来客用にと部屋の中央に置かれた机には、二人分の
「《羊》だなんて趣味悪ぅい」
「取引」と称し、森からの依頼を完遂させた報酬として受け取ったもの。深透が必要とするもの。それは両親の死に方と、それから《羊》と呼ばれる組織についての情報だった。
依頼内容は単純で曖昧なものだ。
――ポートマフィア首領近辺を探れ
ただの女学生には到底成し得ない依頼だが、その役を取りされば出来ないことでは無い。父の書斎、母の衣装部屋、悪戯に遊ぶなと言われていた地下倉庫、規則性なく置かれた調度品で埋めつくされた応接間、
途中、見付けてくれと言わんばかりの置き方に疑問を抱いたが、今は見ない振りをして。それらを元に組織内部、首領の対人関係、取引先、対立組織。加えて、少しでも足りないと思う情報があれば自ら潜入を試みた。
そうして掻き集めた、依頼への応え。きっと、恐らく、深透を自身の手の内に収める為に示した過程だろう。理解した上で少女は一番泥で濁った、太陽も無くただ落ちるだけの汚い道を選んだ。
結局のところ、何でも良かったのだ。まるで子の成長を喜ぶ親のように、森は滅多に見ない晴れやかな笑みを浮かべながら深透の応えを受け取ったのだから。必要な情報を得られたからなのか、それとも深透が想像以上の働きをしたからなのか。若しくは両方か。
椅子から立ち上がった深透は資料を一枚手に取って細く丸め、書斎机の引き出しからジッポを取り出して其れに火を付けた。細く弱く上がる火が消えないように窓際の暖炉へと移動して、無造作に置かれた薪の上へそっと置く。火がしっかり燃え移るよう薪に残っていた僅かな水分を異能力で飛ばせば、火は暖炉の中で簡単に大きくなった。
集めた情報の内、有益だと判断されたものは全て森の手に渡った。であれば残りは不要であるし、只の女学生の身には不要な産物だ。深透は山積みになっていた紙を一枚ずつ暖炉へと焚べていく。
其の眼にはちらちらと火が映っているが、感情は見えず、ただ瞳孔の奥は深淵。
最後の一枚を焚べ終えた深透は火掻き棒を手に取り、暖炉の中で薪と燃え殻となった紙をゆっくりと広げていく。残った火がぱちぱちと小さく弾く音を聞きながら、中央の机にあった水差しの水を
「寒いなぁ」
深透の異能力によって操作された水は暖炉の中で薪と燃え殻に灯っていた光に被さり、そして短い命を
曰く、父の原因は不明だが自死に間違いはない。
曰く、母は《擂鉢街》で撃たれて死んだ。目撃証言によると、その場から“青いバングル”を付けた少年が逃げるように立ち去った。
「君のご両親に関して分かっているのは此の二点だ。組織内部専門暗殺者がひとり、幹部直轄部隊構成員がひとり死んだ。
「ありがとう、鴎外叔父様。先程の《羊》の話と、それだけ分かれば動ける」
「深透くんがそう云うなら、構わないのだがね」
「うん」
「今からでも遅くはないのだよ。一言云ってくれれば、人員を割く手配くらいはしてあげよう」
「叔父様ったら。これは
「……甘やかしてるつもりは無かったんだけどなぁ」
そんな会話をしたのも数刻前。深透はセーラー服のスカーフを正して、精巧な蛇の頭が装飾された杖を持ち直す。立ち込める匂いに鼻をつまみたくなるのを我慢して、意を決して汚れた
腐敗、汚泥、僅かな硝煙。
それらが入り交じった匂いが嗅覚を捻じ曲げ、脳を締めるような頭痛が深透を襲う。
……これだから擂鉢街の調査は避けていたのだ。
ヨコハマ租界近く、半球体系に抉れた土地に造られた街。行く宛ての無い人々が生活を求め、流れ着いた廃れた街。
深透が暮らしていた環境とはまるで違う其処は、ヨコハマでない何処か別の国のような異様さを醸し出している。漂う臭いも、視界に入る物も、聞こえる音も何もかもが
時折建物の影から向けられる好奇の視線を無視しながら、躊躇う事無く歩を進めていく。何処に繋がっているか分からない太い
――擂鉢街にいた青いバングルの少年。
それはあまりに分かり易い、ひとつの組織の特徴だった。バングルや少年だけならば一般人とも思うが、そこに死の香りがあるのであれば大体は絞り込める。
未成年のみで構成された互助集団、名を《羊》。
十中八九、関与しているのは間違いない。只でさえポートマフィアは恨みを買いすぎているし、その構成員だった母を殺していた所で何ら不思議はない筈だ。仮に推測が間違っていたとしても、擂鉢街で起きた出来事ならば知る者の一人は居るだろう。
「そ、そこの、そこのお嬢ちゃん」
背後から掠れた声が掛かる。振り返れば、ブルーシートを屋根代わりにした粗末な家から、
喉を振るわす事すらままならない、そんな彼女の声が聞こえるよう深透はゆっくりと老婆の方へと近付いた。
「こんにちは、御婆様。今日はとても良い天気ね」
「青、それは青い髪だ」
「えぇそうよ。母から継いだ、大好きな青い髪なの」
「きれいだねぇ、きれいだねぇ……」
「ありがとう。ねぇ教えて、私と同じような青い髪の女性を知ってる?」
「知らないねぇ……あぁ本当にきれいな髪だ、あたしの髪はもうおっ
「御婆様は面白い事を云うのね!髪はただの死んだ細胞なのに」
曲がった腰を擦りながら、老婆は空いた手でそろそろと深透の髪へと手を伸ばす。彼女の指先が触れる前に、深透はぶつりと自身の髪を数本引き抜いた。そしてその数本で器用に三つ編みを作り、細い紐にも見えるそれを、行き場を無くした老婆の手にそっと握らせた。
「全てはあげられない。分かってくれる?」
「え、あ……髪、綺麗な青い髪が……」
「ふふ!陽に照らすと海の底みたいな色になるの」
「あたしはただ、お、お嬢ちゃんの髪が、きれいで」
狼狽える老婆の手にそっと自身の手を重ね、ゆるゆるとその場に腰を下ろした彼女に合わせて深透もしゃがむ。呼吸が乱れている彼女を落ち着かせるようにその肩を撫でれば、薄い皮と骨だけの小さな身体を震わせた。
「……御婆様。もう
「ごめんね、ごめんねぇ……」
「心優しい御婆様。良いのよ、良いの。ほらお前の言葉で私に教えて、青い髪の女を見たと」
老婆はただ悲しそうに唸るだけ。だが、僅かに縦に振られた頭を深透は見ていた。ふっと深透が笑みを零せば、老婆は喉をひくひくと不規則に鳴らす。それがもう枯れてしまった涙と嗚咽と気付き、深透はそっとその小さく震える身体を抱き締めた。
「私はお前を利用するわ。お前も私を利用して」
祈るように両手を重ねる老婆を、折らぬように。