献身
「……これは不味い、中也が“汚濁”状態になってから10分以上経ってる」
太宰の額に冷や汗が伝う。
周囲は木々で覆われており、先程まで居た筈の廃墟から
何れ程離れてしまったかすら定かではないが、中也へ手の届かない場所まで弾き飛ばされてしまった。恐らく場所移動の異能力者の仕業であろうが、事前情報では数百メートル程度の移動だったはず。
早く戻らねば中也が保たない。
しかし太宰には瞬間移動なんぞする術もなく、また申し訳程度に連れていた部下も散り散りにされており、身一つでどうにかせねばならない。
最適解を模索しつつ、兎に角少しでも中也に近付くべく、太宰は爆発と煙が上がっている方向へと駆け出した。
「莫迦、私の領域で下手に動かないで頂戴!」
「ッ深透さん?」
突然肩を鷲掴みされたと思うと、そのまま抱き込まれて木の陰へと引き込まれる。珍しく息が上がっており、携えている鋼鉄製の黒傘と白く柔い絹のシャツが血塗泥々に汚れている。
深透が直前まで激しい攻防戦を繰り広げていた事が伺えて、太宰は思わず顔を顰めた。
「何故……否、そうか」
「もう、次から次へと切りが無いったら」
「今、敵が一人減ったよね?」
「えぇ。代わりにお前が出てきたけれど」
突然出現したと思えば一人で何かに納得する太宰に、深透は大袈裟に溜息を吐いた。
今回の仕事は「ヨコハマでの勢力拡大を企てている外部組織、及び根城としている廃墟の壊滅」である。異能力者が数人居るとの事前情報があった事、頭数だけは揃っている事を加味し、“双黒”と合わせて深透も参加する事となった。
場所が街から離れた山中であり、異能力者同士の激突が予想された為に最低限の部下を率いて作戦に臨んだ。本丸は太宰と中也が、周辺の雑兵は深透が。効率的であり、合理的な別行動ではあったが少し読みが外れたらしい。
遠くで唸るように響く轟音。それ以外は風が木々を揺らす音しか聞こえないのだが、深透には
視えているのだろう。太宰を抱き込んだまま、素早く
指鳴らしをしたと思うと何処かで悲痛で悲愴な悲鳴が上がった。
太宰が背を預けて寄りかかれば、柔い胸を伝って、ゆったりした鼓動がとくとくと打っている。
……少し落ち着いた。二手も三手も隠し持っている深透の事だ、頼めば叶えてくれると根拠の無い安堵が湧いてくる。
「状況は」
「作戦遂行は問題無いよ」
「此方も殆ど片は付いてるけれど、それで?」
「中也が汚濁を使ってる。
如何にかして戻りたい」
「……そう。ならば中也の後に私にも《
人間失格》掛けて頂戴。少し無茶をするわ」
「死なない程度で宜しく」
「お姉さんに任せなさい」
「一つしか違わない癖に……」
うふふと笑い、深透は自身に寄りかかっている太宰を抱き上げて米俵のように担いだ。飛んでくる文句を流し、黒傘の石突きを勢い良く地面に叩き付ける。
「何するのさ!」
「お黙り。私に触れないように掴まってなさいな」
途端、ぞわりと肌が粟立つのを感じた。
何度か見た事がある動作ではあったが、深透からは今までと比較出来ない程の気迫が漏れ出ている。本能的に
喰われる、そう感じる程の物だ。
「反響定位最大解放。対象、捕捉」
葡萄茶の紅を引いた薄い唇を三日月に歪ませ、不穏な言葉を綴る。
深透が有する水分子操作の異能力は、本人の技量がそうさせるのか、その使用方法は応用に富んでいる。時に太宰の想像すら超えて来るのだから、規格外と云っても良い。
深透が
何かしようとしているのを察してか、刺すような殺気と共に何処から音も無く僅かに生き残っていた雑兵が飛び出して来る。銃口を向ける者、ナイフの切ッ先を向ける者、何らかの異能を発動させようとする者。深透との交戦でここまで残っているのだから決して弱くはない。
「要素構成、疑似
海中展開」
しかし彼等は身体が倒れ、心が手折れ、命が斃れた。
深透から発された言の葉と共に、ある者は腕が、ある者は脚が、ある者は腹が干からびて絶命していく。何とも
酷いなぁ、等と感じてもいない事を思いながら、太宰は深透の服を掴んでいる手に力を込めた。
深透の言葉通りなら、恐らく未だ見た事がない異能の操作をする筈だ。しかし、“無茶をする”と云うのならばまず間違いなく深透への負荷は計り知れない。
「……深透さん」
「息を止めておきなさい。“然れど深潭より
出づる者 身を知る雨に沈溺す”――異能力、《
泥濘從這出づる
睡蓮》」
深透がたぁんと地を蹴り上げると、その身は宙に浮いた。否、まるで
水中にいるかのようにゆるりと重たい圧が掛かり、ふっと息を止めれば一瞬にして周囲の景色が変わった。
身体を捩り木々を避けながら、海中を泳ぐ鯱のように荒々しく、獰猛な速さで進む。
体感は1分にも満たないような、何分も経ったような気がした。ぎゅっと目を瞑ってひたすら息を止め、肺が酸素を求めて限界を迎えた瞬間、ぽーんと太宰の身は放り投げ出された。
「ッ太宰、お願い!」
漸く吸い込んだ空気に硝煙と土埃が混じっている。開いた視界には瓦礫の屑と化した廃墟と原型を留めていない敵、そして“汚濁”の
痣に肌を埋めつくされた中也が理性無く嗤っている。
後方で鼻と目から血を流して深透が笑んで倒れ込むのを横目に見ながら、太宰は脚をもつれさせながらも放られた勢いを殺さずに中也に向かって駆ける。此方に気付いた中也はにんまりと口角は上げ、言葉にもならない叫声が大気を震わせた。
「――ッ中也!!戻って来い!!」
蒸発してしまいそうな程の熱気を身に受けながら、太宰は中也に向かって千切んばかりに腕を、寸でも早く届くように指先を伸ばした。