玉狛A級隊員/木崎いとこ

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「めずらしい」

 机に伏せて寝る三輪との遭遇率は極めて低いだろうから、もしかしたら今日は逆に運がいいのかもしれないと独り言ちてから、その姿に近寄る。いつもは警戒心むき出しにして、眉を寄せて吊り上げ、鋭い眼光で睨み上げ、のコンボを喰らうため、中々近寄ることができずにいたので、こうして彼のパーソナルスペースに入れることが更に珍しい。

「ううんと…でも…こまったなぁ」

 彼が隊長を務める三輪隊の隊室には彼以外の姿が見当たらない。米屋あたりがいるかと踏んできたのだが、まさかの三輪がいたとは、大誤算だったようだ。―彼女は三輪に嫌われているのだ。彼女は、という個人あてというよりは、彼女が所属する支部にむけての感情だろうが、目が合っただけで上記のようなコンボをお見舞いされ、挙句の果てには罵倒される。彼女自身、三輪に対してはどちらかといえば好意を向けているのだが、あからさまな敵意を向けられては気軽に話しかけることもできない。用事があるときは必ず三輪の理解者である米屋を通していた。その米屋は今はいない。おそらく個人ランク戦か模擬戦でも行っているのだろう。
 渡すべき書類と、眠る三輪を見比べ、どうしたものかと首を傾けた。そもそも滅多にくることのない本部に来て、どうして嫌われているであろう三輪隊の隊室にいるのかと問われれば、たまたま会った忍田本部長にお使いを頼まれたからだと理由は簡単だった。もし時間があったらこれを三輪に届けてほしい、と言う彼はずいぶんと忙しそうだったので、二つ返事でOKした。彼女の用事という名の林藤からのお届け物はもう済んでいたので、新たなお届け物を受け取ったに過ぎなかった。

「さすがに置いて帰ったら無責任になるのかな」

 起こさない程度にぽつりとつぶやいて、書類を見つめる。手の空いている人間に渡すくらいなのだがさほど重要なものではないのだろうが、紛失などあっては事故になってしまう。そしてその責任は届けることを任せられた彼女が背負うことになる。かといって三輪を起こす勇気はあまりなかった。健やかな眠りを起こしたのが嫌っている相手だと知った時の三輪の反応が手に取るようにわかるからだ。いくら名前でも嫌悪感をむき出しにされた相手にへらへら笑って接することはできない。よって三輪と対峙するときはいつもキリッと表情を引き締めていた。
 せめて米屋とは言わないから、誰かが戻ってきてくれれば、と願いを込めてドアを見るも、その戸が開くことはなさそうだ。三輪以外の隊員とはそれなりに友好的な関係を築けていた。奈良坂にしろ、小寺にしろ、月見にしろ、むしろ会えばよく話してくれたので、本当に三輪だけなのだ。

「どうするかな、…ちょっと失敬して腕の隙間に挟んで忍田さんの名前でメモ残しておく?」

 ちょうど三輪は腕をクロスさせてその上に頭を置いている状態で眠っていたので、起こすことが出来ない今はそれが一番有効であると感じた。しっかり挟ませてもらえばなくなることはないだろう。ちょうどテーブルの上に何枚かのルーズリーフとペンが置いてあったのでそれを借りて、忍田の字に見えるように少し丁寧に文字を書いていく。どこからどう見ても成人男性の字には見えないが、名前は確かな手ごたえと満足感に浸った。

「よし………と、それにしてもよく寝てるなぁ」

 書類とメモを重ねてから三輪の腕の隙間に入れ込もうと腰を落としたとき、よく眠る彼の顔が目に移った。いつもの鋭い眼光は閉ざされていたので、少しばかり柔和な印象を受けたが、その目の下にはくっきりと隈が浮かんでいるのが分かって眉を顰める。普段からあまり眠れていないのだろうか、そういえばこの前会った時も目の下に隈があった気がする。―玉狛に“彼”を迎え入れ、ボーダーへの正式な入隊が認められたときくらいからか。
 “彼”―近界民。そして三輪は、復讐のために生きている。己の大切なものを奪った近界民を決して許しはしないと。そもそも、彼が名前が所属する支部を嫌う理由もそれにある。玉狛は、異端だ。敵であり、侵入者である近界民を庇う。―なぜ。あいつらは、人々の安穏な生活を奪い、 ころしたのに。

―――…秀司は真面目なんだよなあ。だから余計に深みにはまりこむ。

 いつだったか、からりと笑って告げたのは、やっぱり彼の良き理解者である米屋だった。
 確かに、誰もが近界民に対する恐怖心におびえ、実際に命を奪われる今、彼らに対して格別な憎悪を抱かず、懐柔している玉狛は異端なのかもしれなかった。三輪は真面目ゆえに、敵であるはずの近界者を、“彼”を迎え入れたボーダーに対する困惑が隠せないし、あえていうなら許せないのだ。

「……ごめんね、」

 別に名前が悪いわけではない。考え方の違い、生まれ育った環境の違い、もろもろ、言ってしまえばそれまでだが、名前はぽつりとそう口にして、手を伸ばし、その髪に触れる。―確か姉がいたはずだ。詳しいことは知らないが、その姉を目の前で亡くした、と。愛していたに違いない、たった一人の姉だ。―もし、目の前で、木崎を失くしたら、とか。迅や、小南や、烏丸や、宇佐美や、陽太郎や、林藤たちを失くしたら、とか。四肢が凍り付き、憎しみに支配される。喪失感に、心が殺されるだろう。出口のない迷宮に迷い込むだろう。三輪は、ずっとその中にいるのだ。姉を失くした、その日から。
 歳でいえば、三輪はたった一つしか違わない。れっきとした高校男児であるが、迷い子のような苦しそうな寝顔に、恥ずかし気もなく、名前は触れた髪を撫でた。ゆっくり、ゆっくり。


「…きっとおねえさんは、三輪くんの幸せを願ってるよ」


 まるで陽太郎にするように、頭を撫でてみる。指の間をすり抜けていく細い髪を羨ましく思いながら、ゆっくり、ゆっくり。
 彼の姉のことは知らない。だがもし自分に弟がいたら、…血の繋がりはないけれど、弟のように大切に思っている陽太郎のことを思い、家族のように思っている玉狛のみんなを思って、呟いた。自分だったら、大切な人の幸せを願う。そう、おもって。

「私も、嫌われてるけど、三輪くんの幸せを願っていいかな」

 もちろん、返答はない。それは三輪が寝ているからなのだが、その強張った頬が、苦し気に寄せられた眉が、次第にゆるみを帯びていくのが分かって、名前は手をおろす。壁にたてかけられた時計を見て、あわてて書類を腕の隙間に押し入れた。―かえらなきゃ、ごはんの時間になる。今日は木崎の当番の日なので、彼女の好物の肉肉肉野菜炒めの日だ。無造作に置かれていた学生服の上着を彼にかけ、パタパタとドアに向かった。
 最後に一度、振り返る。その向けられた背が、すこし、震えていた気がした。

「……いい夢を」

 ぴくり、とその背が揺れたが、名前がそれに気づくことはなかった。


きみの幸せを願えたら

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