日から、あの瞬間まで。


「チョウ、あの…、よかったら僕とダンスパーティー一緒にいってくれないかな?」
「私でいいの?喜んで!」
「ああ、ありがとう」


 偶々、その瞬間を盗み見てしまった。変に心臓がバクバクなって、苦しくなった。そうか。一番は、わたしじゃなかったのだ。彼女は確か、レイブンクローのシーカーだ。同じシーカー同士、そういう関係になっていたのだろう。わたしが、何かを言える立場ではない。立場じゃ、ない。和やかに、楽し気に話す二人を背に、直ぐにその場を立ち去って、 大声でわんわん泣いた。
 ダンスパーティーには行かないと決めた。女々しいやつだと笑われるかもしれないけれど、彼とあの子が微笑み合って踊る姿なんて到底通常の精神で見れるわけなかったのだ。


「名前、ほら何やってるのよ!始まっちゃうわよ」
「行かないからいいの…」
「なに腐ってるの。ほら!」
「やだって…!」
「もう!――やだ、もうこんな時間。私先に行ってるから早くきなさいよ!」


 豪華なドレスに身を包んだ友人を見送り、ベッドの上に転がり込む。あれから、わたしは彼とろくに話もできなかった。いつも通り笑顔で声をかけてくれるのに、曖昧な返事しか返せず、姿を見かけると遠く離れた。姿を見てしまうと、何故かその横には彼女の姿さえ見えるような気がしたから。
 どれほど、そうしていただろうか。いつの間にか眠ってしまっていたらいしく、見上げてみれば窓の外の景色は暗く、夜が更けていることを悟る。友人に怒られるな、と他人事のように感じながら、女子寮から静まり返った談話室へと降りて行った。
 

「名前」
「……っ」
「姿が見えないからどうしたのかと思って」


 タキシード姿に身を包んだ彼は、文句の付けどころがないほどカッコよくて見惚れてしまう。でもその姿は、彼女のためだけにあったのだ。そう思うと苦しくなって、つい視線をそらしてしまった。


「ちょっと体調優れなくて寝ていたの。心配かけてごめんなさい。わたしは大丈夫だから、あなたはまた楽しんできて」
「…名前、僕は何か君を怒らせることをしてしまったのか?」
「…なん、で?」
「最近、僕のことを避けているようだから」


 確信をつかれて、ドキリとする。そんなことないよ、と慌てて繕うけれど、真っ直ぐわたしを見つめる灰色の瞳は嘘を許してはくれなかった。


「わたし…、…わたしがいつも一緒だとチョウが悲しむんじゃないかなって思って。わたしはもう一人でも大丈夫だから、チョウの傍に――」
「…どうしてチョウが出てくるんだい」
「だって、あなたとチョウはカップルなんでしょう?今日だって一緒に」
「今日、ダンスパーティーにチョウを誘ったのは、彼女が気心がしれた友人だからだ。…本当は、君を誘うつもりだったんだけど」
「え……?」
「君はあまり目立つことが好きではないだろう?選手代表は最初に踊らなければならないから自然と目立ってしまうから」


 呆気にとられ何も言えなくなったわたしの手を、セドリックが強く握った。いつも優しく触れる手が、熱をもち、強く。思わず身じろぐわたしに、彼はあの日―選手代表になった日と同じく、何かを言おうとして、それからやはり口を噤んだ。


「……名前、これを君に渡しておく」
「…羊皮紙…?これ、何が」
「これを、三大魔法学校対抗試合が終わったあと、読んでほしいんだ」
「今じゃ、なくて…?」
「ああ。僕は必ず優勝する。だから…その時、君に読んでほしい」
「―――わか、った」
「ありがとう」


 先ほど強く握られた手を、今度は優しく触れられる。やっと、いつもの彼のような優しい笑みを浮かべてくれた。久しぶりに近くで見る、わたしに向けられた笑みに、心が躍る。だから、わたしも。つい、口がすべってしまった。


「わたしも…、その、三大魔法学校対抗試合が終わったら…でいいんだけど…話したいこと、あるの」
「……分かった。全ては、三大魔法学校対抗試合が終わってから、だね」
「うん」


 思い出すのはとるに足らないいつもの日常と、少しだけいつもと違った日常。わたしの日々の生活すべてが、セドリックにつながっていた。
 父親に抱きかかえられ、セドリックの亡骸は、どこかへ消えていった。わたしはただ、呆然とそれを見送った。手の中の羊皮紙は、ぐしゃぐしゃに握りしめられ、汗でじっとりと湿っていた。
 翌日、ダンブルドア校長から、セドリックの死について告げられた。そ例のあの人が復活したのだとか、セドリックは勇敢だった、とか。何一つ、頭の中に入ってこない。昨日まで笑っていた彼が、もう、この世にいないことだけはすんなり理解はできたのだが。

 すすり泣く寮生に、あんたは薄情だ、と罵られた。涙一つ流さないわたしのことが信じられないのだろう。あの時はすぐに泣けたのに、何故今泣くことができないのだろう。


「わたし、へんだなぁ…」


 そういえば、とぐしゃぐしゃに握りつぶされた手紙を開いた。寮生たちの泣く声が響く中、しわだらけになってしまった羊皮紙の中には、彼の、実直な性格がよく現れた文字で書き記されていた。



「ぁ………な、ん…で……ッ」



 ――始めてあった時から、君のことが好きだった。


 かろうじてその文字が読めた。それ以上は、零れ落ちた涙でにじんで、かすんで、見えなくなってしまった。
 今更になって、彼の亡骸が頭の中でフラッシュバックする。仰向けに倒れ、泣きすがるハリーポッター、泣き叫ぶ父親の手がいくら揺さぶっても動くことはない肢体、見開かれた灰色の瞳。嗚咽が口唇から洩れていく。泣いてしまったら、彼の死を認めてしまうようで心の中を空っぽにして何も考えないようにしていたのに。


「やだ、やだよ、セドリック…ッ」


 何一つ返せないまま、何一つ伝えられないまま、わたしは永遠に彼をうしなった。

もういないあなた

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